第39話 ホテルです

「えっと、ここって……?」


「ホテルです」


 にこりと、さも当たり前のように、白咲さんは言い放った。


 するりとした柔らかい動きで、俺との距離をごくごく自然に詰めてくる。

 呆然と垂れ下がった俺の右腕を抱き締め、挟むようにして胸を押し当てて、言う。


「イヤ、ですか?」


 潤んだ瞳が、夜景を反射して眩しい。


 俺は脳内で、一生懸命にアラートを発した。


 イヤ? いやいや。ダメでしょ此処は!


「い、嫌とか、そういう問題じゃないんじゃない……?」


 絞り出すように疑問を投げかける。


「あの、白咲さん……?」


 俺たち、いつから付き合ってたっけ?

 え、何? 白咲さんは、付き合ってない奴とでも、こういうトコに来ちゃう感じなの?


 ダメだ。お嬢様ぽくて照れ屋な、いつもの白咲さんとのギャップが激しすぎてついていけない。

 それとも逆に、性的知識が不足し過ぎて、男女がホテルで何もなく、安眠できると思ってる?


 そんなに可愛いあなたと、僕が……?


 さすがの俺も、それは無理……だと、思うんだけど……


 せ、せめて一般論を……


「こ、こういう所は、恋人同士で来るものなんじゃないの?」


 前に坂巻も言ってたじゃないか。


『そういうとこはぁ……! デートして、キスして、とか。もっと仲良くなってから、自然と行くもんじゃん……?』


 ってさ。

 

 あのときの言葉を、そっくりそのまま投げかける。


「ほ、ほらっ。こういうところはさ、デートして、キスして、とか。もっと仲良くなってから行くべきところなんじゃあ……?」


 白咲さんは、ちょっと不満げに。


「デートはしました。キスも……したいです。だからもう、ホテルでいいですよね?」


 えーっと、う~んと……


 ……なんにもよくなくね?


(でも今、白咲さんが「キスしたい」って……キスしたいって言った……!)


 お、俺と!?


 いや、冷静に。他に誰がいんだよって話だけどさ。

 ……う、嬉しい……


 戸惑うばかりの俺の右腕に、白咲さんは焦ったそうに、頬をむーっと擦り寄せる。


「私は……ゆきさんだから、行きたいんです」


「へ?」


「私……ゆきさんが、好き……です」


「!」


 固まる俺に、白咲さんはぽつぽつと語り出す。


「自分で言うのもちょっと恥ずかしいんですけれど。助けてくれたあの日から、ゆきさんは、私の王子様なんです」


「!?」


「最初は、『親切でカッコいい店員さんだなぁ』って思ってる程度でした。でも、アイス屋さんに通うにつれて、話していて心地がいいなぁ、また行きたいなぁ、会いたいなぁ、って思うようになって。他の子を駅まで送っているところを見かけて、なんかモヤっとしたり。思えば、あのときからもう、私はゆきさんが好きでした。

 でも先日、危ないところを助けてもらって。それが決め手っていうか……もうどうしようもないんです。好きで、好きで。『あぁ、恋にって、こういうことなんだな』って」


「白咲さん……」


「私は、あなたとデートができて、今日一日とっても幸せでした。この幸せを手放したくない。もっと欲しい。強引でもいい。お願いです、ゆきさん。 ……私の初めてを、もらってくれませんか?」


 ふにゅり、と胸を押しつけられて、思わず「ふえっ!?」っと変な声がでる。


 は、初めてを……ですか!?


 それってつまり……


 恐る恐る視線を向けるにつれて強まる、おっぱいの圧が。『そういうことだ』と告げている。


 無論。俺は童貞だ。


 ど、どうしよう。心の準備が……

 ゴムも無い……


 ……じゃなくて……!


(ダメだ、ダメだ! こんな、なんて……!)


 いくら白咲さんに望まれているとはいえ、正式に付き合っているわけでもないし、俺には『この人が好き』と公言までしているような想い人がいる。

 今日は『お礼』だと言うので、誘われるままにデートに来てみたが、こんな心のモヤモヤを抱えたまま白咲さんを抱いてしまったら、人としてなんかダメな気がするし、白咲さんにも申し訳ない……!


 でも、ここで機を逃したらチャンスなんて一生ないかもしれないし……

 ここは一発、もう白咲さんと付き合うことに決めて――って。決める順番、なんかおかしい気がするっ!

 そんな、ホテルに入りたいから付き合う、みたいな……ダメだろっ!


 俺は脳内で苦渋の決断を下し、深く頭を下げた。


「……ご、ごめんなさい! 俺には……好きな人がいて。まさか、白咲さんがここまで俺を想ってくれているなんて思わなくて……デートの前に言えればよかった。期待させるようなことをして、本当にごめんなさい」


 今できる精一杯の謝罪と、絞り出せるだけの誠意を込めたつもりだった。

 ここで黙ったまま、欲に流されてホテルに行くのは最悪の結末――

 心に加賀美さんへの想いを残したまま、白咲さんと付き合うのか?

