第15話 小山内家5

 浴槽に溜めたお湯に浸かりながら、バブの成分が今日一日の疲れを解してくれている実感はいまいちでも、気分的な香りを楽しみながら細い身体をめいっぱいに伸ばした。



 女性として魅力に欠ける貧相な身体を悔いたことはない。余計な駄肉が付いてないぶん動きやすい。負け惜しみなんかでなく本気でそう思っている。



――悔しくなんかないもん。



 どうしてこんな事を言い聞かせているのかと言えば、昼過ぎの出来事が原因なのだ。墓参りと昼食を済ませた私と玲奈は早速、私が通う実戦剣術道場柴田一刀流道場へ。



 住宅街に建つその道場には顔なじみ門下生が数人と師範代の柴田先生がいた。彼らに玲奈を紹介したあと、柴田先生が基本的な指導にしばらくつくことになった。



「まあ、長々説明するよりも、実際の感覚を掴んで貰った方が早いでしょう。私に打ち込んでみてください」



 木刀を構える師範代。手に握った木刀をまじまじと見つめた玲奈は大上段に構えた。その構えは薬丸自顕流よりも腕をしっかりと伸ばしている。剣道も知らない子が上段構えをするとこんなものなのだろうか。足運びがぎこちないのは袴をつま先で踏んづけてしまっているため。



 飛び込みの参加だったのでちょうどいいサイズの胴着や袴が無かった。それでも彼女の希望で少々大きいサイズになるが何とか見つけてみたのだが、やはり動きづらそうだ。一歩歩く度に袴を踏んづけて前のめりになっている。いまは腕を持ち上げているからそうでもないけど、袖口から手が出ていない状態だった。



振り下ろされた一撃の最中に姿勢を崩した。



 簡単に受け止めた柴田師範は懸命に木刀を振るう彼女の全てを微笑ましそうに受け流し、絶妙に彼女が打ち込みやすそうな間合いを取っていく。



「少し休みますか?」

「い、いえ。まだ、大丈夫です」



 息が切れている玲奈は木刀が二倍三倍にも重くなったように切っ先を地面に付けていた。



「では、その場から打ち込んでみてください」



 木刀を握り直す。呼吸が落ち着くまで柴田師範は少し離れた場所でただじっと待っている。道場の隅で並んで二人の様子を見守る私たち門下生は、二人にとってもうその場にいない存在。玲奈の眼に活力が戻り、「面白いですね。気持ちいい、です」呼吸も安定するやまた大上段に持ち上げた。



 ゆっくりと大きなすり足で一歩。



 玲奈は振り下ろす過程で右手を離した。左手首を内側に捻りながら目一杯に伸ばす。頭上に持ち上げた木刀で受け止めたように見えたのは一瞬。角度が浅くなった玲奈の木刀は柴田先生の木刀をなめらかに滑っていく。切っ先を抜けると支えを失った玲奈は前のめりにつんのめった。「キミの間合いはここのようだ。片手面の応用技だったんだね」彼女の身体を支えてニッと柴田師範は笑った。



「父に教わりました。これ、片手面と言うんですね」

「の、応用……、いや、派生と言ったほうが的確かもしれない。左手首を捻ると刃が少し、振り下ろす対象に対して角度がついて上手く斬れない。斬ることを主眼に置いた業であっても片手では威力も落ちてしまう。お父さんがどんな目的でこの業を会得したのか興味深い、剣道でも実戦でもない型だね」

「お父さんも言っていました。こんな型に倣った業ではいけない。効率を重視しなくてはならない、と」

「実戦というより舞踊向きの動きだった。藤井さんの刀が撫でるように滑っていく美しさは、刃を寝かせたから成せる業ということだね。その動きはまさに、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、見惚れてしまう美しい動きでしたよ」



