第9話 宮殿の管理人セシリア
天地大戦で眠りについた女神の代わりに、世界を守護しているという神の落し子。確かに世界にひとりしかいない存在として下界でも神聖視されてはいたが、その存在意義を真に理解している者は誰もいなかっただろう。アルディナ神殿の神官長エレナでさえ、そういうことを口にしたことはなかった。
女神アルディナの弟。闇にのまれた地界神。
眠りについたアルディナと、代わりに世界を守護する神の落し子。
落し子が存在しているだけで世界が守られていると言われても、シェリル自身にその実感はまるでない。それよりもシェリルの心を揺さぶるのは、天地大戦以降、女神アルディナの姿を誰も見ていないということだ。
ならばシェリルの願いは叶わないのか。両親の仇である正体不明の闇の魔手に、これからも怯えながら生きていくしかないのだろうか。
『見つけたぞ。あの忌々しい女の力を受け継ぐ――神の落し子よ』
頭の中で、惨劇の夜に聞いた闇の声が木霊する。
神の落し子が女神の代わりに世界を守護しているというのなら、あの闇が忌むべきものとして狙ったのはシェリルの中にあるアルディナの力……なのかもしれない。
アルディナの力を嫌い、狙う闇。ちょうどそんな話を、今しがたカインから聞いたばかりではなかったか。
地界神ルシエル。女神が地底へ追い払った闇を監視するはずが、逆にその闇にのみ込まれてしまった弟神。
ほとんど無意識に、シェリルはルシエルの墓だという砂漠へ目を向けた。砂漠の真ん中に突き立てられた一本の剣が、シェリルの脳裏にくっきりと浮かび上がる。その剣の横に、ぼんやりとした黒い人影が佇んでいるのを見た瞬間、シェリルの頭の中にあの夜と同じ不気味な声が響き渡った。
『我から逃れられると思っているのか?』
肉眼では到底見えるはずのないその影が、ゆっくりとシェリルの方へ手を伸ばした気がした。
「……っ、カイン!」
思わずカインの腕に縋ってしまったが、その手を振り払われることはなかった。シェリルの怯えた様子を訝しんだカインが、逆に腕を掴んで体を引き寄せる。その手の強さが命綱のように思えて、恐怖に震えるシェリルの心はほんの少しだけ落ち着くことができた。
「どうした」
「あの影……。砂漠の剣の横に……黒い影が」
「なに言ってんだ。ここからじゃ砂漠の剣すら見えないんだぞ」
「でもっ」
確かに見えたと、そう主張したくて顔を上げれば、思いのほか近い距離でカインがシェリルを見下ろしていた。腕を引かれると同時に抱き合うようなかたちになっていたのだろう。シェリルはカインの胸に手を添えて、カインはシェリルの腰に腕を回していて、まるで恋人同士の抱擁のようにぴったりと密着していた。
見上げた先で、カインがにやりと意地悪に笑う。その笑みを見た瞬間、シェリルの体に羞恥の熱が込み上げた。
「……っ!」
言葉にならない悲鳴を上げて腕をぐいっと前に突き出すと、シェリルはカインの胸を押しやって緩い腕の拘束から逃げるように飛び出した。
「まだ怖いんなら、もっと抱きついてきてもいいんだぞ?」
「いらないっ!」
ぷいっと顔を背けて、シェリルは再び坂を上り始めた。背中に聞こえる笑い声に恥ずかしさは増すばかりだが、そのおかげでさっき感じていた恐怖はすっかりとどこかへ吹き飛んでいる。けれども感謝するというのも違う気がして、結局坂を上り終えるまでシェリルは一度もカインの方を振り返ることができなかった。
***
長い坂を上り終えた先に、白く輝く荘厳な宮殿が姿を現した。
建物の入口まで続く石畳の両脇には六本の柱が建っており、その上にはそれぞれ色の違う球体が浮いたまま緩やかに自転していた。
球体の色は、赤、青、黄、緑、白、黒。それはすなわちこの世界を形作る属性を表しているのかもしれない。そう思いながら石畳をカインと並んで歩いていくと、シェリルたちが辿り着く前に宮殿の扉が中からゆっくりと開かれた。
扉の向こうから現れたのは、薄青の長い髪の毛を背中でひとつの三つ編みにした女性だ。あまりに長い三つ編みはもはや床に達する勢いで、彼女の服の裾を掠めて揺れている。
シェリルたちを見て微笑むその顔は、ルーヴァの姉であることを物語るほど彼によく似ていた。
「いらっしゃい。ルーヴァの伝達魔法で大体のことは聞いているわ。私はセシリア。この宮殿の管理を任されている者よ」
「はじめまして。シェリルです」
「まぁ。本当に神の落し子なのね。会えてうれしいわ。いろいろと聞きたいこともあるでしょうから、さぁどうぞ。中へ入って」
セシリアに通された部屋のテーブルには、分厚い書物がいくつも重ねて置かれていた。そういえばシェリルもアルディナ神殿の書庫で、こんな風にたくさんの本を集めては読んでいたことを思い出す。その時に求めていた召喚術によって、シェリルはいま天界へ来ているのだと思えば、何だか少し不思議な気分になった。
