第86話 それはまるで、わたあめのような
「い、一回だけでいいんです! あたしと……キス、してくれませんか……!?」
蒼い瞳を潤ませた問いかけに、むつ姉はきょとんと大きな目を見開く。
「あっ、あたしっ……ずっと前から六美さんのことが好きで……! でも、あたしは兄貴にも幸せになって欲しくて! どっちも諦めきれなくて……だから、その……せめて一回だけでも、って……」
荻野は顔を真っ赤に染めて、俯きがちにそう零す。
普段の荻野からは考えられないような、内気っぽくて、弱気な……だが、やってること自体はとてつもなく勇気のいることで。
結局――弱気も、勇気も、全部。荻野の一部ってことなんだろうな……
「おっ、お願いします!」
色鮮やかな、水風船の紐を握りしめて、ばっ! と顔をあげる荻野。
その時には、既に荻野の兄貴とむつ姉は付き合っていたから、俺はそわそわと、「え、いいの?」みたいな眼差しを兄貴に向ける。
しかし、兄貴はわずかに口元を綻ばせ、ゆるりと浴衣を揺らして腕を組んでは、むつ姉に視線で何事かを合図しただけだった。
多分だけど、「六美さんに任せるよ」みたいな感じだったと思う。
むつ姉は、カラコロと下駄を鳴らして近づくと、浴衣の裾を握る荻野の、震える指を、片手でそっと包み込む。
「いいよ」
そうして、もう片方の手に握っていたわたあめで、周囲から口元を隠すようにして、荻野に優しく口付けた。
思いのほか長いこと口をつけているふたりを横目に、俺は隣に佇む兄貴に問いかける。
「いいんですか、あれ?」
その問いに、兄貴、もとい清矢さんは。
「涼子が幸せそうだから。いいよ」
「!」
「俺はさぁ。六美さんのことを世界で一番愛しているけれど。涼子のことも、命よりも大切に思ってるんだ」
「命より……」
さらっと、なんでもないかのように紡がれる言葉。俺の脳裏には、強盗の手にしたナイフを素手で掴む勢いだった、清矢さんの姿が浮かぶ。
(清矢さんにとっては、アレはきっと、本当に当たり前のことだったんだなぁ……)
「……にしても。六美さんはマジで女神だな。懐が広い。惚れ直したよ」
涼やかで、曇りのないその笑みに、俺は、「ああ、この人にむつ姉を任せてよかった」と心から思った。
蕩けるような綿菓子の影で、まるで内緒話をするみたいに、こっそりとキスを交わすふたり。
清矢さんは、ふと呟く。
「いいなぁ。きっと、さっき六美さんが食べていた、わたあめの味がするんだろうなぁ」
「そうですね。多分、すごく甘いんでしょうね」
甘くて、甘くて。すぐに溶けてなくなってしまうような。荻野にとっては、泡沫の夢のようなキスなのかもしれない。
むつ姉と荻野がどういうキスをしたのかは、わたあめに隠れて俺には見えなかった。
けど、キスを終えた荻野の蕩けるような眼差しが、「ああ、六美さんを好きになってよかった」と言っていたから。
俺も荻野も、むつ姉も。笑顔で手を繋いで帰ることができたんだ。
◆
コットンキャンデーという、わたあめ味のアイスを手にしていたからか。思い出したように、荻野は恍惚とした表情を浮かべる。
「にしても、六美さんはやっぱりマジで女神だよなぁ。兄貴のマンションに上がり込んだあたしが、ここぞとばかりに、キスとか、ボディタッチとか。結構ヘビィな甘え方しても、笑って受け入れてくれるんだもん。『ンッ。りょーちゃん、くすぐったいよぉ。ひゃんッ♡』って」
「おい待てなんだそれ」
ひゃんッ♡ は待てよ。聞いてねぇ。
俺は思わず瞳孔を開き、手にしたアイスのディッシャーをかちゃかちゃと威嚇するように鳴らす。
荻野が、最終的に義妹ポジで落ち着いたという話は本人から聞いていたが、その甘え方は聞いてないぞ。
そもそも荻野の言う『ヘビィ』は、割とガチで洒落にならんやつだろ。
「ちょ、待って。いつからむつ姉は百合もイケるようになった? いや、そもそも。『一回だけでいいからキスして』って話だっただろ。なんで当たり前のように何回もしてんの?」
尋ねると、荻野は悪びれもせず、べーっと舌ピアスを覗かせる。
「だって、あたしは『妹』だもん。おねえちゃんに、でろでろべったりに甘える権利があるんだもん。六美さんが白って言えば、黒も白に変わるんだよぉ!」
「なっ……!」
まさかこいつ、
「もう六美さんは、真壁だけのむつ姉じゃないんだよーっだ! あんたのむつ姉は、あたしのむつ姉だ!」
「あ、こら! 『むつ姉呼び』は俺の専売特許だからな!? 聞いてるか? おい、荻野! つかさぁ、あのときのキスも長すぎじゃなかった? 3分くらいしてたんじゃない!? 『一回だけだから』って、ちょっとやりすぎなんじゃな……!」
「うっさいシスコン! いいじゃんか! 『どうせ一回だけだったら』と思って、間の続く限り、めいいっぱいしてやりましたよ! 3分じゃあ足りないくらいだっつの!」
「はぁ!? 詐欺だろ! この、欲望の塊め!」
「てかさぁ、六美さん。あたしがイチャぺろチュッチュして甘えてると、『ゆっきぃも、たまにはこれくらい甘えてくれてもいいんだけどなぁ〜』とか言ってるよ。真壁もウチ(兄貴ん家)来たら?」
「は!?」
いや、待って。
むつ姉、マジかぁ……
いいの? ほんとにイチャぺろチュッチュしていいの?
でもそんなことしたら、荻野の兄貴に怒られ……いや。兄貴は「あっ、いいなぁ!」とか言って、混ざるタイプだなぁ……
「いやいや、俺には灯花ちゃんが……」
わかってるって。しないよ、しない。
「あははっ! 一途か、こら〜!」
「一途で悪いか、こら」
なんてことを口々に言い合いながら。俺と荻野は、いつものようにアイス屋で。
終わりかけの夏休みを過ごしていた。
※次回、最終話!
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