第3話 追憶

「はぁ……はぁ……」


 迷宮をあてどなく歩き続けて数時間、ヨハネスの額からは玉のような汗がひしひしと流れ落ちていた。


「暑い……暑すぎるです」


 魔素を吸って光を放つ輝石は、微熱ではあるものの熱を含んでいる。それが四方八方から迷宮内を照しているのだから、暑くて当然だ。

 体感温度は実にエンヴリオン帝国の真夏ほどもある。おまけに湿度が高く不快この上ない。


「……みず」


 喉の渇きを潤すため、ヨハネスは左腕に装着した水のブレスレットに魔力を注ぐ。竜巻剣の時のように覚醒魔狂アラウザルハイを引き起こさぬように、慎重に少しずつ魔力を注いでいく。


 やがて手のひらからは水があふれ出し、瞬く間に拳3つ分程の水球へと形を成した。


「ゴクッ……ゴクッ……ぷはぁっ!」


 水を注ぐ器など有るわけもなく、水球に顔を押しつけてそのまま水分を補給する。


「あと2回ですか」


 ヨハネスはこの3時間ですでに水を3回摂取している。通常ならば4時間程経たなければ回復しない水のエレメント魔鉱石であるが、濃い魔素に満たされたここでは3時間程で一つ回復することが確認済み。


 だがしかし、この暑さでは何れ魔鉱石の回復が追いつかなくなるのではないかと、ヨハネスは懸念している。


「またですか、もーっ!」


 それに加え、先程から何度も直面する問題にヨハネスは苛立ちを募らせていた。

 進行方向に王蟲網と呼ばれる芋虫型の魔物が立ちはだかってくるのだ。


「これでは無理です、進めません」


 王蟲網は口から粘着性のある網糸を吐き出し、集団で獲物を捕獲する習性がある。

 捉えた獲物を網糸で拘束、完全に身動きを封じてから溶解液で溶かしながら吸い上げる。

 丁度、今のあの名もなき魔物のように……。


「ざっと……30匹ってところですか。見つかると厄介ですね」


 王蟲網はただでさえ硬質で厄介な魔物とされている。その上あの数ではどうすることもできない。ヨハネスは進むことを断念し、やむなく来た道を引き返すことを決断する。


 別のルートを探すために踵を返したヨハネスだったが――カランコロン! 気付かずに足下の小石を蹴り飛ばしてしまった。


「っ!?」


 地面を転がり幾重にも重なり反響する小石は、迷宮という名のダンジョンでは魔物を呼び寄せる魔笛へと早変わり。


「やってしまったです!?」


 刹那、ヨハネスの全身に怖気が走る。

 恐る恐る振り返ったヨハネスは、蠢く王蟲網の群れが一斉に自分に向かって突進してくるおぞましい光景に目を見開いた。

 不気味な半透明な6つの目と視線が重なれば、ドクンッ!? 心臓が早鐘を打つ。


 ただでさえ汗ばんでいた全身からは滝のような汗が吹き出し、相反するように体は凍えるほどの寒気に襲われる。

 それはまるで死神に背筋をなでられたような感覚だ。



「来るなぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ!?!?」



 恐怖で涙目になったヨハネスは、大砲を放ったような絶叫とともに駆け出していた。

 背後からは無数の王蟲網の群れが、クチャクチャと地を這う不快な音を奏でながら急接近。


「うわぁっ!? ぐっ……よすですっ!」


 一匹の王蟲網が放った網糸が、ヨハネスの左肩甲骨辺りに張りついた。凄まじい引力に体は逆らえず後方に傾き、あっという間に地面に縫いつけられるように背中から倒れ込んでしまう。


「ああっ……あ゛ッ!?」


 ヨハネスは咄嗟に引きずられまいと体を横に転がして体勢を変えると、手足に地面を押しつけるような格好でその場に踏ん張った――が、徐々に引きずられる体と迫りくる無数の王蟲網に、ヨハネスの相貌は恐怖にゆがんでいく。


「これで、どうですかァッ!」


 ヨハネスは引っ張られる反動を利用して起き上がると、振り向き様に腰に提げた白銀の剣を素早く抜き放つ。そのまま一太刀と網糸を斬り裂いた。


『グギャァァアアアアアアアアアアアアアアア!!』


 ようやく身動きが取れると思った矢先、迫りつつあった一匹の王蟲網が奇声をあげながら体躯を「く」の字に曲げて跳びはねる。


「げっ!?」


 予期せぬ上方からの奇襲だ。


「ファイアボルトですッ!」


 それには反射的に左手を前に突きだし、流れるような動きで炎のブレスレットから灼熱を繰り出した。


 豪ッ!