 柴田先生は感心している様子だ。



 端から見ていた私でも、説明をするには語彙力が乏しく、彼女の一振りを言い表せないが、魅せられる、惹き付けられていた。



「東儀さん。藤井さんの相手をお願いします」



 他の門下生たちと同じように並んだ柴田先生は私に木刀バトンを渡す。広い道場の真ん中で私は彼女と向かい合う。



 足下には色んな物が散らばっている。お手玉、座布団やら畳、プラスチックの壺なんかも転がっている。屋内外での実戦を想定したものだ。



「落ちてる物は投げても良いし、それで叩いてもいいからね。もちろん防御に使ってもオッケー。でも防具とかは付けてないから、木刀で叩くときは寸止めね」

「うん。判った」



 ひとまず正眼に構える。視線だけでざっと周囲に散らばっているモノと位置を把握しておく。玲奈は先ほど披露した大上段。しかし、よく見ると右手は柄を握ってはいない。添えているだけだった。



――なるほど。柴田先生はアレを見て片手面だって……。



 相手の手の内が判れば彼女の間合いを目測し、そこを警戒しながらも自分の間合いに持ち込めば良い。



――目測よし。



 気になるのは玲奈の足下。右足を大きく開いて、なおかつ外側に持って行く理由はなんだろうか。



――いいや。行こう!



 大きく踏み込んで一気に間合いを詰めに掛かる。先手必勝の攻め手に驚いた玲奈は眼を見開いて完全にタイミングを逃していた。しかし、「うげぇっ!?」予想もしない、いや、まず普通はそんなことをしないであろう反撃、つまり身体を丸めたタックルをお腹にくらってしまった私は情けない声を上げていた。



 木刀を振り上げてがら空きになった瞬間を突かれたのだ。



 二人して倒れた。みぞおちに頭突きを食らったことで悶えるばかりで立ち上がれない。その間にゆっくりとふらふら立ち上がった玲奈は、私の脇腹をツンツンと木刀で軽く突っついていた。



 勝負あった。



「東儀ちゃん油断したなぁ」



 門下生の一人が言うと、柴田先生には肩を竦められた。



「反則、だったかな」



 自信なさそうに言う玲奈はオロオロとして、「ごめんね。大丈夫?」手を差し伸べてくれた。



「ううん。アリだよアリ。まさか負けるなんてなぁ……」



 悔しいけど楽しかった。



「さて、そろそろいい時間だ。今日の稽古はこれで終わりにしよう」



 まだ若い門下生もいる。例の事件のせいで稽古時間を短縮しているのだ。道場の片付けをしてから男女に別れて更衣室で着替える。胴着は柴田先生の方で洗濯をしてくれるから脱いだら部屋に置かれた籠に放り込んでおけばいい。私の着ていた胴着も今日は借り物だ。



「まだ日暮れ前とはいえ、物騒ですし送りますよ」



 玄関で靴を履く私たちに柴田先生は言ってくれた。しかし私はそれを断り、玲奈も大丈夫だと言った。松戸市の事件、それも二人目被害者を知っているからこそ、心配して言ってくれた先生の親切な誘いを断るのはちょっと良心が痛んだ。



 まだ夕方の空色。道場は住宅街の中にあり直ぐ近くには大通りもある。何かあれば声を上げて助けでも呼べるのだ。そういった楽観的な考えもあったし、もう少し二人だけで話がしたかった。それは彼女も同じらしく私の手を握って誘導するように道場を出た。



「この後、まだ時間大丈夫だったり? ファミレスにでも寄って、乙女のお茶会しながらもう少しお話しないなぁ」

「うん。私も誘おうかなって思っていたところ」



 レンタルビデオ店の近くにあるファミレスまで行った。ここらではその近辺にしか飲食店がない為だ。二人でハンバーグセットのドリンクバーを注文した。足りなかったらポテトでも追加すればいいが、きっと私は足りないから注文すると思う。



