第29話 決戦! ヨハネスVSアビル 上

『剣を抜くのだバカ者ッ!』

『後ろよ、天使ちゃん!』


 二人の指示に従い聖魔剣を抜いたヨハネスは、間一髪アビルの猛襲を受け止めた。


「戦場でよそ見とは随分余裕だな」

「そういうアビルは相変わらず卑怯ですッ」

「何が卑怯なものかッ! 殺し合いの戦場において卑怯などと口にする時点で貴様はズレている! これはガキの喧嘩ではないんだッ! 戦場では勝てば正義、負ければ糞以下の豚の餌に早変わりとなるッ! だからこそ皇帝は力こそがすべてだと仰っているのだァッ!」

「力だけではどうにもならないこともあるんですよ!」

「まだそのような世迷言をいうかッ! 偽善やくだらぬ理想だけで世界を語るな! 奪ってよいのは強者のみ、奪われるのは弱者の怠慢! それを否定することができるのもまたッ! 強者のみだと知れェッ! 貴様のような弱者が口にするなど烏滸がましい!」


 眼前で噛み合う刃をぎりぎりと押し返しながら、ヨハネスは瞳の奥に強い憎悪を滾らせるアビルに苛立ちを覚えていた。


 それと同時になぜこんなことになってしまったのかと奥歯を噛みしめ、在りし日に想いを馳せる。


 思い出すのはヨハネスが5歳を迎えた年――生誕際でのことだ。


 衣装部屋には母マリーヌと侍女たちの姿があり、マリーヌは姿見の前でヨハネスの曲がったスカーフを直している。その斜め後ろには5つ年の離れた兄、アビルの姿もあった。


 アビルはつまらなさそうに壁にもたれ掛かり、その光景を興味がなさそうに流し目で見ていた。すると不意にヨハネスと目が合ってしまい、アビルは慌てた様子で明後日の方角に視線をそらしてしまう。


 思えばあの頃からアビルは自分のことを疎ましく思っていたのかもしれないと、ヨハネスは感じていた――いや、違う。


 ヨハネスは本当は見ていたのだ。


 一人寂しそうに壁にもたれ掛かるアビルが、自分のスカーフをくしゃくしゃにしていたところを……。


 その瞬間、アビルと目が合ったヨハネスは、それを見て見ぬ振りをしたのだ。


 幼いながらに兄の自尊心を守るためには、それが一番だととっさに判断した。

 けれど今になってヨハネスは思う、それは間違いだったのではないかと。アビルは本当は母マリーヌに甘えたかったのではないかと。


 しかし、本当の母を知らぬ彼は甘え方を知らなかった。

 いつしか繊細な糸のような気持ちは複雑に絡み合い、やがて解けなくなるほど固くぐちゃぐちゃになってしまう。


 だとするなら、アビルはマリーヌを……。


 アビルがヨハネスを嫌う理由はそんなところにあるのかもしれない。



「貴様だけはッ、貴様だけは絶対にこの手で殺してくれるッ!!」


 幾度となく剣戟を重ね合わせ火花が舞い散る度、ヨハネスの耳をつんざくのは鉄がぶつかる音と怨嗟の声。じんじんと手が痺れて心が軋む。それでも止まらぬ悲鳴のような衝突音。


「軽い、軽いぞヨハネス! 道徳と規則の中でへらへらしていた貴様らしい何の重みのない刃だ! そのような腑抜けた刃では万に一つ、この俺に届くことはないッ!」


 膂力、体力、体格差、鍛え抜かれた剣技、そのすべてに置いて、ヨハネスはアビルに遠く及ばない。


 それでも引くわけにはいかないと、少年はグリップを握りしめる手に力を込めた。


「思い遣りや慈しみを育んだ先にも強さはあります! 母がそう教えてくれたはずです!」

「……ッ」


 母――その言葉が針の雨のようにアビルの胸を突き刺し、青年は嵐が叫ぶようなすごい声で吠えた。


「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇええええええッ!」


 重なる刃の先で嵐のように呼吸を弾ませる。

 剣のグリップを握りしめるアビルの手元がみしみしと激情の音を奏でると、突然眉をひそめるほどの瘴気が鼻をかすめる。


「――――!」


 ヨハネスは押し返される反動を利用して後方へ跳んだ。


「俺の前でッ、あの女を語るなぁぁああああああああああああああああああああッ!!」

「!? なんですかあれはッ!?」


 怒り狂う身内から、憎悪とも厭悪ともつかぬ魔力が噴き出す。


『あの剣……何かあるぞッ!』

『同感! 気をつけなさい天使ちゃん! あの剣からは何か良くない気配を感じるわ』


 アビルは積年の恨みを吐き出すかのように、凄まじい魔力を解き放ちながら叫んだ。


 ――ガガン!


