半年ぶりのカレー
増田朋美
半年ぶりのカレー
今日は、天気がいいので暑くなるという予報であったが、さほど暑くはならず、まあこんなところだろうという程度の気候であった。この程度の日々がずっと続いてくれればいいのだが、ちょうど良い日というのは長く続かないものであった。必ず何かあって、悪い日になってしまう。本来は、良いことも悪いこともバランスよく配列されているはずだと思うのだが、人間はどうしても、悪いことや辛いことが気になってしまうのであった。それは、どの人もそうだから、気にするなと言われるのであるが、本人にとっては、気になってしまうことなのかもしれない。
杉ちゃんは、いつもどおり、製鉄所で着物を縫っていたのであるが、時々手をとめては、
「歯が痛い。」
と、つぶやくのであった。
「虫歯かい?」
と、ブッチャーに聞かれて、
「どうもそうらしいな。」
日頃から、体調に変化がない杉ちゃんがそういうのだから、多分そうなのだろう。
「そうなら、歯医者さんへ行ったほうがいいのでは?」
と、ブッチャーに言われて、
「ほんなら歯医者さんを予約してくれ。できるだけ、評判のいいところだぜ。悪いところはだめだよ。」
杉ちゃんは即答した。ブッチャーは、わかったよ、と言って、富士市内で有名な歯医者さんを調べてみたのだが、確かに歯医者さんはあるけれど、評判のいい歯医者さんというものは、なかなかない。インターネットの口コミサイトというものは意外に当たるものだから、ここで評判が悪ければ、きっと評判が悪いところなんだろうと思う。
「どうだ、評判のいい歯医者さんは見つかった?」
杉ちゃんに急かされて、ブッチャーは、急いでスマートフォンの画面を見た。どの歯医者さんも、評価は、星2つとか、星ひとつとか、そういうものばっかりであったが、その中で唯一、星が4つ着いている歯医者があった。
「じゃあ、ここにするか。今電話して、予約をとるよ。」
ブッチャーは、その水上歯科医院と書かれている、歯医者さんのホームページを見た。なんでも、電話予約ではなくて、ネット予約というシステムを導入してあって、予約した時間の30分前に、メールで通知してくれるというサービスもやっていた。ブッチャーは、それならばネットで予約しようということにして、歯医者さんを、予約することに成功した。杉ちゃんのことだから、予約した時間はきっちり守る人なので、一時間くらい前から、支度を始めてしまっていた。杉ちゃんとブッチャーは、通知メールが来る30分以上前に、歯医者さんに到着していたのであった。
歯医者さんに入ってみると、昔ながらの古ぼけた建物という感じの建物で、なんでここが星4つなのかわからない気がしてしまうほどだった。杉ちゃんたちは、受付の女性に手伝ってもらいながら、待合室へ移動した。待合室には、一人男性が待っている程度で、他に患者はいなかった。完全予約制なのでおまたせしませんということらしい。杉ちゃんが待っていると、診察室から、歯医者さんの声が聞こえてくる。何だと思ったら、結構厳しい口調で、
「これは、上の歯も下の歯も、入れ歯にしないといけませんね。」
と言っている声がしたのだった。
「はあ、きっと、前の人は、おじいさんかおばあさんだな。入れ歯にしないといけないなんて。」
杉ちゃんは思わずつぶやく。それと同時に、
「影山さん、こちらのウサギさんの部屋にお入りください。」
と、若い女性歯科医に言われて、杉ちゃんは、ウサギさんの看板が設置されている部屋に入った。そして、ブッチャーに手伝ってもらい、椅子に座らせてもらって、歯の治療をしてもらった。その若い女医さんによると、軽い虫歯なので、薬も何もいらないですよということだった。一度だけの治療で大丈夫らしい。ブッチャーにまた車椅子に乗せてもらうと、杉ちゃんは、ありがとうございましたと言って、ウサギさんの看板が設置されている部屋を出た。また待合室に戻ると、先程の男性は、もう呼ばれてしまったのか、姿を消していた。それと同時に、くまさんの看板が置かれている部屋から、まだ、若い女性がしょんぼりした顔をして、出てきたのだった。
「どうしたんだよ。何をそんなに、しょんぼりしているんだ?」
杉ちゃんは、思わず声をかける。本当に若い女性である。まだ、20歳にも満たないだろう。それなのに、人生はもうおしまいだというような顔をしているのだ。
「いえ、ただ、歯医者さんに来ただけのことで。」
と彼女は答えるが、わずかに発音が不明瞭なところがあった。それは、歯のない年寄が、喋るような喋り方とどこかにていた。