「何を話したい?」



 二人でドリンクを取りに行って席に着いた途端、からかうような口調で玲奈は顔を寄せて言った。ちょっと色っぽかった声にゾワリと背中が震えた。



 もちろんどんな話でもいいけれど、私が気になったのは先ほどの剣術のことだった。彼女にあの構えを教えたお父さんの事や家族のことを聞いてみた。



「妹は昼間に電車で話したとおり、可愛らしくて誰からも愛される子、かな。お父さんは読書をしていたり、剣術に専念する人だった」

「簡潔すぎだよぉ! どんなことして過ごしたとか、家族の思い出とかさぁ……、あっ、もしかして聞かれたくなかったこと聞いちゃったかな。そうだよね、お母さんのこともあるのに」

「別に話したくないとかじゃなくて……、うーん、沙穂にはどう話せば良いのかなって。学校でもあまり自分のこと話さないし、どっちかといえば聞く専門に徹してたから自分の話し方がちょっと判らないだけ」

「思いついたことを話せば良いよ。だって、私だって思いついたついことポンポン喋ってるわけだしね」

「写真で見たから判ると思うけど、妹とは一卵性双生児なの。瓜二つの双子。でも中身はまったく異なっていた。不思議だね、中身が違えばここまで周囲からの扱いがこうも違うんだから」



 初めて一卵性双生児を見た感想で言えば、影分身のようで、時代劇では影武者として使われても見分けは付かないくらいだ。唯一の二人を判別する基準は眼の色くらいのもの。もしかしたら声も微妙に違うかも知れない。しかし視覚でのみ判断するならそれくらいしか見当たらなかった。



「昼も言ったけど、下の子が可愛がられちゃうみたいなんだよね。どの家庭でも一緒一緒」

「むぅ」

「でも、妹さんのこと大好きなんだよね」

「大好き。可愛いから」

「ほら、玲奈だって同じじゃん」



 周囲も賑やかな、同い年くらいのグループが各席で楽しそうに盛り上がっている。こっちも負けていられない、「将来の夢とかってある?」対抗意識に火が付いて、少しでも楽しい話題にしようとした。



「将来か……。あまり考えたことないけど、しいていうなら、そうだね、花嫁さんかな」

「乙女さんだ」

「笑わないで。結構本気なんだよ、花嫁さんになるの」



 口調や表情からは冗談かの判断はつかないが、本気だというのならそうなのだろう。彼女が花嫁衣装で教会のカーペットを歩く姿は容易に想像できたし、親友には円満な幸せ街道を歩いて行って欲しいと願っている。



「もう一つ、夢があるの」

「なぁに」

「来世は妹として産まれたい」



 玲奈が妹という立場に憧れているのは昼間の会話からも察しがついていた。甘えたいという願望が強いのかもしれない。彼女の家庭事情は知らないけど妹相手に熱湯を掛けたという話が本当なら、彼女は実家で、どういった扱いを受けていたのか悪い方へと想像が働いてしまう。



「沙穂は来世、どんな人に産まれたい?」

「私はー、私にまた産まれたい」



 今の自分が自分らしく生きているのは充実した日常が証明してくれている。しかしその充実には自分という要因だけでは不十分。他人という周囲環境にも大きく影響、依存しているのは間違いない。ただ、どういう自分になりたいかと聞かれたらやっぱり今の自分で満足していると言いきれるくらいには人生に満足している。



 自分から時代物と作家スピリッツを抜き取られた魂が来世の肉体に受肉したとして、楽しい人生を送れる自信が無い。



「妹になったら人生に満足できるの?」



 好奇心が勝手に口を動かした。今の自分の人生に満足していない彼女に問いかけたのは良くなかった。玲奈の心証を悪くしたかもしれない。



彼女の眼がゆっくりと、観察するように私を見上げ、「どうなんだろう。今の私は来世に期待しすぎで、妹になってみたらこうじゃなかったって苦悩するかもしれない。もしかしたら姉の方が良かったかもしれないって後悔するかもね」その時になってみないと判らないものだと付け加えて笑った。



 学校で見せるような普通の女の子の笑顔。でも今の玲奈からは無理しているような印象を受けてしまったのは、私が失言を引きずっているからか、なんとかその不安の種を摘み取ろうと心と頭が結託し、「玲奈が羨ましいな。美人だし周りに友達も多いしさ。私なんてクラスで時代小説読んでる基本ボッチだし」口をまた動かされた。