 それこそ、本当の意味での裏切りだと思う。

 だとすれば……断るしかない。正直に。


 「どうして黙ってた」。

 罵倒されてもいい。嫌われてもいい。だが、これ以上白咲さんを、心身ともに傷つけたくない……

 それくらい、俺も。今日のデートは楽しかった。幸せだった。

 だからせめて、正直に。きちんと断ろう……


 ぎゅう、と目を瞑って、拒絶される恐怖に耐える。


 泣かせてしまうだろうか。それは嫌だな。

 白咲さんが泣きそうな顔を想像して、自分まで泣きそうな心地になる。

 彼女を泣かせてしまうことが、こんなに苦しいことだなんて。

 その胸の痛みに、自分の中にある、白咲さんへの好意がじんわりと広がっていくのがわかる。


 昔、誰かが言っていた気がする。

 『その人の悲しみや感情を、知らず知らずのうちに、自分のものみたいに共有してしまうこと……それも、”好き”ってことなのかもしれないね』って。


 俺は、白咲さんのことも好きだ。


 泣いて欲しくなんかない、と思う程度の、『好き』。

 友達へ向ける『好き』とも少し違う。けれど、愛しているというには拙すぎる、『好き』。

 親愛とも恋慕とも違う、憧憬でもない。

 ……愛しい。 できることなら守ってあげたい、泣かせたくない。


 我ながらなんて虫のいい、身勝手な話なんだとは思う。

 けれど、俺は確かに、白咲さんのことも好きだった。


 でも今は。だからこそ、その想いには応えられない……


 頭の中で、「あ~あ、やっちまった。もったいない」と悪魔が囁き、そいつを「じゃあ、加賀美さんへのこの想いを無かったことにするのですか!?」と天使がぶん殴って止める。


 もう、何が正解かなんてわからない。

 「据え膳食わぬは男の恥だ」って、「女性から誘われたら応じるのがマナー」だと、そういう人もいるだろう。

 ただ、、こうするべきだと思った。


 しばしぽかんとしていた白咲さんは、抱きついていた腕から離れると、まっすぐに顔をあげた。

 それは、俺が思っていたより、数倍強い眼差しだった。


「それって、その好きな人って……恋人さん、ですか?」


 おずおずと伺う視線に、おずおずと答える。


「え? いや、それは違うけど。俺のただの片想い……」


「片想い? 学校の人? 年上ですか?」


 な、なんだろう。圧が強い……


「学校の……クラスメイトです……」


「ならいいです」


 ……なにが?


 頭に疑問符を並べたまま、てくてくと目の前に移動してくる白咲さんを眺める。


「ゆきさん。耳を」


 毅然とした声に、びくりと肩を跳ねさせると、白咲さんは手をちょいちょい、と上下に振った。

 どうやら、少し屈めということらしい。内緒話だろうか。


 促されるままに身体を屈めると、白咲さんの口元が徐々に近づいてくる。

 第一声の、耳のこそばゆさを我慢しようと目を瞑ると、次の瞬間……


 ……ちゅぅ。


(……へ?)


 頬に、柔らかな感触がした。


 顔を離した白咲さんが、恥ずかしそうに、なおかつ不敵に、指先を唇に添えている。 


「これは、お返しです。好きな人がいると、黙っていたことへの。本当は口にしてしまいたかったけど、ファーストキスだと恨まれそうだから。そもそもこのデートは、『お礼』だったわけですしね。私も、少し焦り過ぎてしまいました」


 ふふ、と妖艶な笑みを浮かべて、白咲さんは宣言する。


「私、こう見えて諦めの悪い女なんです。恋人でもない、年上でもない。ただのクラスメイト? だったら私にもまだチャンスはある。私、もっといい女になって、きっとゆきさんを振り向かせ……手に入れてみせますから。覚悟してください」


 そのあと、白咲さんは「じゃあ、また、アイス屋さんで」と。何事もなかったかのように去ろうとする。

 ふわりとこげ茶の髪が揺れるその背に、俺は精一杯の声をかけた。


「あ、危ないよ! もう遅いし、家まで送る!」


「……あなたは。そういうところがっ……!」


 ――『大好きなんですよ……』


「?」


「今日は友達の家に泊まって帰ります。元より、親にはそう言ってあるので」


「でも!」


 こんな時間から? そんな当てがあるのか?


 引き止めようとする俺に、白咲さんは、「お願い。今日は、今日だけは。このまま帰らせて」と。世にも綺麗な笑みを浮かべた。

 そして、去り際にぽつりと呟く。


「ねぇ、ゆきさん? ……さっきのキス……イヤでしたか……?」


「そんなこと、ないよ……」


 あるわけ、ないじゃないか……


 その答えに満足したのか、白咲さんは「なら、よかった」と口元を綻ばせて、その場をあとにしたのだった。

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