「もしかして、お前さんが、もう入れ歯にしなければならないと言われたのか?」
杉ちゃんがそう言うと、ブッチャーもびっくりした。彼女は、涙をボロボロこぼして、小さい声でひとこと、
「はい。」
と言った。
「はあ、それは、苦労するな。お前さんの歳では入れ歯にするようなことがあるなんて。まさか総入れ歯じゃないだろうな。一体どういう経緯で、入れ歯にしないといけなくなったの?」
杉ちゃんは、彼女の全身を確認する様に見渡すと、彼女の右手の手の甲にタコができているのが確認できた。吐きだこというやつだ。つまり彼女は、摂食障害というものに違いなかった。
「言わなくてもわかりますよ。食べて吐く行為を繰り返しているに連れて、歯がボロボロになってしまって、それで入れ歯にしなければならなくなったんですね。それは、お気の毒というか、どうしようもないですね。俺の姉も、似たような、疾患を持ってまして、俺も姉が苦しんでいるのも見てきましたから、変な同情はしませんけど、でも、それでは大変だと思いますよ。」
ブッチャーか急いで彼女にそう言うと、
「わかってくださるんですか?」
と、彼女は言った。
「はい、俺も、姉のことで、すごく大変だったんで、あなたも、苦労してるんだなということがよくわかりますよ。ああ、変な宗教とかそういうものではありません。俺達は、ただ、事実を、話しているだけですからね。安心してください。」
警戒している彼女に、ブッチャーは、ブサイクな顔をできるだけ優しく見せるようにしていった。
「そうそう。それに、製鉄所に来ている人たちは、みんなワケアリの人ばっかりだから、皆、同じような辛さを抱えているんだ。だから、僕達は、偏見なんか持たないつもりさ。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。
「そうなんですか。それは嬉しいです。出会いは偶然と言いますか、なんといいますか、もう少し早く、出会えたら良かった。そうすれば、歯が抜けてしまう前に、私の事を話せたら良かった。」
と、彼女は、ちょっと涙をこぼしてしまった。
「もし、よろしければ、今度製鉄所で行われるワークショップに参加してみませんか?あなたのような、事情のある方が、三人ほど集まりますが、そこで、あなたの辛かった身の上話を語っていただければ。えーとね、これがチラシなんですが。」
ブッチャーがスマートフォンの画面を見せながら、優しくそう言うと、
「ありがとうございます!本当にそういうお誘いがあって嬉しいです。私は、白石萌子と申します。ぜひ、そちらで主催されているワークショップに参加してみたいです!」
と、彼女はとてもうれしそうに言った。
「そういう精神疾患ってのは、同じ経験をしている仲間の話が、何よりも薬だからな。そういう場を作ってあげられる僕らも幸せだよな。」
と、杉ちゃんが言うと、ブッチャーは、彼女のラインのIDを聞いてつながるようにし、先程のチラシの画像を彼女に送った。もうそういうチラシだって、ラインでやり取りできるから、便利な世の中になったものである。
「白石萌子さんね。なんか名前を覚えるの僕苦手だから、マネさんということにしようぜ。」
杉ちゃんは、カラカラと笑ってそういうことを言った。
「ありがとうございます。明後日の、10時から始まるんですね。富士駅より、富士かぐやの湯行のバスに乗って、富士山エコトピアのバス停で降りるんですか。わかりました。そこへ乗ってみます。」
白石萌子さん、杉ちゃんのあだ名では、マネさんと呼ばれている彼女は、とてもうれしそうだった。きっと、苦しい身の内を話す仲間が欲しかったのだろう。
「じゃあ、当日いらしてくださるのを楽しみにしてますよ。」
とブッチャーが言うと、
「ありがとうございます!」
とマネさんは、にこやかに笑った。その時、歯のない口が見えた。確かに、歯が抜け落ちてしまっていることは間違いなかった。とても可哀想であるけれど、食べ物を拒否し続けた体が、彼女に復讐したのかもしれなかった。
「白石さん、お会計をお願いします。」
と、受付係に言われて、マネさんは立ち上がる。
「ありがとうございます。当日行きますから。」
と言って彼女は、受付の方へ行った。そして、歯医者さんの受付に、診察料を払って、歯医者さんを出ていった。きっと、いろんなことで悩んでいたのだろう。葉が全部抜けてしまうほど、食べ吐きを繰り返したのだと思われた。
