伊勢乃地にて

小助の家

第4話 その男、記憶喪失につき

 その男の意識が深い所からゆっくりと上がって来たようで、ぼんやりと天井の合間から見える藁葺きの屋根を見詰めていた。


「おう、漸く目覚めよったか」

「……其方そちは何者だ」

 目覚めた男は目の前に見知らぬ人物が顔を覗かせた為に警戒心を強めた。というのも、生成り色の小袖に鶯茶の袴姿は上下共に草臥くたびれていて、そこに鋭い眼光が加わりまるで野盗の如く思えてしまったからだ。


「何だ何だ、ご挨拶な奴だな。わしは小助だ。村のもんらは兵衛ひょうえと呼ぶがな。まあ、大方わしが傭兵稼業なので誰かが聞き齧ったあたりからとったのだろう。それで、ぬしはどなた様なのだ?」

「わたくしは……わたくしは……?」

 小助の問いに男は答えようとして固まっていた。幾ら考えても自分の名が思い出せないのであった。


「分からない。全く持って思い出せないぞ。わたくしは何者か?」

「わしに聞くな! しかしながら、ぬしの話し振りや服装を見るに武士もののふ殿なのでないか? 傷も太刀で斬られたものだしな」

 小助の言葉に男は自分の体に目をやった。体中に膏薬が塗られている。左脇から右腰にかけての傷も大量の膏薬のお陰か血は止まっている様だった。


「其方が手当てをして下さったのか?」

「いや、わしは単に川で土左衛門になり掛けていたぬしを見つけて連れて来ただけだ。処置をしたのは五郎太殿だ。礼なら彼奴あやつに言うのだな。それで、本当に何も分からんのか? 弱ったのう」

 小助が困ったという風に頭を掻いていた。


「もしも、ぬしが位の高いお公家様に仕える武士殿だった場合、此方の身が危険になる」

「何でだ? 礼として褒美が貰えるのではないか」

 男は当たり前だと思った事を言った。

「それは、ぬしが普通の武士殿の家柄だった場合だ」

「なら、平気ではないか? そちらの方が数が多い。故に可能性も高いではないか」

 男は正論を並べる。だが、小助の表情は緩む事は無かった。


「ぬしは、思い出せないとは誠の事か? やけに色々と物知りなようだが」

「そう言われると、確かにそうだ。不思議と自分に関わる事以外は、普通に頭に浮かぶのだ」

 言われてみて、初めて男は自分の矛盾に気が付いた。そして、自分が何もかもを忘れた訳ではない事に安堵した。


 それならばと、再度自身の事について思い出そうとする。

「やはり、自分の事となると……駄目じゃ、何も浮かんでこない」

 どうしたものかと男は途方に暮れるのであった。

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