第8話 もうひとつの神話
ルーヴァの家を出て右にある一本道は、月の宮殿の建つ崖の頂上まで緩やかなカーブを描いて伸びていた。かなりの距離があるのだが、半分くらい進んでもシェリルは体にあまり負担を感じなかった。ルーヴァがサンダルにかけてくれた魔法が作用しているのだろう。息を乱すこともなく、何なら景色を楽しむ余裕すらある。眼下に広がる天界、街中あるいは空を飛び交う天使たちの姿に、シェリルはもう何度目かわからない感嘆の声を漏らした。
「何だよ? また感動してるのか? 風の回廊から来た時も見た景色だろ?」
「それはそうなんだけど……本当に天界に来ているんだなって思って。それにどこを見ても、何かこう……神聖な力を感じるわ」
「そうか? 俺にはよくわからないけどな」
「カインはずっとここにいるから気付かないのよ。自然も人も、何もかもが本当に美しい場所だわ」
「お前はここが天界だからっていうだけで、無意識に特別視してるだけだ」
「そんなこと……」
「天使だって人間と同じだ。争いもする」
言葉を被せてきたカインの声が、いつもよりも冷たい。拒絶されたような気持ちになり、恐る恐る視線を向けると、カインは死んだように虚ろな目をして眼下の街よりも遥か遠くの方へ視線を向けていた。その表情からは、何の感情も読み取ることができなかった。
「……カイン?」
わずかに肩を震わせて振り向いたカインが、シェリルを見て苦しげに眉を寄せていた。向けられるセレストブルーの瞳に意識は戻っているようで、けれど何かを迷っているのか、シェリルを見たかと思えば再び視線を遠くへ投げかけている。
「……そう、だな。お前も女神に会いたいというのなら、知っておくべきかもしれないな」
「どうかしたの?」
「……見えるか?」
そう言ってカインが眼下に広がる街から更に遠く、空と地平線の交わる境界線の先を指差した。シェリルが風の回廊から現れ出た塔の階段よりも遥か先、そこにかろうじて目にすることができたのは乾いた砂の色だった。
天界すべてが女神の力を受けて神聖な気を纏っているのに、その恩恵を一切受け付けない孤独な場所がそこにあった。街から遠く離れた場所にある荒野は、崖の上から見てもその全貌を知ることは難しい。
美しい天界には不似合いな場所だ。それに枯れた荒野の色を見ていると、何だかそわそわとして落ち着かない。カインも同じなのか、急にポケットから煙草を取り出すと、火をつけて一気に深く煙を吸い込んでいる。
「あそこは天界でも忌み嫌われている砂漠だ」
そう呟いて、カインが吸い終えた煙草を握り潰した。火傷しないのかと一瞬焦ったが、どうやら魔法で消したらしい。開いた手に、吸い殻はもう残っていなかった。
「シェリル」
手招きされたのでそばに寄ると、その手で両の目を覆い隠された。一瞬びくりと震えてしまったが、カインの手のひらに握り潰した煙草の熱は残っていない。ただかすかに漂う煙の匂いがシェリルの鼻腔を刺激した。
有無を言わさず閉じられた視界の中に、ぼんやりと揺らめく景色が見える。風にさらさらと儚く流れるのは、砂だ。真っ暗な
「何、これ……砂漠が見えるわ」
「俺が昔見た記憶をお前に流してる。砂漠の中に、何が見える?」
言われて意識下で視点を少し動かしてみると、砂漠の真ん中に一本だけぽつんと突き立てられた黒い影が見える。意識を集中させてよく見れば、それは柄に真紅の石を埋め込んだ一本の剣であることがわかった。
「……剣?」
「それは……ルシエルが使っていた魔剣フロスティアだ」
静かにそう告げると、カインはシェリルの目元から手を離した。
「そしてあの砂漠は、ルシエルの墓だ」
「ルシエルって……一体誰のこと?」
「ルシエルは、闇にのまれてしまったもうひとりの創世神。女神アルディナの弟だ」
カインの声に導かれるようにして、崖下から強い風が吹き上がった。ごうっと激しくうねる風の音は、まるで誰かの悲鳴のようでもある。