杉ちゃんたちが、水上歯科医院へ行った2日後。製鉄所の食堂で、摂食障害のある人のワークショップが行われることになった。出席したのは、女性が一人と男性が一人いた。ピアカウンセラーの資格をとったブッチャーの姉有希が、ワークショップの仕切りを行うことになっていた。しばらく出席者たちと、雑談をしていると、
「こんにちは。」
と、不正確な発音の声がして、女性が一人やってきたのがわかった。有希が、はいどうぞ開いてますよ、と言いながら、玄関先へ向かうと、先日歯医者でブッチャーが知り合った、白石萌子さんことマネさんがそこにいた。
「はじめまして、私、白石萌子と申します。この間、こちらでワークショップのチラシを頂きまして、こさせていただきました。」
と、マネさんはすぐに言った。有希は、どうぞお入りくださいと言って、彼女を製鉄所の建物内に招き入れ、食堂へ連れて行った。食堂は杉ちゃんが作ってくれているカレーのにおいが充満していたが、それを良い匂いだとマネさんは思えなかったようだ。
「じゃあ、これで出席者が全員揃いましたから、ミーティングを始めましょう。まずはじめに、皆さんの自己紹介をお願いします。今日は新人会員さんがいるので、よろしくおねがいします。」
有希がそう言うと、じゃあ僕からと男性が話し始めた。彼は高校がものすごい有名な進学校で、そのプレッシャーに耐えられず食事ができないと言った。続いて隣の女性が、自分は過食の方であるが、家族が誰も相手にしてくれなかったので、気晴らしに食べてしまうことで、太ってしまい、ダイエットをしたら今度は、やりすぎてしまったといった。
「それでは、新人会員さん、自己紹介をお願いします。」
と有希が言うと、マネさんは、
「はじめまして、私は、白石萌子です。実は、私も、学校のことで、ちょっと大変なことがありまして、それで食べても吐いてしまう様になって、この通り、入れ歯にしなければいけなくなってしまいました。私の発音は、変だと人によく言われます。」
と、自己紹介した。
「いやあ、何も変ではありません。それは、本当にお辛かったですね。学校は、自分の意思で決められるとよくいいますが、その中のことまでは決められませんからね。例えば、有名な大学に入るように、しごかれたとか、そういうことでしょうか?」
落ち着いた男性が、マネさんにそう言ってくれた。
「いえ、違います。私は、進学校ではなくてその対にいました。すごく荒れていた学校で、みんな、真剣に勉強しようという気持ちはありませんでした。だから、誰も友達はできなくて、でも私は家で、いい成績とるように言われていましたから、友達を作らないで、一人で学校にいるようになってしまって。それで、私、他の同級生が、太っているように見えて、それで痩せなきゃと思うようになってしまったんです。こんな事話しても、誰も信じてはくれないし、勉強をやる気が無いのが普通だとか、そういう話しかしてくれないし。先生も、私のことは放置しっぱなしで、やる気のない生徒さんを黒板の方へ向かせるのに精一杯で。私は、学校で本当に一人ぼっちでした。なんとか、こっちを向いてほしいと思っていたので、痩せようと思ったのかもしれません。それは、いけないことだとわかっても、私は、完全に晒し者でした。」
マネさんが、一生懸命自分のことを語ると、そこにいた二人は真剣に彼女の話を聞いてくれていた。
「あ、ごめんなさい。私、ちょっと喋りすぎましたね。」
とマネさんが言うと、
「いえ、そんな事ありません。それは、悪いことじゃありませんから。誰のせいでなくても、人間には不運な場所に立たされるということはあるんですよね。そんなときはその道を黙って歩くと偉い人は言うけれど、そんな事、できませんよ。機械ではなくて、人間ですから。」
と、男性が言った。
「そうですよ。そういうことを、話せる場所ができてくれて良かったじゃないですか。それは、嬉しいことじゃないの。なにかの縁ですよ。これを大事にして、ずっと生きていってほしいわ。」
女性も、そう言っている。
「そんな事、考えていいのでしょうか?私のほうが間違っていると、家族からさんざん言われて。」
マネさんがそう言うと、
「いやあ、家族だって、完璧じゃないわ。多少、家族や親戚と違ってもいいじゃありませんか。それをしていれば、もしかしたら、違う見方ができるかもしれませんよ。違うことを嘆く必要はありません。それは、違っていいんだと思ってください。」
と、有希が優しく彼女に言った。
