やっぱり先輩は優しいですねっ
まさか椎名の自宅がスナックを経営しているとは思わなかった。
家は普通の二階建ての木造住宅で、二階が居住区になっているらしい。
椎名が持っていた鍵を利用して扉を開けて、階段まで移動する。
まだ営業時間ではないので家の中は暗いようだ。
「先輩、二階まで運んでくれます?」
「はあ、しゃあねえなあ。一つ貸しだぞ」
とは言ったものの、人一人抱えて階段を上るのはかなりキツい。
「大丈夫ですか先輩?」
椎名が心配そうに聞いてくる。
「いや、あんまり大丈夫じゃないかも……。お前って意外と重いんだな」
「ちょっとぉ、女の子に対してその言い方は失礼なんじゃないですか」
「事実なんだから仕方ない」
恐らく椎名の体重だけじゃなく、彼女が抱えている鞄の重量が原因なのだろう。
それでもあまりに重かったので、冗談の一つでも言わないとやってられなかった。
よく考えたら思わぬアクシデントだったとは言え、女子の家に入るのはこれが初めてである。
しかも見たところ二人きり。
なんか緊張してきた。
手前の扉が開いて、のっそりとした動きで誰かが出て来た。
「あれ……凛音。今帰ったの? ずいぶん遅かったね」
若い女性だった。夕方にもかかわらず、寝間着を身に着けて、髪はボサボサ。
どことなく寝起きの顔のようにも見える。
身なりを整えたらそれなりに美人であることがわかるが、家の中では相当ズボラな性格なのだろう。
「あ、お母さんただいま」
まさかの椎名の母親だと?
「その人どうしたの?」
お母さんと呼ばれた女性は、怪訝そうに俺のほうを見る。
「ああ、帰る途中に足をくじいちゃって、一人じゃ歩けないから送ってもらったんだ」
「そう、大変だったね。娘がどうもご迷惑をおかけしました」
「い、いえこちらこそ……」
俺は丁寧に礼を返しつつも、椎名の母の容姿に戸惑っていた。
とても一児の母とは思えない若さだ。
よく漫画などのお母さんキャラは年齢よりも若く見えることが多いが、これはそういうのではなく本当に若い感じがする。
せいぜいが二十代後半といったところか。
「どうでもいいけど、そろそろお店始める時間だから、あまりうるさくしないでね」
椎名の母親はそう言って自分の部屋に戻った。
それを聞いて俺はある違和感を覚えた。
実の娘の割に態度が冷たいというか興味が薄いというか。俺の姉も無関心な態度をとることが多いが、あそこまで冷淡ではない。
以前から椎名は家庭の問題を抱えているような素振りを見せていたが、これはそういうことなのか。
そういえば父親は先ほどから姿が見えないが、まだ仕事中だろうか?
他人の家庭のことに首を突っ込むのはやぶ蛇になりかねないので直接質問することはしないが、なんとなく気になる。
それはそうと役目は果たしたし、そろそろ帰ってもいい頃合いだ。椎名にその旨を伝えると彼女は――
「えーまだいいじゃないですか。せっかくなんだしお茶でも飲んでいってくださいよ」
外はもう暗くなっているし、最初は断ったのだが、椎名の熱意に押されて一杯もらうことにした。
と言っても椎名は足を怪我している為、必然的に俺が用意しなければならない。
指定された場所に行き、ティーカップと熱湯を入れたポットを取り出して紅茶を、淹れるのは椎名に任せる。
悔しいけど腕前では椎名にはかなわないからだ。
「ふふん、どうです、私の淹れた紅茶の味は?」
「ああ、確かに美味いな。ぶっちゃけ店に出しても通用するんじゃないか」
そう言いつつも、内心では初めて女子の部屋に入ったことに緊張を禁じ得なかった。
さすがに女子らしく化粧品やら可愛らしいアクセサリーやらが至る所にある。
「なにキョロキョロしてるんですか先輩?」
「え、あいや」
椎名が不審そうに訊ねる。
ベッドに腰を下ろし、片膝を上げて無防備な姿を晒している。スカートを履いているのによくそんな体制が出来るものだ。
「もしかしてスナックに入るの初めてで緊張してるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……。ってかお前ん家ってスナックを経営してるんだな」
しまった。
緊張を紛らそうとして、つい詮索するようなことを口走ってしまった。
