第47話 ファーストキス

「お願い……抱き締めて」


 震える荻野に、俺は言葉を失う。

 カチコチ、とアナログの壁掛け時計の音ばかりが響き、自分や周りの空気は止まっているのに、音だけが動いている、そんな変な感覚に陥る。


 しばらく動けないまま、荻野の背に当てた手ばかりが熱くなって、抱き締められないでいると、フロア遠方の非常灯が点灯した。


 うっすらと灯りの差し込む暗室で、荻野がそっと身体を離す。

 いつの間にか、雷はどこかへ行ってしまったようだ。

 俺はそれどころじゃないけど。


「ごめん、驚いたよね」


「あ。いや、その……」


 見たことのない弱気な表情と仕草に、心臓がバクバクと音を立てている。

 荻野は目尻を軽くこすって、ふい、と顔を逸らした。


「カッコ悪いとこ見せちゃって……あーもう、最悪。でも、カッコ悪いとこ見られたのが、真壁でよかった……」


「……泣いてるのか?」


「ばか、そんなんじゃないし」


 まだ微かに震える声が、それが強がりであることをあらわしていた。

 俺は、普段より一層白く、半ば蒼白になった荻野の指先を握った。

 ……冷たい。きっと、すごく怖かったんだろうな。


「非常灯がついた。この明るさならなんとか従業員出口を目指せるし、停電もじきに復旧するだろうけど、落ち着くまではここにいよう」


「でも……そんな。いいよ、先帰って。落ち着いたら、あたしも帰るから」


「そんな状態の荻野、ひとりで帰らせられないよ。もし今帰るっていうなら、家まで送ってく」


「へ!? だって、あたしの家、電車乗るよ? 真壁はここが最寄でしょ?」


「でも送ってく。ついでに、荻野の苦手なゴリマッチョ(笑)の兄貴に、ご挨拶でもしていこうかな」


 なだめるように手をさするたび、荻野の指先に体温が戻っていくのがわかる。


「真壁……そういうとこだよなぁ……」


 なぜか気まずそうに顔を背ける荻野。

 暗室でふたりきり。とはいえ、俺と荻野はマブな仲だ。さっきはついぞ見ない態度に驚き、ドキドキとしてしまったが、俺ももう落ち着いた。

 荻野が落ち着くまでは、もう少しこのまま……傍にいようと思っていたら、荻野が不意に身体を寄せる。

 隣に座った俺の胸に手を添えて、ぐっと力を込め、押し倒すように圧をかけてくる。


「ねぇ、真壁さぁ……」


「なに?」


 打ち解けた人間に対するパーソナルスペースがやたら狭い荻野だが、それにしてはあまりに近いその距離に、再び動揺する。

 だって、荻野の薄くて平たい胸が、とわかるほどに密着していたからだ。

 いくらナイチチな部類といえど……やっぱり、柔らかいんだな。……一応。


「真壁ってさぁ……普段、マスクしてて気づかなかったけど。……六美さんにちょっと似てない?」


 そう言って、アイスを食べるために顎にずらしていたマスクをパッと取った。


「ほら、唇とか。形がちょっと……さすが親戚。うわ、イイなぁ……」


 細くて白い指先が、俺の唇をするりと撫でる。

 深い海みたいな蒼のカラコンが、見透かすように、じっと見つめてくる。


「く、くすぐったいよ。やめろって……」


 押されるままに、思わず身体を仰け反らせると。

 荻野はそのまま、俺を長椅子に押し倒した。


「ねぇ。真壁……チューしたい」


「……は?」


 絹糸のような銀髪がさらりと上から零れる。それを耳にかけながら、荻野は俺の上に跨り、覆いかぶさった。


 顔が近い――と思う間もなく、視界が暗転する。


 思わず目を瞑ると、同時に、柔らかな感触が口内を襲った。

 唇を食み、何かを味わうようにして、荻野が心地よさそうに音を立てる。


「……ん。ダイキュリーアイスの味がする。あたしの一番……好きな味だ」


「お、おぎの……おまえ、なにして……」


 呆然と頭上を見上げる俺に、荻野は。

 ペロリと、小悪魔的な笑みを浮かべた。


「……美味しい」


「お、おぎっ……」


(荻野ォォオオーーッ!!)


 叫ぶ間もなく、荻野が再びかぶりつく。


 荻野の舌についた真珠大のピアスが、俺の舌上をゴロゴロと撫でた。


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