「そうですか、家族も親戚も、皆敵に見えて、私のことなんて、何も考えてくれていないと思っていました。だってみんな、やる気のないことが普通だと言うんですから。」
「でも、それは、あなたがそう思っていて、本当は違うかもしれないわよね。親御さんが、それを言ったとき正気じゃなかったのかもしれない。人間なんてね、完璧な人はだれもいないわよ。どんなに勉強ができる人だって、幸せだとは限らないもの。あなたが辛い気持ちは、ちゃんとあたしたち理解しているつもりだから、それを、敢えて言うわ。きっと、ご家族は、完璧じゃなかったの。きっと、あなたが辛いと言ったとき、ご家族も辛いことがあったのよ。だから、お互い大変なときがあったんだ、位にかまえておくといいわ。そして、あなたが今までしてきたことは、もうこれだけ頑張ったんだ!って、自分を褒めてあげて。」
マネさんがそう言うと、女性が優しく言った。
「そんな事、私にできるでしょうか?」
と、マネさんが聞くと、
「できますよ。僕だって、できたんですから。こんな世界一不器用だと思っていた男が、家族を赦してあげられるようになったんです。だから、そういうことはきっとできます。きっと、こういう病気になる人ってね、ゆるすことが人生のテーマなのではないかと思うんですよ。それをしてあげられることが、一番の課題なんです。」
と、男性がにこやかに笑って言う。
「どうしてそういうふうに気持ちを切り替えられるようになったんですか?」
と、マネさんがまた聞いた。これは、なんだか怒りを持っているような言い方だった。
「そうですねえ。とにかく、人にたくさん、話をしたことかな。あたしは、こういう場所にこさせてもらって、何回も同じことを言ったけど、そうですか辛かったですねと何回も、言ってくれる人がいた。それで、あたしは変われたんだと思います。」
と女性が答える。
「まあ確かに、最初はどうして変われるのか怒りを持つ人は少なくありません。でも、人間にはどうしても、変えられないことがあるということを知ると、また変わってくると思います。」
男性が、静かに答えた。
「そしてね。やっぱり大事なことは、ご飯を食べることよ。食べることは、人間がエネルギーを取り入れるために必要なことだもの。楽しんで、美味しく食べられる、これ以上の幸せは無いわよ。それができるってことが、どんなにすごいことなのか。あなたが、よく知っているんじゃないかしら?」
有希が、優しくマネさんに言った。マネさんは怒りと悲しみが混じった、複雑な表情をしているのであったが、
「そうなんですか?」
と小さい声で言った。
「ええ、もちろんですよ。食べられるほど、幸せなことは無いですからね。それができるってことが。どんなにすごいことか。このグループに来ている人は、みんな知ってますよね。」
男性は、そう言ってメガネを外し、レンズをハンカチーフで拭いた。
「そうですよ。じゃあ、お昼の時間になりましたので、みんなでカレーを食べましょうか。このグループに来ることの最終目的は、カレーを食べることなんです。白石さんが最近カレーを食べたのはいつですか?」
と、有希が、マネさんに聞くと、
「半年以上食べてないです。」
マネさんは答えた。皆半年という答えを聞いて、びっくりした顔をする。
「でも、大変だったんですね。半年も、カレーを食べられなかったんだから、それは、心も体も大変だったと思いますよ。だから今日は自分を褒めてやるつもりで、たくさんカレーを食べていってくださいね。」
男性は再びメガネを付けた。有希が、お願いしますというと、どこからか杉ちゃんが出てきて、三人の目の前にカレーのお皿をおいた。マネさんは、歯がないのでカレーを食べられないと断るつもりでいたが、ちゃんと、配慮してくれてあるようで、ご飯はおかゆのようなペースト状になっていた。杉ちゃんは、カレーの隣に、紙コップを置き、その中に、ペットボトルのお茶をなみなみと注いだ。
「それでは皆さん、食べられることに感謝して、かんぱい!」
有希がそう合図すると、男性も女性も、紙コップを持ち上げて、乾杯した。マネさんも、それに続いた。
「じゃあ、好きなだけカレーを食べていってください。おかわりはいくらでもしてください。」
と、有希がそう言うと、三人はカレーを食べ始めた。カレーというのはこんなにうまいものなのかと、マネさんが思うほど、カレーはうまかった。
半年ぶりのカレー 増田朋美 @masubuchi4996
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