 直後に青年の足下が大きく陥没、魔力の奔流が広場を駆けめぐる。


「ひいぃっ!?」


 黒い魔力の波動に震え上がる兵たち、離れた場所から二人の戦いを見守っていたマルコスとロザミアは、息を飲むほどの光景に唖然としていた。


 中央広場はアビルによって人工的に魔素たまりが作り出さており、そのおぞましい魔力に当てられた者たちが阿鼻叫喚の嵐を巻き起こしている。鍛え抜かれた筋骨隆々とした兵たちが、触れただけで畏怖の念を抱くほどの邪悪な魔力。それほどの魔力をアビルに与えていたもの、それはモルガンが渡した失われた技術ロストプレシャス――贖罪の剣である。


「ククッ――感じ取れるかぁ? 貴様の紛い物とは異なる絶対的な力が。肌を突き刺すほどの、この圧倒的な悪魔の波動が。冥土の土産に貴様にも見せてやろう。失われた技術ロストプレシャスの真の力をッ! 悪魔を封じ込めし禁断の魔剣――贖罪の剣アザゼルの力をなァッ!!」


 傲然とした態度のアビルが晴れ渡る空に剣先を掲げれば、魔力の波動はさらにうねりを増す。


「金環日食――闇夜乃晩餐」


 アビルが贖罪の剣――その固有スキルを発動させた転瞬、太陽が闇に覆われ世界に夜が訪れる。


「なんだよこれ!」

「冥界への門が開いたんだ!」

「俺たちはみんな殺されるんだッ!?」


 冥王ハデスの襲来を思わせる昼夜逆転現象に、兵たちは戦々兢々としている。それは広場に居合わせた者たちだけではない。町の北側で攻防戦を繰り広げる者たちも、手を止め足を止め、黒く染まる不気味な空を仰ぎ見ていた。


「なんでござるか、あの嫌な闇空は……」


 そしてヨハネスもまた――


「なんですか、それはッ!?」

「あらあら。まぁまぁまぁ。素敵ですこと」


 ギョッと目を見開いたヨハネスの視線の先には、変わり果てたアビルの姿がある。

 皮膚や眼球が闇のように黒く染まり、背中はメキメキと奇怪な音を奏でていた。


 メリッ! ズバッ!


 そんな音とともに衣服を突き破ったのは、蝙蝠によく似た漆黒の羽。臀部からは長く伸びた尾が、まるで蛇のように石畳の大地にうごめいている。


「うふふ」


 変わり果てた青年の姿に、モルガンは恍惚の表情を浮かべている。


「素晴らしい。これが失われた技術ロストプレシャスの力かッ」


 自らの身体に目を向けたアビルは、悪魔のような肉体に陶酔している。


「まるで夢を見ているようだ。この俺が17年間求め続けてきた力が、それを体現する肉体がここにある。それに……伝わる、感じるぞ! 贖罪の剣に封じられし悪魔アザゼルの力が、ドクドクと血液のように全身に流れ込んでくるッ! まさに人智を越えた魔の根源ッ!!」

「何を言ってるですか!? 絶対にヤバイですよその剣ッ! 人に戻れなくなる前にすぐに捨てるですッ!!」

「バカを言うなッ! 貴様には到底理解できまい。まるで自分が無限に広がる宇宙になってしまったのではないかと錯覚してしまうほどの力をッ! 上限など皆無。まるで底なしのように力が流れ込み、溢れ出るッ!! まさにファンタスティック!!! 宇宙とは、この俺を指す言葉だったのだァッ!!!!」

「何を意味不明なことを言っているですか!?」


 ヨハネスの忠告を受け入れないアビルが、尊大に両手を広げて天を仰ぎ見ている。その目は白目ならぬ黒目をむいており、完全にイッていた。


『あれはちょっちまずいかもしれないわよ、天使ちゃん』


 悪魔のようなアビルの姿に爪を噛み、眉をしかめるのは魔石の中のユイシスだ。


「どういうことですか!?」

『あの目を見れば分かると思うけど、あれは完全にオーバーヒート、魔力最大値を越えてしまっているわ。その結果が覚醒魔狂アラウザルハイ、ってのは分かるわよね?』


 頷くヨハネスに、ため息混じりのフラムが言う。


『仮に魔素たまりによって魔力補強があったとしても、いずれ術者の体力は必ず底を尽きる。そうなった際、肉体は自動的に外部から魔素を取り込めなくするため一時的に経絡孔――魔道を強制的に閉じるもの』

『けれどあれは外側からではなく、天使ちゃんと同じように内側から魔力を供給しているのよ』

「いまいち意味が分かりません」


 うーんと唸りながら思考するユイシスは、ヨハネスにも分かるように言葉を選ぶ。


『例えばマラソンには水分補給が欠かせないわよね? 怠れば脱水で倒れてしまう。つまりこの場合でいう枯渇するってこと。なら水分を補給すれば永遠に走り続けられるのかと言われたら、そうじゃない。水分を補給しなかった時よりも遥かに長い距離を走れるけど、やがて体力の限界は誰しもに訪れる。だけど、もしもそれでも止まれず、走り続けなければならなかったとしたらどうなるかしら?』

