第55話 夕暮れの丘
ひとまず、荻野に連絡先のことを確認すると約束した俺は、それからも変わらず過ぎていく学校での生活をなんとなしにやり過ごし、放課後を迎えた。
今日はバイトが休みでよかった。
加賀美さんの好きな人のことや、見事にフラれてしまったことなど、心がいっぱいいっぱいで、荻野の隣で営業スマイルを作れる気がしない。
どれだけいっぱいいっぱいかというと、今日はシフトが入っていないことを忘れて、うっかり駅でコンタクトにしてしまったくらいだ。
途中で気がついて、けどわざわざ眼鏡に戻す気にもなれなくて、今に至る。
とはいえ、元・好きな人が俺を頼ってくれたんだ、なんとかしてうまくいくように応援してあげたい。これは、中学の頃加賀美さんが俺の背を押してくれたように、今度は俺が加賀美さんの背を押してあげられる、またとないチャンスなんだ。
フラレた俺の人生……あとはもう、せめて加賀美さんが幸せになるように祈るばかりのフェーズに移行するだけ……
……と、思っていた。
ひとり、コンビニで買ったアイスを手に土手に腰掛けていると、目の前で沈んでいく夕陽があまりに眩しくて、思わず泣きそうになる。
……本当は、気づいていたよ。
今のいままで、気づかないふりをして、営業スマイルを顔に貼り付けるみたいに、心に蓋をしていただけで。
……フラれるって、悲しいな。
俺の目に映る加賀美さんは、あの夕陽みたいにきらきらしていたとしても、加賀美さんの目に映る俺は、きっとそうじゃなかったんだろうなって。
わかってはいたはずの、当たり前のことなんだけど、今更になって寂しい。
だって、この胸にあった加賀美さんへの想いも、彼女とその背を目で追った日々も、フラれたからって、急に消えてなくなるわけじゃないんだから……
失恋なんて、みんなそんなもんなんだろうけどさ。
やっぱり寂しいよ……
下を向くと、雨でもないのに、ぽつりぽつりと水滴がこぼれる。
封を開けたまま口をつけていない水色の棒アイスが、行き場を失ってそのまま地面に濡れ跡をつけていた。
見ていると、こっちの心までこぼれ落ちそうだ。
(もう帰ろう……ここは夕陽が綺麗すぎて、なんだかよくない……)
だが、帰ろうにも、腰が重くてあがらない。
いや、重いのは、気分の方か……
そのまま、ただアイスが溶けていく様をぼーっと眺めていると、背後から驚いたような声をがした。
「……ゆきさん?」
振り向き見上げると、セーラー服のスカーフを靡かせた、見慣れた美少女が立っていた。
「白咲さん……?」
ああ、いけない。見られちゃう。
俺は急いで目元を拭う。
「こんなところで会うなんて、すごい偶然。ひょっとして、ゆきさんも猫ちゃんを追いかけていたんですか?」
「えっ。あっ、ちがうけど……」
だが、口ぶりからするに、白咲さんは猫ちゃんを追いかけてこんなところにいたらしい。時間や曜日的に、今日は塾がお休みなのかもしれないな。
確かに、この土手には何匹か、珍しく懐っこい野良が棲みついている。俺もたまに追いかけるから知っているよ。けど、今日は違うんだ。
にしても、猫ちゃんを追いかけて町はずれのここまで来るなんて、やっぱり白咲さんは、ちょっと天然さんなのかもしれない。
「白咲さんは、猫を追いかけて?」
尋ねると、白咲さんは夕暮れに映えるこげちゃの髪を耳にかけながら、俺の隣に遠慮がちに腰掛ける。
「はい。塾のない日はたまにするんです。意図的に、『何も考えなくていい時間を作る』――カフェでぼーっとお茶を飲んだり、目を閉じて、音楽や心臓の音に耳を澄ませてみたり。今日みたいに、町で見かけた猫ちゃんを追いかけたり。マインドフルネス、とはちょっと違うと思うんですけど、そうすることでストレスを緩和して、より高い集中力を得ることが期待できるんですよ」
にこ、と微笑む白咲さんは、やはり超高偏差値お嬢様学校の住人だった。