「ルーヴァから聞いてるなら、こいつの願いも知ってるだろ?」
セシリアがお茶の用意をしている間、カインは待ちきれないといった様子で早々に話を切り出した。
「アルディナ様に会いたいという願いかしら」
「そうだ。女神が天地大戦からずっと眠り続けていることは、こいつにも話した。でもこいつは神の落し子だ。眠っている女神のそばに連れていってやれば、何かしら変化が起こるかもしれないと俺は思っているんだが」
「それは……少し難しいかもしれないわね」
お茶を配り終えて向かいの席に腰掛けたセシリアは、少し考え込むように視線を落として、自分用のお茶をスプーンで緩くかき混ぜている。まるで自身の思考へ深く潜るように、銀製のスプーンがくるくると回る。その手が止まったかと思うと、セシリアの青い瞳がシェリルの方をまっすぐに向いた。
「シェリル。あなたは本当にアルディナ様に会いたい? その先にどんな困難が待ち受けていようとも、あなたの思いは変わることはないかしら?」
優しいのに、射抜くような強いまなざしだ。ほんの少しの迷いさえ見抜いてしまうようなセシリアの視線に、けれどシェリルは正面から向かい合って強く確かに頷いてみせる。
両親を奪った闇が、今度はエレナやクリスティーナまでもを襲うかもしれない。大切な人を守るために、もう闇に怯えながら生きていかなくてもいいように、シェリルは呪われた絆をこの手で断ち切りたいとずっとそう願ってきた。そのためにできることは何でもできる。
「そう。あなたの決意は強いようね。ならば私もあなたに協力します」
「セシリアさん。……ありがとうございます」
厳かな雰囲気から一転して和やかに微笑んだセシリアに、シェリルの肩に入っていた力も自然と抜けていく。セシリアが用意してくれたお茶を飲めば、その甘い香りに気持ちは更に落ち着いた。
「でもセシリア。お前さっき、アルディナのそばに行くのは難しいって言ってただろ? 眠っているとはいえ、女神との対面を果たせれば、俺とシェリルの契約は果たされたといってもいいんじゃないのか?」
「召喚術の契約はそんなに簡単なものじゃないわよ。カイン、あなたはもう少し真面目に仕事をしてちょうだい。能力の持ち腐れだわ」
「ひでぇな。これでも真面目にやってるつもりだ。大体シェリルを天界に連れてきただけでも、契約の大半は終わってるだろ。俺はいい加減、堅っ苦しい契約からは解放されたいんだが」
カインが望んで一緒にいてくれているとは思っていなかったが、こうも正直に面倒がられるとシェリルとしても少しだけ胸が痛んでしまう。
そもそもカインを召喚したのも、契約を交わしたのも偶然だ。一緒にいた時間はまだ短いが、それでもここに来るまでの間には多少なりとも打ち解けてきたとシェリルは思っていた。
だからだろうか。カインの言葉がこんなにも鋭く胸に突き刺さってしまうのは。打ち解けていたのは自分だけだったのかと、シェリルは心の奥がかすかに軋むのを感じた。
「シェリルの守護天使としての任務は、まだもう少し続きそうよ。だからあなたがちゃんとしてくれないと、私もこれからの話をするべきかどうか本当に迷うわ」
「わかったよ。ちゃんと最後までこいつの面倒見るから、知ってることを全部教えてくれ」
「別に面倒見てなんて頼んでないもの」
「何だよ。拗ねてるのか?」
「拗ねてない! セシリアさん! 私も早く契約を解消したいので、どうしたらいいのか教えて下さい」
「言うじゃねぇか」
カインにはシェリルの言葉などただの幼稚な反抗にしか映らないのだろう。勝ち気に笑う顔を横目に見ながら、シェリルはぐちゃぐちゃになった心を落ち着かせるために残ったお茶を一気に飲み干した。
「痴話喧嘩は終わったかしら? じゃぁ、本題に入るわね」
冗談さえも優しく言われ、一度は落ち着いた気持ちが今度は申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになってしまった。
「アルディナ様が眠っている部屋は、強固な封印の扉で重く閉ざされているの。だから私もその姿を見たことはないし、シェリルをアルディナ様と直接会わせることもできないわ」
「封印で閉ざされている?」
「そうよ。そしてその封印の扉には、予言とも思われる言葉が刻まれている」
そこで一旦言葉を切って、セシリアも自分用のお茶を飲み干した。そして覚悟を決めたようにシェリルを一瞥すると小さく頷いて、ゆっくりとイスから立ち上がる。
「説明するよりもその目で見てもらった方が早いわ。アルディナ様のところへ案内します」
セシリアの言葉に、シェリルの胸がどくんと鳴った
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