第12話 あーん

 自宅から徒歩数分の距離にあるむつ姉の実家。昔から何かとお世話にはなっているのだが、中学にあがってスマホを持つようになってからは、むつ姉とのやり取りももっぱらLINEがメイン。こうしてお邪魔するのは久しぶりだ。


 何年ぶりだろう……高校を受験する際、むつ姉に勉強を教えて貰ったりもしていたが、外のカフェとか、図書館で、とかが多かった気がする。


 どこか懐かしいような、それでいてよそのお家だとわかる、馴染みない匂いに胸をどぎまぎさせつつ靴を揃える。


「お邪魔しまーす」


「ああ、テキトーにあがって。お父さんもお母さんも、今日は飲み会で遅いらしいんだ。おかゆ、さっさと作っちゃうから。それともおうどんがいい? できるまでソファにでも……きゃああっ! お母さん、洗濯物出しっぱなしじゃないっ!」


 一足先にリビングに足を踏み入れたむつ姉は、肩甲骨あたりまである艶やかな黒髪を振り乱し、慌てて後ろ手で扉を閉めた。

 あの叫びよう……おそらくだけど、むつ姉の下着とかが散らかっていたんだと思う。部屋干しされてたのか、洗濯済みのが畳まれて置いてあったのかは知らないけどさ。まぁ問題はそこじゃない。


「……ごめん。私の部屋で待っててくれる?」


「え。あ。うん」


「おかゆか、おうどん、どーする?」


「……じゃあ、おかゆで」


 ちょっとうっかりさんなむつ姉のことだ、運んでいる途中でお汁をこぼしたら、大惨事だからな。


  ◇


 勝手知ったるむつ姉の部屋は、二階にあがって右端だ。

 俺は、「できたら持ってくね」と言われるままに部屋にお邪魔した。


 扉を開けた瞬間、なんとなくむつ姉の匂いがした。

 多分、発生源はあのベッドだと思う。

 柔らかくて、ちょっと甘くて、やさしい匂い。


 完全になんらかのフィルターがかかっているためにそう感じるのかもしれないが、包まれていて幸せになる匂いだ。


 小さな頃は、無意識にそれを理解していたのかもしれない。無性にむつ姉の家に行きたくなるときがあって、お気に入りのおやつを持ってよくお邪魔したものだ。


 当時の俺は小学校低学年。中学生だったむつ姉にしてみれば、拙く退屈な遊びにつきあってもらっていたのかもしれない。

 だが、むつ姉は俺にそんなことを微塵も感じさせないくらい、一緒になって楽しそうに遊んでくれたのを思い出す。


 ふと部屋を見回すと、棚の上に小さなくまのぬいぐるみがちょこんと鎮座しているのが見えた。


 俺が幼い頃にあげた、誕生日プレゼントだ。


(まだ、持っててくれたんだ……)


 その事実に、どうしようもなく嬉しい気持ちが込み上げる。


「お待たせ〜」


 お盆に、お粥の入った小さな土鍋と取り皿を乗せて、むつ姉が入ってきた。

 大学帰りの私服である、膝丈のスカートと華奢な半袖のブラウス姿にエプロンをつけたむつ姉が。

 取り皿をローテーブルに並べながら、優しく微笑む。


「作るの面倒だから、今日は私もお夕飯、おかゆにしちゃう。一緒に食べよ?」


「え、でも、いいの? そうだよな、面倒だよな、わざわざ俺のために、ありがとう……」


「あ。そういう意味じゃないの! 自分の分だけ別に作るのは面倒だったっていうか。ゆっきぃの為に作るのは、全然面倒とかじゃないよ! そもそも、私の方から誘ったんだし」


 慌てて訂正するむつ姉は、目を細めて照れ臭そうに、器に2人分のお粥をよそう。


「私ね、嬉しいんだ。ゆっきぃが大きくなってからも私に頼ってくれるのが。こうして一緒にご飯を食べる時間も好きだし。ほら、どーぞ。熱いから気をつけてね」


 そう言って、れんげから湯気を出す卵粥にふーふーと息を吹きかけ……


「ゆっきぃ、あーん」


「……!」


 まさかこの歳になって、あーんされるとは思ってなかった。


 息がかかりそうな距離の近さと、目の前に差し出されたれんげに動揺して固まっていると、不思議そうに首を傾げられる。


「あれ? 食欲ない? まだあっちぃかな?」


 ふーっともう一度と息を吹きかけ、自分の口に運ぶ。


「うん! 大丈夫、美味しいよ」


 むつ姉は微笑んで、もう一杯お粥を掬う。そうして、ふーっと念入りに息を吹きかけてから、れんげの端にわずかに口紅の残ったそれを差し出した。


「はい、あーん」


(…………!)


 俺は、顔が赤いのに気づかれないよう祈りながら、遠慮がちに口を開けるしかなかった。

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