第70話 荻野の初恋(前編)

 さらさらと夏の風が吹く、港の見える公園で。

 あたしは加賀美さんとふたり、ベンチに腰掛けていた。


 胸に秘めた想いを打ち明けてくれた加賀美さんに、せめて、と思い、あたしはあたしの想い人である、六美さんとの馴れ初めを語り出す。


 ◆ 


 あれは、季節外れの嵐の日、あたしがクラスの悪ガキ共に、フラれた腹いせに「報復」と称して、体育倉庫で犯されかけてから数か月が経った日のできごとだった。


 あの事件以来、あたしはまともに学校に行けてなくて。

 あたしの中学の隣にある高校に通っていた兄貴は、現場を目撃してしまった誰かに助けを乞われて駆けつけて、その場にいたクラスメイトたちを半殺しみたくボロ雑巾にしてしまったせいで、高校中退を余儀なくされた。

 返り血を浴びた拍子に目が紅くなって、『鮮紅の荻野』なんて、高校生なのに中二病みたいなあだ名を付けられて。その日から、兄貴は姿を偽るように、髪を染めたり、目に蒼いカラコンを入れ始めたりもした。


 今は別の高校になんとかして編入して、「母さんたちに迷惑かけちまったから」なんて、バイトに勤しむ日々を送っている。 


 別にお母さんたちに何かを言われたわけじゃない。兄貴はただ、共働きなのに学校に頭を下げたり、(あたしのことで)下げられたり。兄貴の編入先を探したり。有給なんてとっくのとうに使い切って、休みが足りなくなっても忙しそうにあちこち走り回るお母さんたちの姿を見て、「俺がそう決めただけ」って言ってた。


 放課後から、未成年の働ける夜二十二時まで、叔父さんの伝手で紹介されたバーで働く兄貴の姿を見て、「全部あたしのせいなのに、どうして兄貴がそんなに頑張るの?」って。いっつも疑問に思ってた。申し訳なく思ってた。


 都内の路地にひっそりと佇む、こじんまりとしたバーは、お酒を嗜む大人の場だ。中学の知り合いなんて誰も来ない。

 ずっと部屋にいるのもよくないからって、あたしは兄貴に連れられて、次第にそのバーに入り浸るようになった。


 兄貴の目と同じ蒼い色をした、見ているとなんだか落ち着く、透き通る海みたいなノンアルコールの飲み物を手に、ただぼんやりと兄貴の背中を眺めてた。

 兄貴は明るくて素直で、人当たりが良かったから、すぐにバーの人たちや常連さんに好かれて。


清矢せいやちゃん、ウチの店来ない?』

『アラ、ヤダ。ウチよぉ!』

『お黙り! セイちゃんは将来、ウチの貴重な戦力になるんだから! 汚い唾つけようとすんじゃないわよ!』

『ちょっと、叔父さん声大きいよ。他のお客さんもいるんだから、抑えて……』

『『だぁれがじゃいボケぇえ!! オネエサマってお呼びぃ!』』


 そんな兄貴を見ながら、漠然と、「高校に入ったら、あたしもバイトしようかなぁ」なんて、夢みたいなことを思ってた。


 ――夢? 夢だよ。

 だってあたしは、このままじゃあ中卒だから。

 高校生にはどう転んだってなれない。


 そんな日々が続く中、ある女の子が来るたびに、兄貴の様子がおかしくなることに気づいた。

 週に何度か、知り合いに頼まれて荷物を届けに来る女子高生。

 髪が黒くて、長くて、おっぱいが大きくて。十人に聞いたら十人が美人と言うようなJKだ。


 兄貴は毎度、頬を染めながらあせあせと、「いっ、いつもお疲れ様です、六美さん!」なんて。犬のように、見えない尻尾を振っていた。

 その様子がおかしいのか、可愛らしいのか。六美さんは口元に手を当てて、くすくすと楽しそうに笑う。


 そんなことが何度か続き、あたしは、六美さんと話す機会があったんだ。


 荷物を届けてくれたお礼に、と。バーの店長はいつも六美さんに飲み物を出していて、その日はたまたまお店が賑わっていて席が空いていなくて。六美さんはあたしと同じく、カウンターの隅っこで色鮮やかなノンアルを飲んでいた。


「荻野くんの妹さん……だよね?」


「あ。はい。涼子りょうこって言います……」


「じゃあ、りょーちゃんだ」


(りょーちゃん……)


 会話を始めて二言目にあだ名って……すげぇフレンドリー。ぶっちゃけ、ちょっと引いた。

 でも、話していくうちに、それが不思議と嫌じゃないことに気づく。


「りょーちゃんは、いつもここに?」


 問いかけに、びくりと肩が震える。

 別に責められたわけじゃない。ただ問いかけられただけだ。

 学校に行ってないのは悪くない。別にあたしが悪いわけじゃあ――

 悪くない、わるくない、わるくなんてない……


「……大丈夫? 私、ヘンなこと聞いちゃったかな……?」


「あっ。いや、そういうわけじゃあ――!」


 慌てて訂正すると、六美さんはおもむろにおでこ同士をくっつける。

 六美さんの大きなおっぱいがすぐ近くに迫ってきて、女の人特有の、ちょっと甘くていい匂いがして……


「……ん。熱はないね。顔赤いから、店長が間違ってアルコール入れちゃったのかと思ったよ」


 ふふ、と口元の綻ぶ、自然な笑みが眩しい。あぁ、きっとこの人は、誰にでもこういう風に優しいんだろうなぁって、その瞬間、直感する。


 あたしは、いまだに慣れない熱の残るおでこを抑える。


(あ、あったかかった……ふわってして、いい匂いで……)


 六美さん相手に、兄貴の挙動がおかしくなる理由が分かった気がした。

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