(4)


 いつもは胸が弾むはずの水曜日が、その日は朝から鉛を飲み込んだように体が重かった。来てほしくなかった日が、ついに来てしまった。



 伊原の住むアパートの前で、深呼吸をした。大丈夫、上手くいく。今日さえ乗り越えれば、私たちは自由になれる。



 部屋の番号は予め神堂に聞いていた。古びた階段を上がり、インターホンを押す。狂ったように鳴く蝉の声が、やたらと耳障りだ。伊原に会いたかった。だけど、会いたくなかった。



「いらっしゃい」


 開かれた扉の向こうに、眠そうに目を擦る伊原が現れた。いつものジーンズと、変なTシャツ姿。


 お母さんは仕事で、妹は学童保育に行っているらしい。何も考えずに来てしまったが、たまたま家に誰もいなかったことに安堵した。



「何か飲む? 麦茶か水しかないけど……」


 キッチンに立つ伊原が振り返り言った。その光景に、なんだか泣きそうな気持ちになる。



「ありがとう。麦茶もらっていい?」


 伊原は頷き、冷蔵庫からポットを取り出してグラスに注いだ。



 動画を撮るためには、なんとかして伊原の隙を見つけて、スマホをセットしなければならない。いつ家族が帰ってくるか分からない以上、仕掛けるなら、彼の部屋の方が都合が良い。



「伊原の部屋が見たいんだけど……いい?」

「いいけど、何もないよ」


 急な誘いを不審に思われるかと思ったが、伊原はすんなり部屋へと案内してくれた。狭いけど、整頓された部屋だった。伊原らしいな、と思った。



「ごめん伊原……。なんかお腹痛くて……薬とかないかな」


 嘘をついた。スマホを仕掛けるには、彼を部屋から追い出す必要があったからだ。



「マジか、ごめん麦茶合わなかったのか」


 伊原は心配そうに、私の顔を覗き込んだ。私は、伊原の顔をまともに見られなかった。顔が近い恥ずかしさと、下手な演技がバレたらどうしようという不安と、彼を騙している罪悪感。色んな感情がごちゃ混ぜになっていた。



 伊原は薬箱を探してくる、と言い、部屋から出て行った。今がチャンスだ。絶対に失敗は許されない。今日で全てを終わらせるんだ。

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