いいよ、楽しみにしてる

 翌週の月曜日はいつも通り学校に行った。

 体調はすこぶるいい感じだ。

 身も心もスッキリして、学生らしく勉学に励もうと意気込んだはいいものの、月曜の最初の授業が体育だったことを思い出す。

 病み上がりの身体でいきなり体育はちょっとキツイ。こんなことは普段は滅多にしないのだが、ここは仮病を使わせてもらうことにしよう。

 この学校はその辺のチェックが比較的甘いので、少し熱っぽいふりをして体調が悪いと教師に言うだけですぐに見学を認められた。

 つい先日まで本当に風邪をひいていたこともあって、演技はお手の物だ。

 保健室で気分が悪いことを伝えると、じゃあベッドで休むようにと言われた。


「なに、気分が悪いって? ならばそこのメディカルマシーンに横になるがよい。ウィーン、ガチャッ。起動します!」


 どうでもいいけどこの学校の養護教諭(♀)はかなりのオタクだ。

 教諭の指示通りにメディカルマシーン(ただのベッド)に横になって一時限目をやり過ごす。

 保健室のベッドって見た目の割に結構、寝心地がいい。

 よくエロ漫画で保健室のベッドで男女がシーンがあるが、現実で実行に移すやつはいないだろう。

 数十分ほど経ち、授業の終わりを告げる予鈴が鳴り響いたので、そろそろ教室に戻ろうと立ち上がりかけた直後、誰かが扉を開けて入って来た。


「失礼します」


 染井さんだった。


「あれ、八神。どうしてここにいるの?」


 俺と目が合うと、目を丸くして言った。


「えっと……ちょっと気分が悪くて」

「もしかして風邪がまだ治ってないの?」

「いや、そういうわけでは……」


 言いかけて、養護教諭が近くにいることを思い出す。

 今この場で否定すると、仮病であることがバレてしまう。染井さんには心苦しいが、こうなったら嘘を貫き通すしかない。


「じ、実はそうなんです、ゴホゴホ……。ところで染井さんはなにしに保健室に?」

「私、保健委員だから」

「へえ、そうなんですか」


 初耳である。

 染井さんはこういう面倒なことはやりたがらないタイプだと思っていたから。

 最近、俺の中の染井さんのイメージがどんどん覆されていく気がする。


「それで、風邪はどのくらい酷いの?」

「えー、いやあどのくらいと言われましても……」


 予想以上に心配顔で言われて、思わず口ごもってしまう。

 やはり仮病を使ったのはまずかったか。

 しかし今更うそぴょーん、とか言ってもぶっ飛ばされるのがオチだろうし……。


「体温は計った?」

「いやまだ……」


 すると染井さんは養護教諭に「先生、体温計はどこにありますか?」と訊ねた。


「ああ、それならそこのメディカルキットの中に入っている。でも気をつけて。下手に弄ると赤外線トラップに引っかかる」


 なにいってんだこいつ。

 染井さんは薬品棚に置いてある救急箱から体温計を取り出し、「はい、これで体温計って」と俺に手渡した。

 この辺は保健委員らしい手際の良さだ。


「ああそうそう、昨日はお見舞いの品ありがとうございました」


 体温を計っている間、俺は昨日のフルーツゼリーセットの件を切り出した。


「あ、うん。あれ美味しかった?」

「はい。でもあれ凄く高いやつなんじゃないですか?」

「気にしないでいいから。ウチじゃ誰も食べないし」

「いやいや、そういうわけにはいきませんよ。ああいうタイプのやつって千円以上するんでしょ?」

「んー、3000円くらいしたかな?」

「しゃんじぇんいぇん!? ……あ、すいません。嚙んじゃいました。あまりに衝撃的だったもんで……」

「そう」


 たかが風邪のお見舞いごときにそんな高価なものをくれたのか。

 盲腸の手術で入院してる人ならともかく。

 染井さんは、たまたま家に余ってたものを渡したような口振りだが、やはりただで受け取るのは気が引ける。


「やっぱりなにかお返しさせてください。そうだ、こうしましょう。今度なにか染井さんが欲しいと思うものを買います。それでどうですか?」

「私になにかプレゼントしてくれるってこと?」

「まあ、簡単に言うとそういうことですね。正確にはお礼ですけど」

「……わかった。いいよ、楽しみにしてる」


 そう言いながら染井さんは、微かに口元を緩めて笑顔を見せた。

 染井さんが笑ったところを見たのはこれが初めてだ。

 常に仏頂面でギャグ漫画を読んでいても一切笑わない人だから、正直ちょっと驚いた。

 元々整った顔立ちをしているのと、普段のギャップもあって、その笑顔はとても魅力的に見えた。

