第56話 恋

 バイト先のある駅から徒歩十五分の閑静な住宅街。その中の一軒家に、俺は白咲さんを連れて帰ってきた。


 自宅に女の子を招くのは、むつ姉を除けば初めてだ。


 きょろきょろと、心なしか緊張した様子の白咲さんを連れて、もはや「ただいま」と言うことのなくなってしまった玄関を開ける。


「両親は留守なんだ。きっと今日も帰ってこないから、楽にしていいよ」


 恐る恐る、小声で「おじゃましまぁす……」と呟いていた白咲さんに声をかけ、リビングの明かりをつける。


 見た瞬間。白咲さんがやや驚いたように固まった。


「ゆきさん、あの……失礼ですけど、他のご家族は?」


「さっきも言ったように、家にはあまり帰ってこないよ。ウチは兄弟もいないし、両親は基本留守がちなんだ」


「え? でも……こんな……あまりに他の方――ご両親の生活感がないというか……」


 白咲さんは、両親の私物と思われるものが一切ない、下手をすれば新築、またはモデルルームと見紛うような殺風景なリビングに、動揺しているらしい。

 今朝、俺が予約してきた炊飯器が、夕方六時のタイマーに合わせてご飯を炊き上げようと、シューシューと無機質な音を響かせている。


 俺は慣れた手つきで鞄をソファに放り投げ、カーテンを閉めて風呂のスイッチを入れる。洗濯物は……今日は外には干してなかったな。だったら、脱衣所の洗濯乾燥機がちゃんと仕事をしてくれているはずだ。


「生活感、ね……それはそうかも。前に帰ってきたのはいつだったかな。もう忘れちゃった」


 ウチが、人様の家よりもおよそ『家族ファミリー』と呼ぶには程遠いものだという自覚はあった。だが、なにぶん家にむつ姉以外の人を招くのが初めてなので、正直ここまで驚かれるとは。どうフォロー……取り繕えばいいのやら。


 眉をさげて、できるだけ綺麗なコップにお茶を注いでいると、リビングの入り口付近でぼーっと佇んでいた白咲さんがぽつりと漏らす。


「寂しく、ないんですか……?」


「寂しい……のかな? ウチは、俺が小学四年くらいからこうだから、よくわからないや。それに、一人暮らしには慣れたしね。友達の家みたいに、夜更かししたら怒られるとか、宿題をやれって口うるさく言われるとか、そういうのもないし、結構快適だよ」


「…………」


 なんでもない、という風に言ってのけると、俯いていた白咲さんが、突如として顔を上げる。


「わ、私! お料理作ります! キッチンを貸してください!」


 白咲さんはセーラー服の袖をぐぐい、と捲る素振りをすると、ずんずんと冷蔵庫に向かっていく。


「え? でも、エプロンとかないし、制服が汚れちゃう――」


 って。それ以前に……


 「失礼します!」と、おもむろに冷蔵庫の扉を開けた白咲さんが、固まった。


「……え? ……あれ……?」


 白咲さんの視線は、煌々と白色灯に照らされた冷蔵庫の中の、一段分を埋め尽くす各種ウィダーインゼリー、申し訳程度に置かれたジャムや調味料、チョコレート、ごはんですよ的な瓶詰や、買い置きの惣菜などの間を所在なさげに行ったり来たりしている。