 短い音を響かせた紅蓮の矢は、王蟲網の硬質な殻をいとも簡単に穿った。

 王蟲網は紫色の体液を撒き散らしながら、やがて絶命する。


「なんで僕ばっかりっ!」


 けれども、それでヨハネスが危機的状況を打開したわけではない。彼が倒した王蟲網は無数に迫りくる一匹に過ぎないのだ。


「とにかくこのままじゃまずいですっ!」


 ヨハネスは時々振り返り、後方を気にしながらも懸命に脚を振り上げる。


 今は余計なことは考えず、王蟲網を振り払うべく目についた道なりに駆け込んでいく。そこが来た道かどうかなどはすでに些細なことだった。


 彼は一刻も早く地を這う魔物たちから距離を置きたかったのだ。


「なんなんですか、ここ!?」


 角を曲がって駆け抜けた先には、崖下に溶岩の川が流れていた。息を吸うだけで肺が焼けてしまうのではないかと思うほどの熱風が下方から吹き上がってくる。


「あつッ……!?」


 反対側に渡るためには、誰かが設置した頼りない木製の吊り橋を渡るしかない。


「果たして大丈夫なのでしょうか、これ?」


 しかれども、思案している暇などない。

 振り返ればすぐそこまで王蟲網の大行進が迫りつつあるのだ。


「戻れば王蟲網、進めば脆そうな吊り橋ですか」


 云うまでもなく、その下はすべてを灰に変えてしまう溶岩である、最悪どちらを選ぼうと溶けてなくなる未来が待ち受けているのかもしれない。


 進むも地獄退くも地獄とはまさにこのことだ。


 だが――


「どうせ溶けるなら、一思いに溶岩で溶けた方が一億倍マシです!」


 ヨハネスは意を決して吊り橋に足をかけた。


「うわぁっ!? なんですかこれ! グラグラじゃないですかっ!?」


 いつ誰が設置したかもわからない吊り橋は、手すり代わりになるはずの縄の繋ぎ目の一部が、老朽化とともに焼ききれていた。

 そのため一歩足を踏み出しただけで振り子のように激しく左右に揺れる。


「あぶないですっ!?」


 大きく振られた体が吊り橋から投げ飛ばされそうになり、ヨハネスは逆側の手すり縄にしがみついた。


「――――っ」


 下を見ればブクブクと泡立つ溶岩に、無意識のうちに喉を鳴らしてしまう。


「負けないですよ!」


 ヨハネスは慎重に、だけどできるだけ素早く、手すり縄を手繰り寄せるように蟹歩きで移動する。

 足場は揺れて不安定だが、渡れないわけではない。


「これなら行けるです」


 しかし、次の瞬間――



 「ぐわぁぁあああああああああああああああああああああっ!?」



 突然吊り橋が激しく揺れる。

 一体何が起こったのだと来た道に顔を向けると、


「しつこすぎるですよっ!?」


 追ってきた王蟲網が次々と吊り橋に突っ込んでくるのだ。


「よ、よすですっ! お願いです、やめるですよぉっ!! それ以上は橋がもたないですっ!!!」


 絶叫、悲鳴、叫喚――命乞いにも似た金切り声を放つヨハネスの懇願を聞き入れる道徳心など、王蟲網には存在しない。


 奴らはただ、己の欲求を満たすためだけに他者を貪り喰らう蟲なのだ。

 そこに善悪の区別などなく、ただ食欲を満たすという一つの快楽に貪欲なまでに一途な生き物。


 ゆえに、奴らは死を恐れない。

 ゆえに、奴らが行進を止めることもない。



『グギャァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』



 次々に吊り橋に突っ込んでくる王蟲網は、コップに注がれてあふれ出した水のように、吊り橋からこぼれては灼熱の溶岩に落ちていく。


「止まるですぅっ! お願いだからもう止まるですよぉっ!!」


 のそのそと王蟲網が吊り橋を渡りくるたび、みしみしと不吉な音を立てながら吊り橋が激しく揺さぶられる。


 そして、遂にその時はやって来る。


 あと1メクトでヨハネスと先頭の王蟲網が接触するというまさにそのとき、不吉な音とともに吊り橋が重量と衝撃に耐えきれず崩壊した。



「うわぁぁあああああああああああああああ!?」



 絶体絶命のピンチ。

 このままではヨハネスは溶岩の川に真っ逆さまだ。


 死を直感していたヨハネスの意識は、驚異的なほどに研ぎ澄まされていく。


 人は死の瞬間、時の流れがとてもゆっくりに流れるという。

 ヨハネスもまさにそれだった。


 王蟲網たちとともに宙に放り出されてしまったヨハネスは、限りなく無重力に近い状態のなかにいた。見渡す景色は地獄絵図であり、横目で見た世界は灼熱の赤一色。


(……僕、死ぬんですか?)


