……せんぱぁい?
今日はすこぶるいい日だ。
なぜかって、毎月この日は小遣いが貰える日だからだ。しかも今回はいつもより金額が多い。
実は数日前、出張中の母に新しい服を買いたいと電話で要望を出しており、小遣い日にまとめて振り込むと約束してくれたのだ。
「ふっふっふ……これで欲しかったパーカーが買える」
たった今、ATMから下ろしてきた金を財布に入れながら、上機嫌で帰宅の途につく。
今日は本当にいい日だ。
それに――アイツにも出くわさなかったし。
「せーんぱいっ! なにをニヤニヤしてるんですか?」
はて気のせいだろうか。
なにやら後ろのほうから幻聴が聞こえるような。
「ねえ先輩ってば、なんで無視して歩き続けるんですか?」
うん。どうやら聴覚に異常があるようだ。
声だけでなく、スタスタと後ろをついてくる足音までするぞ。
今度、耳鼻科に行ったほうがいいな。
だってこんなめでたい日に、椎名と偶然遭遇するなんてあるはずないのだ。
「ちょっと先輩、いい加減返事しないと怒りますよ」
とかなんとか思ってたらグイっと袖を引っ張られた。
「なんでこんな時くらいそっとしておいてくれないのかなあ……」
「? こんな時ってどんな時ですか?」
「……いや、もういい。で、なんか用か?」
一々説明するのも面倒なので話を逸らす。
「いやー実はちょっと困ったことになってまして、折り入って先輩にお願いがあるんですよ」
「そうか断る」
内容を話すより前に先手を打ってそう断言する。
「即答しましたね……。せめて話だけでも聞いてくれればいいじゃないですか」
「それもそうだな。聞いてやるよ」
「わかりました。実は――」
「やっぱり断る」
「ちょっとちょっとぉ! まだなにも話してませんけどぉ!?」
だって嫌な予感しかしないんだもの。
「仕方ないなあ。ホラ話してみろよ」
「えーゴホン……そのですね、つい昨日友達が自分の彼氏を紹介してきまして、そうれが――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。今なんて言った?」
信じられない単語が出てきて、つい話の腰を折って聞き返す。
「え? 彼氏を紹介してきたってところですか?」
「違う。その前だよ」
「つい昨日友達が……」
「お前友達がいたのか?」
素直に驚いた。彼氏と言うからには恐らく友達は女子なのだろう。
だが椎名は、はっきり言って同性からは蛇蝎のごとく嫌われている。
そもそも初めて出会ったのが、嫉妬した女子からいじめられている場面だったのだ。
男の取り巻きは大勢いても、同性の友達はいないと思っていた。
あるいは友達は男で、ホモセクシュアルなのか。
「失礼ですね。私だって女友達の一人くらいいますよ」
女だった。なぜかちょっと安心した。
そういえば前に一人だけ女友達がいると言っていたが、今言っているのがそうなのか。
「で、その女友達があんまり彼氏を自慢してくるもんだから、つい見栄を張って私にも彼氏がいるって言っちゃったんですよ。それから色々と話が進んで、そういうことなら今度Wデートしようってことになっちゃったんです」
「……なんか聞いたことある話だな。なんでそんなことしたんだよ?」
「先輩だって人のこと言えます? 中学時代の友達にそそのかされてWデートしたじゃないですか」
「……俺は嘘はつかなかったぞ。途中までは」
ん?