 無論、白咲さんの(おそらく)想定していたような食材や、肉、野菜のあまりなどがあるわけもない。


「はは、ごめんね。自炊って、あんましなくてさ。あ、でも、ご飯ならちゃんとあるよ。夕飯食べてくなら、ここに……」


 そう言って冷凍庫部分を開けると、選り取り見取りな冷凍食品たちに白咲さんは更に固まってしまった。


「あれ? 嫌いだった? 冷食……」


 やっぱり、お嬢様の口に食べさせるものではなかっただろうか。

 伺うように顔を覗き込むと、白咲さんはバッ! と顔をあげて叫ぶ。


「不健康ですっ!!」


「……え?」


「ゆきさん、まさか小学校のときからずっとこんな感じなんですか!?」


「それは、まぁ……」


 むつ姉の家でご飯をいただくとき以外は、そうだけど……


「男の独り暮らしなんて、そんなもんじゃないの?」


「男かどうか以前に、ゆきさんはまだ高校生……学生ですよ!? こんな……レトルトと冷たいご飯ばっかり……」


「お菓子もあるけど? サプリもちゃんと飲んでるし。あ。俺はね、ネイチャアメイドのマルチビタミンが気に入ってて。一粒に何種類もの栄養素が……」


「そういう問題じゃありませんっ!!」


 なぜか憤慨して止まらない白咲さんは、示された菓子置きを漁り、冷凍庫の中をがさごそとまさぐったあと、最後に使ったのがいつかわからないフライパンを取り出した。


「ちょっと待っててください! 一時間くらい! 一時間で、なんとかどうにかしてみますから!」


「??」


 ◇


 そうして、言われたとおり小一時間が経過したころ、俺の目の前には、ほかほかと湯気の立ち昇る夕飯が用意されていた。


「え。これ……?」


 まっさらだったダイニングテーブルに向かい合い、お茶の入ったコップを渡されながら、俺は驚きに固まる。


「じゃがりこで作ったポテトサラダに、冷凍庫で眠っていたお味噌を使ってお味噌汁を作らせてもらいました。具材は、インスタントに乾燥わかめとお豆腐を加えてそれっぽく」


「え……じゃあ、この『かつ丼』は??」


 どっから沸いて出たの?


「冷凍庫にあった『厚切りヒレカツ』……せめてもうちょっと、あったかい何かにしたくて。卵とめんつゆがあったので、それで。ゆきさん、カツが好きでしょう? デズニーランドでも、レストランでカツレツを選んでましたよね?」


 ……わ。覚えててくれたんだ……


「うっそ。めちゃめちゃ美味しそう」


「お褒めに与り、光栄です」


 半ば呆れたように、白咲さんは向かいで笑った。


「お夕飯っていうのは、こういう風に、誰かと一緒に、あたたかいものが冷めないうちにいただくものです。アイスとかお菓子とか、冷凍食品も美味しいし悪くないですけど、私はそう思います。さぁ、冷めないうちにどうぞ」


 そう言って渡される、割りばしじゃない箸。いつぶりだろう……

 目の前には、他でもない『俺』のことを想って作られたご飯が、ちょこんとお行儀よく並べられている。


「い、いただきます……」


 どこか落ち着かない心地で、胸を高鳴らせながら、湯気ののぼるかつ丼を口にする。


「美味しい……」


「わぁ、よかった! お口に合わなかったら、どうしようかと……」


「美味しい……すごく、美味しいよ……!」


 どうしよう。箸が止まらない。

 向かいで喜ぶ白咲さんがなんだかめちゃくちゃ可愛い気がするのに、目の前のご飯が美味しすぎて、手と口を止めることができない。


 大袈裟なのかもしれないけれど、俺は、そのできたてのカツ丼の湯気の向こうに、今まで想像しようとしてもできなかった、自分の『家族』の姿を見た気がした。


 ふと視線を向けると、白咲さんの指に、いくつかの絆創膏が貼られているのが目に入る。

 不思議だなぁ、とは思っていたんだ。

 塾で忙しいはずの、超お嬢様学校に通うJKが、こんなありもので美味しい晩御飯を作れてしまうなんて。

 脳裏に、白咲さんの言葉が蘇った。


『私、もっといい女になって、きっとゆきさんを手に入れてみせます』


(きっと、すごく努力して、美味しいご飯を作れるようになったんだろうなぁ……)


 俺の、ために……?


 どうにかして感謝の意を伝えようと視線を向けると、目が合った。

 白咲さんは、ふふ、と。心から嬉しそうに笑みを浮かべて。


「ゆきさんが元気になって、よかったぁ……」


 フラれたばかりで薄情なのかもしれないけれど。

 俺は、その瞬間――恋に落ちてしまった。

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