「それって……」

『うむ。あの剣を破壊せん限りッ、あの剣は延々とあの者に魔力を供給し続け、いずれ耐えきれなくなった肉体は確実に消滅するッ!』

「そんな……ッ!?」


 意味を理解したヨハネスの顔色は、見る見る青ざめていく。

 依然として険しい表情のユイシスとフラムは、ソファから贖罪の剣を睨みつけていた。


 しかし、ここでヨハネスにはひとつの疑問が生じる。


「でも、僕はそんなことにはならなかったですよ。同じ原理なのにどうしてなんです?」


 少年のささやかな問に、フラムは怒鳴るように呆れた口調で言った。


『何をバカなことを言っているのだッ! 貴様だって最初はああなりかけていたではないかァッ!』

『偉そうに言ってるけど、それってあんたのせいだからっ!』


 ヨハネスは地下迷宮ではじめて聖魔剣を抜いた瞬間のことを思い出していた。

 右腕がナニカに侵食されかけた時のことを。

 思い出した途端に背筋が寒くなる。


「あの時……僕もああなっていた可能性があったということですか?」

『ないわよ!』


 その問いには、ユイシスが確証をもってきっぱりと否定する。


「え……ないんですか? だって今の説明だと――」

『天使ちゃんにはあたしが付いているのよ? それに、今となってはこいつだって天使ちゃんの肉体が耐えられるだけの魔力に調節してあるの。だから壊れることは絶対にない! 勇者たるこのあたしが保証するわ』


 そのためにフラムは迷宮内で少しずつヨハネスに自身の魔力を流し込み、日々自身の魔力に慣れさせていたのだ。


 そこには闇の魔力に対する耐性をつけさせることと同時に、ヨハネスの最大魔力値を底上げするという目的があった。


 また、必要な時以外は魔力を極限にまで抑えることで、覚醒魔狂アラウザルハイを未然に防いでいたのだ。

 それは例えるなら風船に空気を入れ、破裂する前に空気を抜く作業に似ている。


 侵食する右腕ソード・イーターが180秒間という限定付きであるのも、ヨハネスの肉体が耐えられる限界値に合わせてのことだ。その後はリキャストタイムに突入する。


失われた技術ロストプレシャスがこれほどのモノだったとは、素晴らしいぞモルガン! この力は次期皇帝の俺にこそ相応しい!」

「あらあら。まぁまぁまぁ。お褒めいただき光栄ですわ、陛下」


 体の内側から溢れ出す力に歓喜するアビルは、たしかめるように剣を振るう。

 するとその場に激しい突風が吹き荒れ、強力な風が瞬く間に家屋を飲み込んでいく。


「あ、悪魔だ!?」

「第5皇子が悪魔に取り憑かれてしまった!」

「この町は終わりだァッ!!」


 泣き叫び、逃げまどう兵たちに、アビルは狂喜に満ちた顔で何度も剣を振るった。

 そのたび無情にも宙に舞い上がる人々、肉を引き裂かれた人間が、血なまぐさい雨を町に振らせながら小さくなっていく。


「お師匠!」

「動くでないぞロザミア!」


 老人と少女は林檎の木に身を隠すように姿勢を低くした。


「ククッ、まるで人がゴミのようではないかッ!」


 愉快痛快と大笑いするアビルが、漆黒の羽を広げて大空へと舞い上がる。


「どこに行く気ですかアビル!?」

「俺をこけにしたゴミ共の掃除をするだけだ。すぐに貴様も血祭りにあげてやる、おとなしくそこで待っていろッ!」


 悪魔と化したアビルが、大砲から放たれた砲弾のごとく空へ打ち上がると、そのまま町の上空まで一気に上昇。そこで宙に張りついたように動きを止める。


「ククッ」


 俯瞰した町並みが予想以上に小さかったことから、青年は見下すようにせせら笑う。


「悪魔っだッ!?」

「空に悪魔がいるぞ!」


 町の北側で煙狼の背に隠れていた住民たちは、南の空にそれを発見する。


 その声に何事かと空を仰ぎ見た帝国兵が、同様に口をあんぐりとさせた。

 そしてアビルの黒い目がギロリと彼らに向けられた転瞬、誰もが息を飲み、戦慄に震える。


「――――」


 血も凍るような不気味な時間が1秒2秒と過ぎていき、恐怖という呪いにかけられた人々の手からは次々と得物が滑り落ちた。ノースストリートに甲高い金属音が鳴り響く。


 それが瞬きするほどの間に絶叫へと変わった頃、暴風が彼らを襲った。

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