「ああ、あの子達。私とは仲良くないよ。ただ、私という存在を中心にして群れていたいだけ。つまり、彼女たちからしたら私の価値は、孤独にならないために誰かと都合の良く担げる神輿にすぎないの。それを本当の友達と呼べる?」

「センセもしょっちゅうなんだけどね、自分を過小評価しすぎなんだよ。玲奈は神輿なんかじゃないし、玲奈がそう感じちゃうのは玲奈だけのせいじゃないんだろうけど、自分を神輿としか思えないなら、まずは一歩、相手にタックルしてみればいいと思うんだよね。剣術道場みたいに思いっきり、ね」

「私は他人をそう簡単には信用できそうにないのに」

「私のことは信用してくれたから、こうやって親友になってくれたんだよね? なら、大丈夫だよ。恐れることは無いと思うけど」

「沙穂は他の人とは違うよ。とても心が清らか。自分に真っ直ぐで相手を貶めようなんて考えがない、素直な子。湖面に映った月のようで、そんな沙穂だから私は踏み出せたの」

「いやいや、私なんて全然だよ」



 なんとも恥ずかしくなってしまう評価を口にされて、浮かれてしまうのは仕方ない。だって人間だもの。舞い上がる私は玲奈の表情を見て、「大丈夫?」辛そうに笑う彼女を見て胸がギュッと絞られたような痛みを感じた。



「ほら、純粋で良い子。私の周りにいる子達はね、呼吸をするように、生きていく為の行為であるかのように必死になって他人の悪口を吐き散らしているんだよ。ずっと、ずっと、私に群れて毒を吐き続けられて、ちょっと辛かったの。でも私も悪い子だから、救いの手を伸ばしちゃいけないし、彼女たちの不満を聞いてあげることで自分を許せていたの」



 遠巻きには見ていて楽しい話でもしているのかとも思った。華やかなグループの中心にいる彼女はきっと素晴らしい青春を謳歌しているのだろうと思い込んでいた。実際は違った。関わろうとも思っていなかったから、上辺だけの情報でしか認識してあげられなかった。



 でもこれからは違う。



――私は玲奈の親友だから。



 約束をしたのだ。



 彼女を武士として守るって。



 涙を流してしまいそうな脆い笑顔。「はい。あーん!」大きく切ったハンバーグを箸でつまんで彼女の口元へ近づける。



「え、え?」



 狼狽する反応は予想済みだ。もちろん私だってこんなことをいきなりされたらどうしていいか判らなくなるはずだ。お腹が空いていたら戦は出来ないのだ。彼女が戦うべきは一歩を踏み出せないでいる弱い自分自身。一人が怖いなら私が手を引いて、もしくは背中をそっと押してあげる存在になりたい。



「た、べ、て!」



 気迫に押された玲奈は小さな口では入りきらないハンバーグに意を決して食らいついた。咀嚼しながら入りきらない部分を箸を使って少しずつ口の中へと招き入れていく。

 


 やっとの思いで呑み込むと、「食べさせてくれるなら、もう少し小さく切って欲しいよ」ちょっと拗ねたような、ちょっと怒っているという意思表示か、眉間に寄せた眉をヒクヒクとさせている。きっと彼女にとって不慣れな表情なのだろう。



「センセの一口がいつもこれくらいだから、つい?」

「食べさせてあげてるの?」

「まさか。そんなことしないって。やってあげても、口開けてくれないと思う」



――センセはシャイだから。



 センセは大口で食べるし咀嚼も数回しかしないのを思い出した。あれでは食べるというより流し込んでいる。料理を楽しむというよりかは栄養を摂取できれば良い作業程度にしか考えていないのかもしれない。早食いは太るというけど、センセはあんな不摂生な生活をしているせいか、病気かと思えるくらいに痩せているのが疑問でならない。



「玲奈が一歩踏み出せないなら、私が付いていてあげる」

「武士だからかな?」

「友達だからだよ!」

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