まったく面倒なことになったなあ……

「はい、じゃあここの商品を順番に棚に並べてくれるかな?」

「わ、わかりました」


 ついに迎えたバイト初日。

 俺は先輩店員の指示にしたがって段ボールから商品を取り出していく。

 俺が働くことになったのは関東地方では有名なミニスーパー。

 時給もそこそこだし、面接官も感じのいい人だったのでここを選んだのだ。


「いやーそれにしても若い子が入ってきて本当によかったわあ。今までは私とあのセクハラ店長だけだったから最悪で」

「はあ……」


 先輩店員の三枝沙織みえさおりさん、大学四年生(彼氏募集中)はかなりフランクな性格のようだ。

 髪を金髪に染めて耳にピアスを着けていかにもギャルといった風貌だが、丁寧な口調で的確に仕事を教えてくれている。

 ただ少々フランク過ぎるきらいがあることは否定出来ないが。


「ねえねえ八神君って彼女とかいたりするの?」

「は」


 いきなりなにを言い出すのだ。


「いや、そういうプライベートなことをここで話すのはちょっと……」

「いいじゃない。私とアナタだけなんだし、これから一緒に仕事することになるんだから、相手のことを色々と知っておいたほうがいいでしょう?」


 だからって異性関係まで教えなきゃいけないというルールはないと思うのだが。

 言いながら三枝さんは徐々に俺のほうへ摺り寄ってくる。

 男女が逆ならセクハラが成立しているところだ。


「でもまだ自分らそういうことを話せる関係じゃないでしょ」

「なら今からそういう関係になればいいじゃない?」

「え……」


 なんだか最初の頃とはだいぶ印象が違うな。

 面接の時は猫を被っていたんじゃないのか。

 ここで頑なに拒否すると、角が立って今後のバイトに支障が出かねない。かといってプライベートなことを初対面の人に話すのも躊躇われる。

 ここは最低限のことだけを教えて適当に誤魔化すことにした。


「そのぉ……前に付き合ってた彼女と酷い別れ方をしたんですよね。だからそういうことはあまり触れて欲しくなくて」

「まーあ可哀想。私ったらそうとは知らずにごめんなさい。じゃあお姉さんが慰めてあげましょうか?」

「い、いや……」


 どうしよう。

 初日からこんな調子でやっていけるのか不安になってきた。




「はあー参ったなあ。これからどうしよう……」


 束の間の休憩時間、俺は事務所に入って他に誰もいないことを確認してから大きく溜息を吐いた。

 溜息の理由は思っていた職場環境がとだいぶ違ったからだ。

 あれから何度も武藤さんに言い寄られた。

 もちろんこれだけでバイトを辞めるなんて気は更々ない。

 どうせ長く続けるつもりもないのだ。多少パワハラがキツくても我慢するつもりだった。

 しかしまさか女性の店員にセクハラを受けるのは予想外してなかった。

 でも毎回シフトが被る訳ではないし、そこまで深刻に考える必要もないか。


「まったく面倒なことになったなあ……」


 休憩時間が終わり、気を取り直して仕事に戻ることにした。

 再び商品を並べていると、客に商品の場所を訊ねられたので武藤さんを呼ぶ。

 バイト初日の俺では、どこになにがあるかわからないからだ。


「どうもすいません三枝さん、おかげで助かりました」


 客がレジに向かった後、俺は小声で三枝さんにお礼を言った。


「気にしなくていいのよ、新人を教育するのが私の役目なんだから。なんならあんなことやこんなことまで教えてあげましょうか?」

「え……いや、それはちょっと」



 その時――

 窓の外から見慣れた顔をした人物がこちらを覗いているのを発見した。

 一瞬、幻覚でも見ているのかと思った。

 だってそこにいたのは、今一番会いたくない人だったからだ。

 見間違えようもない、その人物――椎名凛音は、笑顔で手を振りながら店内に入ってきた。


「こんにちはー先輩、こんなところで会うなんて寄寓ですねえ」

「し、椎名……」


 咄嗟に言葉が出てこなかった。

 落ち着け。まだバレた訳ではない。動揺した素振りを見せれば怪しまれるぞ。


「ここでなにやってるんですか?」

「見りゃわかんだろ、バイトだよバイト。邪魔になるから話しかけないでくれ」


 よしよし今のは上手い言い方だったぞ。

 こうすれば、不審に思われずに椎名を追い返すことが出来るだろう。


「そうですか。でもおかしいですねえ。私の記憶が正しければ今日は友達と遊ぶ約束があるって言ってませんでしたっけ?」

「う……」