「アルディナ様に……弟? え? ちょっと待って。そんな話、知らないわ」
「そうだろうな。天界と下界が交流を絶ってずいぶん経つし、ルシエルの存在はこの天界でも禁忌の名として口にすることを恐れられてる。それに天界にとっても、あまりいい歴史ではないからな」
意図的なのか声を少し落としたカインは、また二本目の煙草に火をつけている。いつもの自信満々な態度から一変して、今のカインはどこか仄暗い感情を押し殺しているような、恐怖とも嫌悪とも違う複雑な表情を浮かべていた。
「これから話すことは、お前たちの知っている神話とは別の話になる。創世神話の続きだと思えばいい」
***
はじめに闇があった。
どこまでも続く闇は、光もなければ風もないただの真っ暗な空間だった。
そしてここに、創世の女神が降り立った。
彼女が最初に降り立ったその場所から命を育む大地が広がり、風となった彼女の吐息はその一息で闇を地底深くへと吹き飛ばした。瞳からこぼれ落ちた涙は海となり、風になびく金色の髪先から舞い上がった光の粒子は夜空に輝く星々となった。
闇の蠢く混沌から緑豊かな大地へと生まれ変わった世界は、その地に次々と新しい命を育み、そして「人」が誕生した。
世界を創造した女神は天界レフォルシアを治め、下界イルージュは人間たちが生きていく世界となった。そして世界創造の際に地底へ追いやった闇を監視する役目を担ったのが、アルディナの弟――
地界へ封印された闇とはすなわち、世界に存在するあらゆる負の感情の集合体。
恐怖。
憎悪。
嫉妬。
狂気。
数え上げればきりがない数多の負の感情を吸収し膨張した闇は、やがて人格を持つようになり、それは「闇を纏うもの」――イヴェルスと呼ばれた。
ルシエルが地界神となって、どれくらいの時間が流れたかはわからない。地界ガルディオスでイヴェルスを監視しながら、ルシエルはたったひとりで生きてきた。
光もない。風もない。地上で感じるものすべてが、この世界にはなかった。
あるのは果てしなく続く闇と、その中に響く醜い声。人を羨み、憎み、恨む声だけだ。
やむことのない声と闇の中で生きるルシエルの精神が壊れるには、そう時間はかからなかった。それまで当たり前のようにあった孤独をさみしいと感じ、世界にたったひとり取り残されたような感覚に陥る。そんなルシエルの弱った心に、イヴェルスが巧みに語りかけたのだ。
『女神はお前を捨てたのだ』
闇にのみ込まれたルシエルの翼は暗黒に染まり、それは天地大戦の幕開けとなった。
***
「……天地大戦」
「その戦いに参加した天使はもういない。ルシエルを全力で食い止めた女神も、今では長い眠りについている。俺だって、女神の姿を見たことはない」
「……えっ!? カインは女神に会わせてくれるから、こうして天界まで連れて来てくれたんじゃないの!?」
隠されていたもうひとつの神話にも驚いているというのに、それ以上の爆弾発言にシェリルは思わずカインの腕を掴んで詰め寄ってしまった。
「眠っているって、本当なの!? 天界も……下界だってアルディナ様の豊かな恩恵を受けているのに……そんなに昔からずっと……不在だったと言うの?」
そんなはずはないと、シェリルはもう一度眼下に広がる天界を見回した。吹き抜ける風にも、足元に咲く花の一輪にさえ、女神の聖なる力を感じる。
下界イルージュだってそうだ。天界ほど強く女神の力を感じることはないが、世界が平和に続いていること自体が多大なる恩恵の結果ではないのか。
「世界を守護しているのは女神じゃない。――お前だ」
「……え?」
「天地大戦で力を使い果たし、眠りについた女神の代わりに生み出されたもの。それが、神の落し子だ。お前が存在しているだけで世界は護られてる」
告げられる話の大きさに、シェリルは声を失って立ち尽くしてしまった。
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