閑話 下の名前で呼んでほしい 

 ある日、自席で「このすば」を読みふけっていたとき。


「ねぇ、城ケ崎くん」

「……委員長」


 俺の机の前に仁王立ちし、不機嫌そうな顔で腕を組んでいるこの女子生徒は、我らが二年八組のクラス委員長。前髪をちょこんと留める、水色のヘアピンがトレードマーク。


「今ちょっといい?」

「ああ、まぁ」


 ブラウンの滑らかなミディアムショート、真面目さが際立つ端正な顔立ち、意志の強そうなブラウンの瞳。

 その瞳が、俺をきっと捉える。


「君さ、国語のプリント出してないでしょ」

「……え?」

「現代文のプリント。先生から催促されてるよ」


 はて、現代文、現代文……。げん、だい、ぶん……?


「ああ、俺まだ高2だからその教科習ってねーわ」

「冗談は通じませんよ。私、先生から頼まれて来てるんだから」


 クソ、教師の犬め……。


「(深いため息)。……もうみんな出したのか?」

「ちょ、ちょっと何言ってんの? 期限は先月! 先月だよ! もう一か月も前の宿題だよ?」

「何ッ!? まことか!」

「まことです」

「なっ、なんでだッ……! 毎日コツコツ進めてたのにッ……!」

「……もしかして、単純に忘れてたとかじゃなくて、真面目に取り組んでた上で一か月だったの!? プリント一枚だよ!? 三十分もかからないよ!?」

「俺はそのくらいかかるの。 個人差があるの!」

「え、いや、うそぉ~……」


 マジでグロイものを見たような、ひどく怯えた顔で俺を見つめる委員長。……極めて失礼だと思います。


「……おい、下水道を覗くような目で俺を見るんじゃない。国語が苦手なのは俺の個性だ」

「欠点、短所、瑕疵かし、ウィークポイント、デメリット……個性? んん~?」

「似た言葉を並べ立てるな、それら全部まとめて個性なんだよ。俺が環境委員なのも個性で、俺が城ケ崎譲なのも個性。委員長がクラス委員長なのも個性で、委員長が、……っとその、……委員長なのも個性だ」

「……ちょっと待って。……ねぇまさか、私の名前知らないとかないよね? まさかね?」

「いっやいやまさかそんなコトあるワケないですよぉ」

「そっ、そりゃそうだよねー! 去年も一緒のクラスだったしさすがにだよねー! ……でも、一応ね? 一応言ってみてもらえるかな?」

「委員・長」

「ふざけんな」


 机の下から足を軽く蹴られた。軽く痛い。


「ねぇ、去年も同じクラスだったんだよ? さすがにそれはないよね?」

「だから知ってますって。……今思い出すからちょっと待っててください」

「何でぱっと出てこないんで——」


 一瞬。

 紫色の呪縛が委員長の体を覆い、縦に開いた口も後の言葉を紡ぐことはなく。

 それはまるで、紫色の水晶を削って作られた彫刻のよう。

『dominophobia』――「教室」を止めた。

 背面黒板の隅、クラスメイト全員の名前が縦に並んだ掃除当番表を見に行くには、六秒という時間は十分。

 ……っと、「若月 輪花」――これだな。


「――すか!」

若月わかつき若月わかつきだ。苗字は若月」

「えっ、ああ、まぁ合ってますけど……。じゃっじゃあ、し、下の名前は?」


 漢字で「輪花」だから……


「わっか?」

「……ですぅー!!」


 思いっきり蹴られた。痛い。……でも、悪くない。


「私の名前は、若月輪花わかつきりんか! もう二年も一緒なんだから、いいかげん憶えて!」


 正しくは一年と二か月な。計算苦手ですか? 若……すんません、暗記苦手なもんで。


「……いやだってさ、みんな委員長って呼んでるし、もうそのイメージしか……」

「でも、クラスメイトの名前がぱっと出てこないのはおかしいです!」

「いやいや、じゃあお前は俺の名前ちゃんと言えるのかよ?」

「もちろん。……城ケ崎譲、二年八組十六番」

「あっはい、そうです」

「好きな食べ物はホタテのひも、好きな漫画はめぞん一刻」

「……ちょっと待って、なんかズレてきた」


 めぞん一刻は多分俺がまだ生まれてないし、ホタテのひもはおつまみだろ。


「趣味は競馬とパチンコ。最近晩酌は控えている」

「ねぇ、俺っておっさんなの?」


 それも、結構カッコよくない方のおっさんだし。


「タイプの女性は……品行方正で天真爛漫、責任感が強く行動力のある、まるで今目の前にいる若月さんのような……ちょっと、変な目で見ないでよっ!」

「……一人で何やってんすか?」

「……とにかく、私が城ケ崎君についてたくさん知ってるってことだよ」

「半分以上はまがいもんだったけどな」

「でも、城ケ崎君は私のフルネームすら言えてなかったよね? それはそれでどうなの?」

「……無茶言うなよ、高校生は憶えることいっぱいあるんだ。ノボラックとかレゾールとか」

「むっ、無茶!? 私の名前より、その変な名前の気持ち悪い物質を優先するの!?」

「気持ち悪くなんかないぞ、ノボラックってのはフェノールとホルムアルデヒドが……」

「そんなの受験に出るわけないじゃん!」


 いや……私立だと出るんですよコレが。私立の入試問題はマジで無法地帯。「高校物理で微分・積分は禁止」ってなってるのに、ガンガン使わせるのはそこんとこどうなの? あと、「高校化学で不斉炭素原子は一つまで」って決まってるけど、何でたびたび二つあるの? 嫌がらせ?


「私、城ケ崎君からフェノール以下だって思われてたのはちょっとショックだよ……!」

「フェノールより優秀な人間はそうそういないからな。仕方ない」

「そっ、そういう話じゃなくてっ! ……だからこう、委員長って呼ばれること自体は別にいいんだけどさ……」


 肩を落としてしょぼんとする委員長。やる気と正義に満ち溢れた普段には無い表情で、中々に新鮮だ。

 珍しくがっくりしょぼんな委員長を写真にでも撮ろうかと考えていると、そんな彼女は、斜め下の地面をじーっと見つめたまま、いじけたようにぽしょりと呟く。


「た、ただ、じょ、城ケ崎君には、名前で呼んでほしかったなぁ……なんてね? なんてねだよ? なんてね?」

「……名前?」

「えっ? いやまぁ別にその…………あ、う、うん……」


 名前、か。

 喉の調子を確かめ、こほんと一つ咳払い。


「……わっか」

「ちがぁぁぁう!!」

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