すげぇ。ちゃんと考えて猫ちゃんを追いかけてたんだ……
無心で「わー、猫かわいい」って追いかけてたの、俺だけだったよ。ごめん。
内心でちゃらんぽらんな己を恥じていると、白咲さんは俺の手にしたアイスに目を止める。
「あ、アイス。棒のシャーベットかぁ。アイスはゆきさんのところのが一番ですけど、そういうのも美味しそうですね。でも、溶けちゃってますよ?」
「ああ、買ったのはいいんだけど、なんか食べる気がしなくてさ……」
「え〜、もったいない。だったら、私にくださいな」
そう言って、身体をぐっと寄せて、ダラダラに溶けた棒アイスに口をつける。
小さな口でそれを咥え、頬張るように全体を舐めて、溶けて俺の指先にこぼれた分まで、丁寧に舌先で掬いとる。その様子が、なんだかエロいし、くすぐったい。
「……ん。おいひい」
一連のその動きがどこか艶かしく思えてしまうほどゆっくりと、白咲さんはアイスを食べ切った。
「……元気、ないですね?」
「ああ……うん。ちょっとね……」
「ゆきさん、今から帰りですか? もしよければ、ついて行ってもいいですか?」
「え?」
「だって、ゆきさん……ひとりでいたら、何処かへ消えてしまいそうな。そんな顔をしています」
「……!」
「私でよければ、いつでもゆきさんを慰めますよ?」
そう言って、白咲さんはふわりと微笑み、両腕を広げた。
陽が沈み、鮮やかな橙が紫に変わりつつある土手は、行き交う人もまばらになって、今はひとけがない。
さぁさぁと、緑の揺れる音が静かで、心地がよくて。
いざなわれるように、俺はその腕におさまってしまった。
か細い腕でそっと抱きしめられ、それに応えるように、自然と抱きしめ返す。
(ああ。あったかい。柔らかくて、いい匂いで、安心する……ずっとこうしていたい……)
「どうしたんですか? ゆきさん、泣きそうな顔をしています」
「はは……泣いたら、コンタクト取れちゃうかもしれないな」
「コンタクト?」
「白咲さんは知らないかもしれないけど。俺、いつもは分厚い瓶底みたいな眼鏡をしてるんだ。見たらびっくりするかも。オタクっぽいって……」
でも、そんな姿でも「好き」って言ってくれるむつ姉の存在が嬉しくて、未練がましくコンタクトに切り替えられないままでいる、俺はそんな奴だ。
そのむつ姉だって、いつまで俺の傍にいて、俺の『お姉ちゃん』でいてくれるのか、わからないっていうのにさ……
自嘲気味に嗤うと、白咲さんは大真面目な顔をして、俺を正面から見据えた。
「メガネとか、コンタクトとか関係ないですよ。私はどんなゆきさんだって、変わらず好きです。だって私は……あの日、大人数の大人を相手に、勇気を出して助けてくれたゆきさんが、好きなんですから」
「!」
「ゆきさんは、ゆきさんです。たとえどんな格好でも、落ち込んで、ボロボロで、濡れた猫ちゃんみたいな有様になってしまってとしても。私にとっては、いつだってきらきらしていてカッコいい、王子様ですよ」
「俺は、そんなんじゃないよ……」
だって俺は、煮え切らないままデートして、君を悲しませて……
「いいえ。たとえ誰がなんと言っても。私にとってのゆきさんは、そういう人ですよ」
沈む夕陽を背に受けて、まるで後光を纏うように、白咲さんは微笑んだ。
『どんな姿の自分でも受け入れてくれる人がいるのは嬉しいよ。好きになっちゃうよ』
脳裏に一瞬、先日の荻野の言葉がよぎる。
(ああ……本当だな、荻野。こんな、こんなの……)
好きになっちゃうよ……
もし。あの日、あのとき、あの場所で。
出会ったのが、白咲さんでなければ。
俺は彼女を、自宅に招き入れることはなかったのかもしれない。
それが、運命だったんだと思う。
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