マンホール【ショートショート】
樋田矢はにわ
マンホール
小学生のころ、学校でこんな話が流行った。
もしもマンホールの蓋があいていても、決して覗いてはいけないよ。
マンホールの下には巨大な人食い魚が住んでいて、穴を覗いた人を、頭から食べちゃうんだ。
いま思えば、子供がマンホールに落ちないようにと、大人が考え出した作り話なんだろう。
でも、あの頃は誰もがそれを信じていたし、実際マンホールに近づくものはいなかった。
もちろん僕もその一人だ。
なぜ急にそんなことを思い出したかというと、ちょっと気になるものを見かけたからなんだ。
***
今日、大学からの帰り道のことだ。
飲んで帰ったせいで、駅に着いたのはいつもよりだいぶ遅い時間だった。
駅からマンションまでは、歩いて20分。
僕はいつもの道を、いい気分でふらふら歩いた。
10分ぐらい歩いただろうか、いつしか住宅街の細い路地に入っていた。
そしてある十字路にさしかかったとき、左手になにか青いものがチラッと見えた。
一瞬のことだったし、暗かったんでハッキリとはわからなかったけど、僕には青い服を着た人が、道路の真ん中にうずくまっているように見えたんだ。
最初は素通りしたんだけど、なんだか妙に気になった。
ひょっとして、気分でも悪いのかな。だとしたら、放っといちゃかわいそうだな。
そう思った僕は、引き返すことにした。
なんだか妙に気になったんだ。確かめずにはいられなかった。
酔っていた、というのもあったかもしれないけれど。
でも、僕がそこに戻ったときには、すでに誰の姿もなかった。
変わったことといえば、その道路のマンホールに、蓋がついてないことぐらい。
そうなんだ、そこにはマンホールが、真っ黒な口を開けていたんだよ。
***
昨日、テレビを観ていたら、こんなニュースが流れた。
「S市の下水道から、首なし死体を発見」
このニュースは君も知っているだろう?
S市、つまり僕の住んでる街だ。
そして死体の見つかった下水道は、例のマンホールにも繋がっている。
ニュースによると、見つかった死体は男性で、青いシャツにジーンズ姿。死後二日ほど経っており、無残にも首から上が無くなっていた。警察は殺人事件とみて、被害者の身元確認を急いでいる云々。
そう、被害者は青いシャツを着ていたんだ。
おまけに死後二日。
つまりその人が死んだのはちょうど、僕が青い人影を見たのと同じ日なんだ。
これはどういうことだろう?
もしかしたら、僕が見たあの人影は…。
誤ってマンホールに落ちた?
でも首がないって?
だから警察も、事故じゃなく殺人事件として捜査しているんだろう。
なんだかよくわからない。怖くなってきた。
***
例のニュースを観て以来、僕は駅までの道を変えていた。
あの十字路を通らないように。
なるべく忘れようとしているんだけど、あの夜のことが頭の隅にこびりついて離れないんだ。
気をつけていないと、ついふらふらと見に行ってしまいそうだった。
だからわざと、あの道を避けることにした。
今日ウチに、刑事が聞き込みにきた。
中年の小男と、大柄な若い男の二人組みだった。
気付いたことがあったらなんでも言ってくれ、と言ってたけど、僕はなにも話さなかった。
あの夜のことも、マンホールのことも。
まあ話したとしても、事件とはたいした関係もないだろう。たぶん、僕の思い過ごしだ。
事件は何の進展もないようだった。もうあれから一週間も経つというのに。
***
今日、気付いたら、例のマンホールの前に立っていた。
もちろん蓋はあいていた。
知らないあいだに、いつもの道を通って帰ってきてたらしい。
やはり心のどこかで引っかかっていたのだろうか。
多少、飲んでいたせいもあるかもしれない。
注意してたのに…。
アスファルトにポッカリと口をあけた黒い穴。
その丸い縁は、まるで僕を誘っているかのように美しかった。
僕は思わずその穴に近づいていった。
不吉な想像がアタマの中をグルグルとまわる。
巨大な魚、首なし死体、牙、飛び散る赤い血、青いシャツ、ガリガリと頭蓋骨を噛る音。
プンと鼻につく汚水の匂いで、はっと我にかえった。
気付けば僕は這いつくばるようにして、マンホールの暗闇に首を突っ込んでいた。
そう、あの夜に見た青い人影がしていたように。
ヤバイ!
反射的に僕は顔を上げた。
でもその瞬間、見たような気がするんだ。
いや、確かに見たんだよ。
暗く沈んだ汚水の底に、らんらんと輝く二つの赤い目玉を。
***
気になる。
あの赤い目玉は何だったんだ?
あの日以来、あそこへは行ってない。
怖い。
でも確かめたい。
この衝動をいつまで抑えられるのか。
一つのことがこんなに頭を離れないなんて、初めてだ…。
***
決めた。
僕は今から、あのマンホールを覗きにいく。
この恐ろしい考えが正しいのかどうか、確かめずにはいられないんだ。
僕に…僕にもしものことがあったときには、どうかこの話を教訓としてほしい。
君は決して、マンホールを覗いたりしないように。
もしもマンホールの蓋があいていても、決して覗いてはいけないよ。
マンホールの下には巨大な人食い魚が住んでいて、穴を覗いた人を、頭から食べちゃうんだ。
***
友人Tのメモ書きは、そこで終わっていた。
「Sへ」
メモが綴られたB5の大学ノートの表紙には、俺の名前があった。
Tは先週、下水道から死体で見つかった。そしてその死体には首がなかった。
警察は、死体の状態、死体の発見状況が前の事件と一致することなどから、同一犯による連続殺人事件として本格的に捜査を始めた。
警察によると、Tの首は切れ味の悪い刃物で切断されたようで、断面が潰れてぐちゃぐちゃだったらしい。
そう、まるで巨大な生き物に食いちぎられたかのようにな…。
嫌な想像をふり払うように、俺は道を急いだ。
街灯もないような薄暗い路地を歩いていると、どうもおかしなことを考えがちだ。
と、俺の目の端に何かが映った。
見ると、十字路を左におれたところで、蓋のないマンホールがポッカリと口を開けていた。
おいおい、ウソだろ…。
月も見えない薄もやの夜空に、唾を飲む喉の音だけが、ひときわ大きく響いた。
(了)
マンホール【ショートショート】 樋田矢はにわ @toitaya_828
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