第7話 不気味な声
ヨハネス・ランペルージュが迷宮をさ迷い歩いて4日目、彼の進行方向には巨大な両開きの扉がそびえ立っていた。
「大きな扉ですね。それに、これは何かの文字でしょうか?」
細部にまでこだわって作られた観音扉には豪華で不気味な意匠が施されており、まるで何かのロゴマークのように至るところに古代文字があしらわれていた。
「すごく嫌な感じがするです」
分厚い扉の内側からじりじりと漏れ出すドス黒い障気。ヨハネスは理屈ではなく直感で感じとっていた。その剣呑な狂気を。
「これは開けちゃダメな気が……」
退くも勇気と、無意識のうちにすり足で後退してしまうヨハネスだったが、ふいに悪魔の笑い声が大気を揺さぶった。
『ゼハハハ――待っていたぞ!』
扉の向こう側から響き渡ってくる蛮声に驚いて足を止めてしまったヨハネスだったが、すぐに拳を握りしめて身を乗り出すように言葉を発した。
「誰ですっ!? 誰かそこにいるんですか?」
しんと静まり返る。
2秒、3秒経っても応答がない。
「ん……?」
変だなと眉を寄せたヨハネスは、冷たい鉄扉に手を触れて耳を近付ける。なかの様子を確認しようと、全神経を片耳に集中する。
すると、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。
『なぜ止めるッ!?』
『あんたバカなんじゃないの!? いきなりそんな野太い声でゼハハハ、待っていたぞ! なんて急に言われたら誰だって警戒するに決まってるじゃない!』
『なっ!? バッ……くそッ! ではどうしろと言うのだァッ!』
『んっなもん、まずはあの天使ちゃんにあたしたちが如何にピュアで安全な存在かということをアピールするのよ』
『ピュアで安全だとォッ!?』
『はいはい、いちいちそういうオーバーリアクションはいいから。それに、考えてもみなさいよね。扉を開ける前に邪悪な存在だと思われて、それだけで引き返されたら元も子もないでしょ? ただでさえ、あんたのドス黒い魔力は駄々漏れ状態なんだから』
『うっ……では、具体的にどうすると言うのだァ?』
『まっ、見てなさいって』
策はあると自信満々に答える勇者に、納得がいかないと言った顔の魔王。
されど、勇者の言っていることも一理あると考え直した魔王は、ここは一旦ぐっと堪えることにした。
「話し声……やっぱり扉の向こうに誰かいますね」
扉の奥からかすかに言い争う声が聞こえてくると、ヨハネスの警戒心は一層強くなる。
「地下迷宮に人が住んでいるなんて聞いたことないです。……まさか!? 悪魔の類いということは、十分考えられるです」
鉄扉から顔を離し、改めてそこに刻まれた古代文字――ルーンを確認する。
「もしかしたら、これは大昔に悪魔を封じた際、賢者が残したメッセージなのかもしれないです」
爛々と瞳を輝かせるヨハネスは、すごいものを見つけてしまったと内心喜んでいた。
(お師匠さまに教えてあげたら喜びそうな話ですよ)
するとそこへ、
『あれれ~こんなところにクマさんのぬいぐるみがあるぞ~、一体全体誰のかな~?』
「な、なんです?」
突然聞こえてきた人を小バカにしたような女性特有の甘ったるい猫撫声に、ヨハネスは先程以上に身構えていた。
『そこの扉を開けてこっちに来てくれたら、あげちゃおうかな~クマさん♪ あっ、それよりもお姉さんのいい子いい子のほうがいいのかなぁ~。嫌だもうっ、あたしったら! ぐふふ♡』
「なんなんです!? この気色の悪い声はっ!?」
『大丈夫よ! お姉さん慣れてるから! 手取り足取り……ぐふふ♡ さぁ、いらっしゃ~い! あたしの天使ちゃ~ん♡』
身の毛がよだつほどの悍ましい声に、不気味さが、稲妻のように電光のように素早くヨハネスの体の中を駆け抜ける。
「こ……これは間違いなく悪魔ですぅっ!?」
身の危険を感じとったヨハネスは、一目散に来た道を全速力で引き返しはじめた。
『あっ!? 逃げだしたではないかッ! どうしてくれるのだ、ボンクラ勇者ァッ!!』
『えっ、なんでぇっ!? なんで今ので逃げるわけぇ!? 意味がわからないわよ!』
『貴様正気かァッ! あのような気持ち悪い変態みたいなことを言えば誰だって逃げるに決まっておるだろがァッ!』
『へんっ!? いや、だって……あたしは勇者なのよ!? そうよ、これは何かの間違いよ。だってこんなのおかしもの。アストライアの寵愛を受けているこのあたしが拒絶される? あり得ないわよ!? こんなことあってはならないことよ。だってそうでしょ? それってつまり、もうあたしはアストライアに愛されていないってことじゃない。嫌よ、ダメよ、そんなの絶っ対にダメなんだからっ!』
焦燥に駆られる魔王の隣でぶつぶつと嘆き取り乱す勇者は、今にも泣き出しそうな顔で走り去っていく少年の後ろ姿を映像越しに見つめていた。
そして、絶望に震える青白い指先を映像の先へ伸ばし、空に突き抜けるような鮮やかな声で叫んだ。
『お願いだがら戻っで来でぇぇえええええええええええええええええええええええっ!!』
血相を変えて走る少年の背後から、目も当てられぬほど哀れな女の絶叫がこだまする。
恐怖に震えていた少年も徐々に駆け足から小走りへと変わり、やがてピタリと足を止めてしまう。
「……………」
鉄扉へと振り返った少年は、なんとも言えない表情で頭を掻く。
「良いですか殿下。誇り高きエンヴリオン帝国の皇子たるもの、いつ如何なるときも常に紳士を心がけなければなりません」
ヴァイオレットに散々口酸っぱく言われ続けてきた言葉が、このような状況下においてもヨハネスの脳裏を過ってしまう。
「仕方ありませんね」
たとえ悪魔であったとしても、しくしくと泣いているものを見捨てることができないヨハネスは、再び道を引き返す。
固く閉ざされた鉄扉に両手を突き、ヨハネスは意を決して一思いに力を込めた。
果たしてその先に待ち受けるものとは……。
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