 溶岩という名の川の水面がゆっくり差し迫る。


「母上、なぜあの子は泣いているのです?」


 ヨハネスは目を開けたまま夢を見ていた。

 それは走馬灯というやつだったのだろうか。


「きっと、お腹が空いているのですね」

「なら僕のキャンディを一つあげるです」

「なりません」

「なぜです、母上?」

「その場限りの施しや優しさでは、決して誰も救えないのです。それでも貴方がお腹を空かせた人々を救いたいと願うのならば、皇帝になりなさい、ヨハネス。皇帝だけが世界を救う権利を得るのです」


(なぜ……僕はあの日のことを今、死の間際に思い出しているのでしょうか?)


「さて、人は死の間際、一体どのようなことに思いを馳せると思う?」


 景色は移り変わり――次に見えた景色は皇城の中庭。白と黒のツートーンカラーが特徴的な髪型の剣聖マーベラス、彼女と語った日のこと。


(これは……母上が亡くなった日、落ち込む僕を見つけてくれたお師匠さまとの思い出……)


「幸せだったことでしょうか?」

「それはある。だがしかし、それは悲願を成し遂げたものだけが見る幸福な最後の夢だ」

「母上は……違ったのですか? 幸福でなかったと言うのですかっ」

「いいや、そうではない。マリーヌさまはきっとヨハネスと過ごした日々を瞼の裏に焼きつけていたことだろう。が――同時にマリーヌさまは志し半ばで散ってしまったことを悔やんでいたことだろう」

「志し……半ばで? 母上は何か望んでいたのでしょうか?」

「マリーヌさまはお優しい御方だ。国や人種、身分など気にせずにすべてに慈しみを与えることのできる御方だ。そんなマリーヌさまだからこそ、世界を救いたいと、ヨハネスやアビル殿下にこれからを託そうとしていた。マリーヌさまはいつか二人が手を取り合い、この世界を光で照らすその時を、ずっと楽しみに待って居られたのだ。お前たち二人ならそれが可能だとな。ゆえに、無念だったろう……」


(死の間際、思いを馳せるのは後悔。僕は、後悔しているのですか? 母上が望んだ世界を見せてあげられなかったことを……)


 いつか伸ばした手の先に、掴みたかったものがあることをヨハネスは思い出した。

 それは地位や名誉や勲章なんて大それたものではなく、どこかでお腹を空かせて泣いている誰かを、少しだけ笑顔に変える、そんなささやかな魔法。


 それが母――マリーヌの笑顔だったらどれほど素晴らしかっただろうかと、奥歯を噛みしめた少年が生に手を伸ばす。



「くっ……まだですゥッ!!」



 一秒後には髪の毛一本残らず灰となる状況化で、ヨハネスは迷うことなく腰の長剣を引き抜いた。


 先ほどまで虚空を見つめていた瞳は、たしかにいっぺんの曇りなく蒼天の如く輝きを放っている。


 そこに映るはたしかな希望。



「届くですぅぅううううううううううううううううううううううううっ!!」



 全力で放たれた一閃は赤銅色の粒子を吹き出しながら、ヨハネスを包み込むと光の粉を撒き散らして高速回転、荒々しく唸る竜巻となった。それはまるで放たれた矢のように光る筋を描いて空へ駆け上がる。


「はぁ……はぁ……」


 対岸にたどり着いたヨハネスは膝から崩れ落ち、盛大に大声を上げて泣いた。



「うえぇぇえええええええええええええええええええええええええええんっ!!」



 怖かったからではない。

 母を思い出して悲しかったからでもない。

 ただ、大切な想いを思い出せたことが嬉しかった。


 彼を救ったのは剣の性能ではなく、誰かを幸せにしたいと願った結果である。


 人は、時に誰かのためならば、自分自身の想像もつかぬほどの閃きと力を手に入れることができる。


 そして、純粋にその想いに付き従ったものこそが、のちに英雄と讃えられるのだろう。

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