 しまった。迂闊だった。

 あの時は下手に嘘をつくよりも、ファンデーションのことは伏せてバイトをするとだけ言えばよかったんだ。


「なんで噓ついてまでバイトなんか始めたんですか?」

「お前には関係ないだろ」

「あるいは私には言えない理由があるとか?」

「な、なに言ってんだ。そんなことあるわけないだろ!」


 鋭い……。

 この椎名は基本的にのほほんとしているが、たまにとんでもない洞察力を発揮するから油断出来ない。


「もしかしてあの人に会いたくてバイト始めたんじゃないですか?」

「んなワケないだろ。今日初めて会ったばっかなんだぞ」

「そうですか、それにしてはずいぶん仲がよかったですねえ?」

「あれは三枝さんが一方的に擦り寄って来ただけで……」

「いやいや、とてもそんなふうには見えませんでしたけどねえ。あれは人目もはばからずにイチャつくカップルそのものですよ」

「そんなふうに見えてたのか……」


 まあ無理もないけど。

 事情を知らなかったら俺でも勘違いしただろう。


「というか初対面なのにもう名前で呼んでいるんですか」

「ばーか、三枝ってのは苗字だよ。噓だと思うんなら本人に訊いてみろよ。迷惑をかけない程度にな」

「……いえ、さすがにそんな迷惑かけるようなことは出来ませんよ」

「そうか」


 さすがの椎名も無関係な人間を巻き込むほど非常識な人間ではなかったか。


「だからしばらくここにいて、先輩の言葉が本当か見張ることにします」

「それが迷惑だって言ってるんだよ!」


 と、思いきやそうでもなかった。


「心配いりませんよ。店の隅っこでこっそり見るだけですから」

「ふざけんな、今すぐこここから出ていけ。さもないとつまみ出すぞ!」

「客にそんな暴言吐いていいんですか?」

「う……」


 椎名に痛いところを突かれ、俺は言い淀む。

 確かにバイト初日で問題を起こすのは色々とまずい。

 事情を説明しても新人の俺の言うことに耳を傾けてくれるとは思えないし。


「ついでに先輩の客に対する態度も報告しておきますね」

「わ、やめろ! そんなことしたらファンデーションが買えなくなる!」

「ファンデーション?」

「あ」


 やっちゃった。

 つい口が滑ってしまった。

 ああもうお終いだ。


「……それ、どういう意味ですか?」


 訝しげな眼で訊ねる椎名。

 質問口調だが、どういう意味かはもうすでにだいたい察しがついている顔だ。

 もはやここまできたら隠しきれない。


「わ、分かった正直に言う!」


 俺は観念して本当のことを話し始めた。


「実は前に椎名がファンデーション失くしたって言ってただろ?」

「ええ」

「あれ実は俺が足で踏んづけて壊しちまったんだよ。それでバイトして新しいのを買ってバレないようにお前に渡そうと思ってたんだ」


 椎名はうんうんと頷きながら俺の話を聞いていたが、やがて納得がいったように「あー……」と溜息を吐いてこう言った。


「なんだそーだったんですか。どうりで最近なんか様子がおかしいと思ってたんですよ」

「本当にすまん……謝るから殴るのだけは勘弁してくれ」

「なんで人をそんな鬼みたいに言うんですか……」

「だってお前、壊した奴は絶対に許さないってしょっちゅう言ってたじゃないか」

「まあ先輩が私の為にここまでしてくれたんだから、どれだけ怒ってても許したくなっちゃいますよ」

「そ、そうか……」


 なぜか椎名はどことなく嬉しそうな表情をしていた。


「でもそれってあの女性店員とイチャついてた理由にはなってませんよね」

「いや、ホントに武藤さんとはなにもないんだって。さっきも言ったけど、初対面だって言ったてただろ。疑うなら本人に直接訊いてみればいいじゃないか」

「ふーん……まあいいですけど」


 椎名はまだ納得しきっていない様子だったが、それ以上はなにも言わなかった。

 色々あったが、これで一件落着と言っていいのだろうか。


「それにしてもファンデーション、どこにもないと思っていたらそんなところにあったんですね。どうりで見つからなかったはずですよ」

「つーかそもそもなんで俺の部屋にあったんだよ。やっぱりお前、俺のいない間に無断で入ったんじゃないのか」

「……ナンノコトデスカ?」

「なんで片言口調なんだよ」


 往生際が悪い。

 俺のことは散々疑っておいて、自分に矛先が向くとシラを切るとは、どういう根性してるんだ。

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