じゃあ一緒に見に行く?

 今朝起きたら寝ている間に蚊に刺されたようだ。しかも一ヶ所だけではない。

 腕と足に二ヶ所ずつと、背中に三ヶ所。

 物凄くかゆい。

 特に背中は手の届かないところがあって、かなりきつかった。

 授業中は椅子の背にこすりつけてやり過ごした。周囲からはトイレを我慢していると思われて滅茶苦茶からかわれたが。


「ああクソ、かゆい……」


 部室へと続く廊下を歩きながら、俺はかゆみに耐えていた。


「なあ、いいだろ? そんなに恥ずかしがるなって」

「……ん?」


 部室の近くまで来ると、前方から歩いて来る二人の男女の話し声が聞こえた。

 よく見ると女子のほうは染井さんだった。


「染井、いい加減俺と付き合えよ。お前にとってもそう悪い話じゃないだろ?」

「うるさい。目障りだから消えて」


 なにやら不穏な雰囲気。

 染井さんは明らかに嫌がる素振りを見せているのに、男子のほうは気にした様子もなく執拗に付きまとっている。

 これは染井さんが最も嫌うタイプの人間ではないだろうか。


「素直じゃねえなあ。お前みたいな面倒臭い奴は俺と付き合ったほうがいいに決まってんだから口答えすんなよ」


 うわ、現実にこんなこと言う人いるんだ。勘違い男の典型みたいな台詞。

 この男子には見覚えがある。確かテニス部に取材した時に見かけた奴に酷似している。

 なるほど染井さんが取材を嫌がったのにはこういう理由があったのか。

 この様子だと何日も前から言い寄られていたのだろう。


「あ、八神……」


 ふいに染井さんと目が合った。


「ど、どうも……」


 咄嗟のことで、それしか返事が出来なかった。

 俺の存在に気づくと、男子の表情が急に険悪になり、


「なんだよお前? 悪いけど今は取り込み中なんだ。用事なら後にしてくれ」

「コレの言うことは無視していいから、早く行こ八神」

「え? ……アッハイ」


 男嫌いで有名な染井さんは、しかしいきなり俺の手を握ると新聞部の部室に向けて歩き出す。

 が、このまま男が大人しく引き下がるはずもなく、すぐさま追いかけてきて俺の肩を強引に掴む。


「待てよ染井、まだ返事を聞いてないぜ」

「あり得ないから。アンタと付き合うくらいなら八神のほうがずっといい」

「「は?」」


 偶然にも男と俺の声が重なった。

 二人共、考えていることは一緒のようだ。なんでそこで俺が出てくるんだ?

 もし付き合うなら俺のほうがマシ、と言う意味だったのか。

 にしてももうちょっと他に言い方はなかったのか。これではあらぬ誤解が生まれる恐れがある。

 案の定、男が敵意に満ちた眼差しで俺を睨み付ける。


「オイお前、染井とはどういう関係なんだ?」

「いや、どういう関係って言われても……」


 そんな迫力のある顔で問われても返答に困ってしまう。

 俺と染井さんは同じ部活のメンバーというだけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 そうこうするうちに染井さんはお構いなしにスタスタと歩き続けるので、俺もそれに引っ張られるように先へ進むことになる。


「待てよ!」

「それ以上近づくと先生に言うから」


 染井さんが警告すると、男は追跡を諦めて歩き去る俺達を呆然と眺めていた。




「ねえ、よかったんですか。あんなこと言って」


 部室に到着するや、俺は開口一番そう言った。


「ああいう奴って怒らせると結構ヤバそうですけど」

「気にしないでいい」


 お気に入りの漫画を取り出しながら、染井さんが呟く。


「気にしないでいいって言いますけど実際心配ですよ。もしものことがあったらどうするんですか」

「……私のこと心配してくれるの?」

「えーまあ一応、新聞部の部長ですし、なにかあったらいい気分はしないですよね」

「あっそ、ふーん……そういうことね」


 あれ、なんだか急に不機嫌になり始めた。

 なにかまずいことでも言ったのだろうか。

 それとも先ほどの男のことを思い出して嫌な気分になったのかな。


「ところで、八神はこの漫画知ってる?」


 そう言って染井さんは手に持っている漫画の表紙をこちらに見せてきた。


「ああ知ってますよ。確か今度、映画やるんですよね」

「そう、ちょうど今週末にね」

「面白そうですよね。原作はマンネリになって途中までしか読んでないんですけど、予告見て興味湧いたんで見ようかどうか迷ってるんですよね」

「じゃあ一緒に見に行く?」

「……え?」


 はて、聞き違いだろうか。

 今、一緒に見に行くって言ったのか?

 男嫌いで有名なあの染井さんが?


「一緒にって俺と染井さんが一緒に映画館に行くってことですか?」

「そう」

「……二人だけで?」

「そう」


 二人だけで映画館って、それではまるで……。


「いいんですか俺なんかで?」

「一人で行くのもなんか味気ないし……」


 確かにこの人は友達いなさそう。

 ぼっちは嫌だけど他に誘う相手はいないから消去法で俺を選んだってことか。そう思うとなんだか可哀想な気がしてきた。

 一緒に行ってあげてもいいけど、なんとなく面倒なことになりそうな予感。

 普通、見終わった後は二人で感想を言い合ったりするものだけど、染井さんとでは会話が弾む気がしない。


「それ、どうしても俺じゃないとダメなんですか?」

「私と行くのが嫌なワケ?」

「あいや、別にそういうわけじゃないんですけど……」


 これ以上下手なことを言えば角が立ちそうだ。

 正直あまり乗り気ではないが、ここは先輩の顔を立てるしかないのか。


「行くのはいいんですけど、まだ予定が空いてるかわからないんで返事はまた今度でいいですか?」

「……いつ返事する?」

「はあ、それはまだなんとも……」

「はっきりしないんだね……まあいいけど、出来るだけ早く返事してね」

「はい……」


 染井さんはそれっきり漫画に目を移して黙り込んでしまう。

 すぐに返事をしなかったのは、なぜか椎名の顔が頭の中にチラついたからだ。

 一応、アイツに報告したほうがいいだろうか。

 いや、別に付き合っているわけでも恋愛感情を持っているわけでもないのに、いちいち報告するのもおかしな話ではないか。

 だがどういうわけか二人で映画に行くことを想像した瞬間、後ろめたさのようなものを感じた。

 なんでだろうな。

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