第3話 チートで鞄を軽くしたい

 傾いた花瓶に、そーっと手を伸ばす。

 余計な力を加えないようにしながら、しっかりと花瓶を掴む。


「か、軽っ!?」


 右手で掴んだ花瓶は、発泡スチロールでできているかと思うほど、ともすればそれ以上に軽かった。

 ひとたび手を離せば、ぷわぷわと宙に浮いてそのままどこかへ行ってしまいそうな、そんな感じ。

 ガラス製のはずの花瓶を、目に近づけてよく眺めてみる。

 その婉曲した表面が、奥の白いドアを歪めているのが見えた。


「やっぱりそうだ……」


 これは最早、疑いようのない真実。受け止めるべき事実。

 そう。これは、「チート」だ。

 物理法則を捻じ曲げる、『マクスウェル』とかいう能力。

 花瓶の表面に貼り付いた赤いヤギの絵は、能力の印だったのだろうか。

 でも、なんでヤギの頭蓋骨なんだ?


「ボシュウゥゥ」

「うおっ!」


 「g=0.98」の文字をじっと眺めていると、突然、文字が炭のように真っ黒に変色し、端の方からチリチリと燃え始めた。


「なっ・・・!」


 文字はあらかた燃え尽き、真っ白な灰となってぽろぽろと崩れ始めた。

 その瞬間、花瓶を持っている手に急に重さを感じ、がくっと落としそうになる。


「……!」


 重力が戻った……!

 今のは、『マクスウェル』が解除されたのか……!?

 文字が、消えたから……?

 元の重さに戻った花瓶をそっと机の上に置く。


「……今のが……」


 確かチートを選ぶ時の紙に書いてあったのは、「一定時間、物理法則を書き換える」だったような。

 よく読まなかったから分からないが、今の、花瓶の重力を「書き換えて」から「戻る」までが「一定時間」なのだろう。

 時間にして約二十秒くらい? わかんね。

 でも……。

 でも。


「マジ……?」


 俺、チート貰っちゃったよ!! チートだよチート!!

 物理法則、書き換えるようになっちゃったよ!!

 ……なんでだよ!!!




 リハビリを終え、身体の動作に異常がないことが分かると、両親が迎えに来てくれたようでそのまますぐに帰ることができた。お泊りかと思っていたが、普通に帰れた。思春期男子にとっての「お泊り」はそういう意味なので、使い方には気を付けたい。

 正直、花瓶の出来事が衝撃的過ぎて、リハビリ中も夕食の際もそのことで頭がいっぱいだった。まさに「なんもいえねー」状態。超気持ちいいってことは無い。


「譲、明日は学校行ける?」


 なにその、俺が不登校みたいな質問。


「まぁ、行っていいとは言われた」

「行くのよ?」

「うん」


 どうやら、物理法則を書き換えられるようになっても、学校には行かなければならないらしい。




 いつもの通学路を、てくてくと歩く。

 重い鞄を左右の手に交互に持ち替えながら、そのうちに逆の手を休める。ってか、重っ! 鞄重っ! ちくしょう、「このすば」1~17巻持ってくるんじゃなかった!


 ……そうだ!

 俺には、「チート」があるんだった!

 この鞄の重力を書き換えれば、重い鞄にヒーヒー言わずに済む。

 とりあえず、やってみよう。


「………」


 ……この前、どうしたんでしたっけ……。

 何かこう、ビュッと指先から出て、バシッと貼り付いて、ヤギッて感じだった。

 うわ、すごい頭悪そうな説明。

 確かその、指先を……


「ドビュン」

「うおっ!」


 でっ、出た!

 鞄へぴっと向けた人差し指から、またもや「何か」が飛んで行って、鞄の黒い表面にバシッと貼り付く。

 それは、赤で描かれた、ヤギの頭蓋骨の絵だった。

 親指くらいの大きさの印は、ぐるぐると渦を巻いて、文字のように並んで集まっていく。


「g=4.9……? 成功だ!」


 4.9は、元の重力加速度9.8の半分。

 つまり、鞄に下向きにかかる力、ひいては、俺の腕にかかる負担が半分になったということ。

 つまり、鞄には「このすば」が17冊入っているが、俺が感じる重さは7.5冊分ということ。……てか、なんで全部持ってきたんだよ。絶対必要ないだろ。

 でも、能力自体は使うことができた。 やれば! できます!

 指先を意識し、書き換える方程式が頭に浮かんでいれば、恐らく『マクスウェル』は発動するのだろう。

 能力が成功し、軽くなった鞄をぶんぶん振りながら赤いレンガの歩道を歩く。

 にしても、マジで軽いな。

 前に大きく振り上げたところで、突然、鞄を掴んでいた手がぐっと前に引かれ、危うく前のめりに転びそうになる。


「うおっ!?」


 ……そうだった、これ、制限時間あるんだった!

 思えば、二十秒ってめっちゃ短いじゃん! ほぼ意味ないじゃん!

 重力が「このすば」7.5冊分返ってきた鞄を持ち直して、再び通学路を歩き出す。


 だらだらと歩いているうちに、つい先日俺が引かれた横断歩道に辿り着いた。

 別に、トラウマとか、怖いとかは思わなかった。

 もしあの時、俺がこのチートを持っていたとしたら、タイヤと道路の摩擦を増やして一瞬でブレーキが利くようにしたら、助かっただろうか。横断歩道を渡りながら、代わりにそんなことを思った。

 振り返ると、青のランプが点滅している。あの時と同じ色だ。

 ……その下に、走る人影が見えた。

 彼女は、同じ学校の制服を着ていた。

 大きな目に、小作りな顔。艶やかな長髪が、ゆらゆらと揺れる。

 息を切らしながら走るその姿に、ほんのちょっと見惚れてしまった。

 その時、俺の体の芯に衝撃を加えられたような、強烈な電撃が走ったような感覚を覚えた。

 ……あの時と、同じだ。

 俺があの日、轢かれた時。

 はっとして、左を見る。


「!」


 見えたのは、黒のワンボックスカー。

 異常なスピードで、彼女に迫っていた。

 こんなの、住宅街の道路で出すスピードじゃない!


「キキィィィィィィイィィィィ」


 耳の中を擦られるようなブレーキが鳴り響く。

 ったく、遅ぇよ!


「え?」


 けたたましいブレーキ音で、女子生徒はやっと自分の身に迫る危険に気付く。

 あの時の一瞬と、重なって見えた。

 考えるより先に、体が動くよりも先に。

 俺の無意識が、「ヤギの頭蓋骨の絵」となって飛び出した。


「ドドドドヒュン」
























































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