椎名はしかし特に気にした様子はなく――
「そうですね。私が小学校の頃に父が浮気相手とどっか行っちゃって、今は母が一人で切り盛りしてるんです」
「え」
さらっと重い話が飛び出してきた。
「……それマジで言ってるの?」
「マジですよ。冗談ならもっと面白い噓つきます」
ここで冗談を言われても、反応に困るのだが。
よく考えたら、この家の造りからして三人も暮らすには少々狭い気がする。
ということは今の言葉は事実なのか。
「相手は行きつけのキャバクラで働いている人だったらしいんですけど、詳しいことわかってないんです」
まるで昼ドラみたいな話で、とても現実味がない。
「酷い話だな。小さい娘がいるのに家族を捨ててキャバ嬢と逃げるなんて」
「そうですねえ。まあ私はお父さんのことそんなに恨んでないんですけどね」
「は、なんで?」
椎名がちょっと信じられないことを言う。
最低の裏切り行為をした父親を、そう簡単に許せるものなのか。
俺だったら地の果てまで追いかけてぶん殴ってやりたいと思うのに。
「だって最初に浮気してたのお母さんのほうですもん」
「え」
思わず耳を疑った。
あっけらかんとした口調で椎名は続ける。
「ほら、こういう仕事をやってると色んなお誘いがあるじゃないですか。結婚してるのを気にしない男の人もいますし、お母さんは16歳で私を産んだからまだ若いんですよね」
16歳ということは今年で32くらいか。
若いと思ったのは気のせいではなかったようだ。
「中にはお父さんよりいい人もいるんですよね。お金持ちだったり性格がよかったり。そういう人に誘われれば乗っちゃうのも無理ないでしょうね」
「にしたって結婚している自覚があればそんなことしないだろ」
「その辺が普通の人と感覚が違うんですよねお母さんって。今でも時々知らない人と出かけたりするし。家で二人きりでいたい時は私にお金渡して『コレでなにか食べておいで』って言って追い出そうとしたり」
聞けば聞くほど信じ難い話だ。
家庭になにか問題を抱えているんじゃないかと前々から疑っていたが、まさかこんな事情があったとは。
毒親という言葉が頭に思い浮かぶ。
そしてなぜ椎名はこんな壮絶な話を淡々とした口調で語れるのだ。
「それでお前は平気なのか? そんなことされたら怒るのが普通だろ」
「そりゃ子供の頃は散々腹が立ちましたけど、何年も続くと慣れてくるもんじゃないですか」
俺は椎名の言っていることが理解できなかった。
一体どれだけの年月を重ねればそこまで達観した考えになるのか。
「でもね……」
その時、にわかに椎名の表情が一変して、弱々しく小声で喋り始めた。
「家にいると時々、私の居場所がないような気がして、なんか寂しいなって気持ちになるんですよね」
その痛切な表情が、椎名の本心を吐露しているように思えた。
やはりまだ完全に割り切っているわけではないのだ。
だからだろうか。前にいきなり電話してきた時も、力のない声で元気がなさそうだった。
「そっか……まあなんだ、そういう時はあまり無理せず周りの人に頼ればいいんじゃないか? 俺でよければいつでも力になるぞ」
我ながらずいぶん無責任なことを言っていると思う。
具体的に俺になにが出来るかなんて、わからないのに。
それでも椎名の気持ちが少しでも休まるのなら、なにも言わないよりはマシだ。
「……本当に? なんでもしてくれるんですか?」
「へ、いや……さすがになんでもってわけには――」
「そうですか……力になってくれないんですね。ハア……」
そう言って椎名はがっくりと力なくうなだれて意気消沈する。
あれ、これって本当に本心から言っているのか?
「わ、わかった。俺に出来ることだったらなんでもするから、頼むから元気を出してくれ」
「本当ですかっ! やったぁ! えへへ、やっぱり先輩は優しいですねっ。先輩のそういうところ、結構好きですよ」
「ハハハ……」
なんだかハメられた気がする。
いや、確かに途中までは本気で落ち込んでいたと思うのだが、段々と演技が入っているような感じがした。
本当にこれでよかったのだろうか。
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