 それで、なんというかその……不覚にも見惚れてしまった。


「そ、そうですか……あ、そろそろ体温計れた頃かな?」


 動揺を悟られない為、誤魔化すようにそう言って体温計を取り出す。

 染井さんは受け取った体温計を見てこう言った。


「36,9度……平熱だね。他にどこか具合が悪いとこある?」

「あ、はい。なんか少しだけ喉が痛くて」

「そう、じゃあちょっと口開けてみて」

「え」


 唐突な提案に一瞬面食らった。

 それって医者が診察する時にやるヤツだよな。


「あの……そういうのはちょっと……」

「いいからホラ、アーン」

「……はい」


 半ば強制的に口を開かされた。

 俺の下顎を掴んで、熱心に喉の奥まで覗き込む染井さん。なんだか一種の羞恥プレイを受けているようだ。

 近所のクリニックで若い女医さんに診てもらった時はそれほどなにも感じなかったのに、相手が知り合いというだけでここまで恥ずかしくなるものなのか。

 手が放れてようやく終わったかと安心しかけた時、さらに驚くべきことが起こった。


「ふうん。喉は腫れてないみたいだけど……」


 あろうことか染井さんが顔をグイっと近づけてきて、自分の額と俺の額をピタッと密着させて熱を計るという行為に出た。


「……あ、あの染井さん?」

「動かないで」

「そ、そんなこと言われましても……」


 距離が近すぎる。

 染井さんの顔が文字通り目と鼻の先にあって、今にも触れてはならないところが触れ合いそうだ。

 染井さんってこんな大胆なことする人だったっけ?

 男が大嫌いで触られるのさえ極端に嫌がる人のはずなのに。


「確かに熱があるみたいだね。顔が凄く熱い」


 そりゃ女子の顔がこんな間近にあったら、思春期男子なら顔が熱くなるのは当たり前でしょ。

 これは風邪のせいではない。


 ――絶対あの人先輩に気がありますよ。


 ふと昨日の椎名との会話が頭をよぎる。

 いや、まさか。染井さんに限ってそんなことあるわけがない。

 きっと俺が知らないだけで染井さんは世話好きな性格なのかもしれない。

 それならここまで俺に世話を焼く理由も説明がつく。部活仲間が困っているから助けたいと思ったのだ。

 そう、断じて気があるからではない。

 でもこの前、一緒に映画を見に行った時に、恋愛ごとに興味があるような話をしていたし、ないこともないのか?

 なんか混乱してきた。


「ねえどうする。熱があるなら早退する?」

「いや、なんか気分がよくなってきたので頑張ろうと思います」

「そう。無理しないでね。辛くなったらいつでも言っていいから」

「ありがとうございます」


 普段の染井さんからは考えられないほどの優しさ。

 風邪をひくと皆が親切になるというのは本当のようだ。

 染井さんがこんなに気を遣ってくれているのに、嘘をつくのは少々胸が痛む。


「ねえ、そういえばお昼はどうするの?」


 そんなことを言い出した。


「ああ。今日は食堂でなんか食べる予定です」

「そう、実は今日お弁当作り過ぎちゃったんだけど、もしよかったらわけてあげようか?」

「え、それって……染井さんが作った弁当を食べていいってことですか?」

「嫌ならいいんだけど」

「そ、そんな滅相もない。染井さんの手作りを貰えるなんて凄く光栄なことだと思います。ただお見舞い品を貰った上に弁当までご馳走になるのはちょっと申し訳ない気がして」

「じゃあそれも貸しにしといて」

「いやいや、そこまでされたら借金で俺の首が回らなくなりますよ……ウチは今日を生きるのも精一杯な貧乏人なもんで。ゲホゲホ……」

「……なに言ってんの?」

「いやなんでもないです。すいません忘れてください……」


 忘れてた。この人冗談が全然通じないんだった。


「どのみち私一人じゃ食べきれないから、八神がもらってくれないと全部捨てることになるけど」

「そうなんですか。じゃあいただきます」


 って、よく考えもせずになに適当なことを口走っているんだ俺は。

 ここでさらに染井さんに借りを作るのはいい選択とは言えない。

 だが全部捨てられるなんて勿体ないだろう。

 これも食品ロス対策と思えば気は休まる。俺は便利な残飯処理機。

 椎名が知ったら決していい気はしないだろうが。

 しかしこの選択がの嫉妬を買ってしまい、大惨事を招くことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。

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