ということは待てよ。なんだか嫌な予感がする。
「まさか俺に偽の彼氏役やれって言うんじゃないだろうな?」
「アハハハ! まっさかぁ、そんなワケないじゃないですかー!」
「だよなー、ハハハハハ!」
「ハハハハ、まあその“まさか”なんですけど……」
「は」
「マジで勘弁してくれよ……」
俺はリビングのソファに荷物を置きながら嘆息する。
家に着くまでに延々と椎名に懇願されたことで、俺はもう疲れ切っていた。
というか普通に自宅に入れてしまったけど、もはや完全に感覚が麻痺しているようだ。
「なんでですか。先輩が困っている時は助けてあげたのに」
「俺はお前ほど演技が上手くないんだよ。疑われたらどうする? 俺は嘘が下手だから色々質問されたら確実にボロを出すぞ」
「それでもいいです。お願いします、こんなこと頼めるの先輩しかいないんですよ」
深々と頭を下げる椎名。
以前助けてもらった借りがあるから、そうやって懇願されると断り辛いのだが……。
「……わかったよ。その代わりどうなっても知らねえぞ」
「本当ですか? やったぁ! 先輩ならそう言ってくれると思ってました!」
そんなふうに歓喜の叫びをあげると、椎名はいきなり抱きついてきた。
「わ、コラ。抱きつくな!」
「恋人なんだからこれくらい当然ですよ。今のうちに演技力を磨いておかないと」
「だからってそんなくっつくことないだろ」
抱き枕かなにかのようにムギューっとしがみついている。
洗面所で手を洗おうと思ったのに、これでは身動きがとれない。
「そうと決まれば恋人らしくお洒落な格好に着替えないと。先輩のダサいファッションセンスだと私の彼氏として紹介するにはいささか見劣りしちゃいますからね」
「おい口の利き方に気をつけろよ。これから頼み事をする相手には特にな」
「でも先輩のクロゼットの中身を見たことありますけどロクなもの入ってなかったじゃないですか」
「なに勝手に覗いてんだテメー! 今サラッと犯罪行為を自白したな!」
男が女に対してやったら大事件になるのに、ホント世の中不公平だな。
「別にいいじゃありませんか。見られて困るようなものがあるわけでもなし」
「そういう問題じゃねえよ。例えば俺がお前のクロゼットを覗いたらどう思うよ?」
「覗きたいんですか?」
「う……い、今そんな話をしている場合じゃないだろ!」
「誤魔化さなくてもいいんですよ。なんなら今私が着けてる下着でも見せてあげましょうかー?」
椎名はスカートの裾をほんの少し捲り上げ、挑発的にひらひらして見せる。
「やめろ。前から言ってるけど、そうやって思わせぶりな態度をとるのはよくないぞ」
洗面所の蛇口を捻って、手を洗いながら言う。
「まあそれは置いとくとして、先輩が今持ってる服をデートに着ていくのはちょっと厳しいと思いますね」
「ああそれなら――」
――大丈夫ちょうど買いに行こうと思ってたから。そう言おうとして、咄嗟に思いとどまった。
ここでなにも言わなければ、Wデートに行かなくて済むんじゃないか。
椎名には悪いが俺に彼氏役など務まるとは思えない。
本番で赤っ恥をかくより、いっそ中止にしたほうがダメージは少ないだろう。
「なんです?」
「えっと……実は今ちょっと金欠で服を買う金がないんだよ」
「じゃあ私が出しましょうか? お願いを聞いてもらうんだしそれくらいしないと」
「いやいや、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないよ」
まあ一番の理由は単に俺が行きたくないからなのだが。
「いや-残念ダナー。せっかく力になってあげようと思ったのに、これじゃあなにもできないよー」
「……なんか棒読みに聞こえるんですけど気のせいですか?」
椎名は訝しげな眼でこちらを見ていたが、俺の言葉を嘘だと判別するまでには至らなかったようで、それ以上追及はしなかった。
よし、これで一安心。
そう思って洗い終えた手をタオルで拭いていると――
「ゆうちゃーん」
「二人でなに話してたの?」
「ああ、お姉さん。実は八神先輩に彼氏の役をやってもらいたいんですが着ていく服がないんですよ」
椎名はさらに詳しい説明を、手短に説明した。
「あれれー? でもゆうちゃん、今日はお小遣いの日じゃなかったっけ? しかも今回は服を買いたいからって多めに貰ったって言ってたよね」
「オイィ! バラすなよ!」
「ちょうどよかったじゃん。ゆうちゃんって服のセンスはイマイチだったからこの際、椎名さんに選んでもらったら?」
ああ全部言っちゃった……。
というか姉にまでファッションセンスを貶されるとは、そんなにダメなのかな。
「……せんぱぁい?」
その時、不気味なまでに穏やかな猫撫で声が、背後から聞こえた。
恐る恐る椎名のほうを振り向く。
「はい」
「明日、服を買いに行きましょうね?」
「……はい」
声や表情は優しげだったが、今までに体験したことのない恐怖を感じた。
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