第7話 シェリルを蝕む悪夢

 体にべっとりと張り付く、おぞましい闇に捕らわれていた。

 足首に巻き付く闇の触手が体を這い上がり、触れた箇所から瞬時に熱が奪われていく。呼吸すらままならず、酸素の足りない脳が麻痺して涙がこぼれる。


『見つけたぞ』


 地を這う闇が、ぬらりと鎌首をもたげた。ぞわぞわと蠢く黒の中で、血のように赤い目がを見つけてニヤリと笑う。


『逃がしはせぬ。あの忌々しい女の力を受け継ぐ――神の落し子よ』


 襲い来る闇の触手を振り払って、母親がシェリルを地下の隠し通路に押し込んだ。ひとりにしないでと伸ばされた手には、母のぬくもりではなく紫銀の三日月の首飾りが手渡される。焦ったように締められた扉の向こうで、何かが吹き飛ぶ音がした。


 おとうさん。

 おかあさん。

 いかないで。ひとりにしないで。

 怖い。

 助けて。誰か助けて。

 怖い。怖い。怖い。


 どこをどう走っていたのかも覚えていない。隠し通路から出る頃には、東の空が白み始めていた。

 幼いシェリルには自分がどうすべきなのかわかるはずもなく、足は自然と丘の上に立つ家へと向かう。両親を求めて静かに開けられた扉の隙間から、薄暗い室内に白い朝日の線が走る。その先に、赤黒い塊が見えた。


 鮮血の海にむごたらしく散らばったそれが、かつて何であったのかを理解した瞬間――シェリルは声を張り上げて絶叫した。




「いやあぁぁっ!」


 弾かれたように目を覚ました。夢から覚めたはずだった。なのに視界に映るのはどこまでも深く昏い、闇。闇の漆黒と、絶望の鮮血だけだ。

 赤く塗り替えられた室内はもはや恐怖でしかなく、それでもそこに確かにあったはずのぬくもりを求めて手を伸ばす。その指先に絡みついた闇が、今度はシェリルを捕らえようとして大きく膨張した。


 父を。母を。幸せだった時をすべて粉々に引き裂いた闇が、シェリルの前で人の形を留めていく。呪いを押し固めたような黒い人影に顔はなく、ただ蠢く靄の中で血よりも濃い双眸がシェリルを憎悪の眼差しで見つめていた。

 その手が、シェリルの肩に触れる。触れたそばから急速に熱が奪われる。


「いやっ……離して!!」


 懇願など、この闇の前では意味を成さない。それでもシェリルは叫ばずにはいられなかった。


「……っ、殺さないで……!」

「シェリルっ!!」


 大きく体を揺さぶられると同時に、鼓膜を強く震わせた声にハッと目を開いた。

 シェリルを捕らえようとしていた闇が霧散し、差し込んだ光に浄化されるように薄れていく。境界が曖昧だったシェリルの意識が現実へと引き戻され、晴れた視界に紫銀の光を確認した瞬間。


「カイン……っ」


 シェリルは縋るように腕を伸ばして、カインの胸にしがみ付いた。

 体がガタガタと震えている。強く握りしめたはずの手に力が入らず、せっかく掴んだカインの存在を取りこぼしそうだ。

 この手を離してしまえば、また闇に引きずられる。悪夢に囚われてしまう。襲い来る圧倒的な恐怖から逃れようと、なおも強く縋り付いたその手を、今度はカインの方から包み込むようにして握りしめられた。


「……大丈夫だ」


 その声は熱となり、光となり、悪夢に怯えるシェリルの体にじんわりと優しく染み込んでいく。


「大丈夫だから……。何も怖いことなんてない」

「カイ……ン……。カイン……っ」

「あぁ、そうだ。俺はここにいる。どこにも行かないから、落ち着け」


 優しく抱きしめられ、髪を梳くように頭を撫でられる。大きな手のひらは、まるで父親のようだ。撫でる手つきの優しさは母親を思い出させる。消えないぬくもりに包まれていると次第に体の震えは収まって、シェリルはようやく自分の状況を確認できるまでに気持ちが安定した。

 と思えば、今度はカインに抱きついてる現状に混乱する。


「な、なな……なんっで!?」

「言っておくが、抱きついてきたのはお前の方だからな」

「そんなの……っ」

「知らないって言うんだろ。別にいいが……なんかお前、尋常じゃないくらいうなされてたぞ」


 顔にかかる髪を払われた指先で、額の三日月に触れられる。隠していた部分を暴かれたのだと悟り、シェリルの体が反射的にびくりと震えた。


「それにお前、落し子だったんだな。なんで隠してた?」


 セレストブルーの瞳から逃れるように俯いて、そこで初めてシェリルは自分が三つ編みを解いていることに気がついた。恐る恐る体を確認すると、重く垂らしていた前髪は左右に分けられ額が完全にあらわになっている。眼鏡もしていない。服だっていつの間にか、寝衣から見たこともない白いワンピースに変わっていた。


「服は魔法で着替えさせたので安心して下さいね」


 そう言ってルーヴァが手渡してきた手鏡を覗き込むと、そこにはシェリルがずっと隠してきた本来の自分の姿が映し出されていた。

 額に浮かび上がる三日月の刻印に、恐る恐る触れてみる。それだけで、胸が軋むように痛んだ。


「……だめ、よ。これじゃ……いつ、またあの闇が来るか……」


 額の三日月は神の落し子の証だ。そしてシェリルの両親を殺した正体不明の闇は、神の落し子を狙っている。

 だからしるしは隠さなければと、シェリルは手鏡に映る三日月の刻印を怯えたように見つめた。その手鏡を、横からカインに奪われる。


「あのな。何に怯えてるのかは知らないが、お前が喚び出した天使を誰だと思ってるんだよ」

「……え?」

「お前と契約した時点で、俺はお前の守護天使だ。お前ひとりを守るくらいわけはない」


 守ると、そう自信たっぷりに言い切ってみせる。命を代償に守ってくれた両親のように、カインの言葉はひとりで悪夢に耐えてきたシェリルの心にじんわりとあたたかく染み渡っていく。


 カインは天使だ。シェリルを狙う邪悪な闇の存在に、聖なる女神の眷属である天使の守護は、これ以上ないほどの強力な盾となる。見えない傷でぼろぼろだったシェリルの心は、ようやく少しだけ頼れるものを見つけて休息を得たかのようだった。


「話はカインから聞きましたが……。シェリル。とりあえず額のしるしはそのままにして、まずは月の宮殿へいってみてはいかがですか?」

「……月の宮殿?」

「えぇ、女神アルディナの居住です。管理を任されているセシリアという女性に会ってください。落し子のあなたになら、伝えるべきことがあるかもしれません」

「何だよ。さっきからやけに遠回しだな。お前はセシリアから直接それを聞いているんじゃないのか? ルーヴァ」

「その辺りは極秘情報なので、いくら私でも話してくれませんよ。ただ言葉の端々から、何となく感じている……というくらいでしょうか」


 探るようなカインの視線を、ルーヴァは相変わらずの笑みで受け流している。そのままベッドの下にしゃがんだかと思うとシェリルの方を見上げ、「どうぞ」と一足のサンダルを取り出した。

 魔法で着せられたという白いワンピースと同じく、サンダルもシェリルの足にぴったりだ。サンダルを履いてベッドから立ち上がると、視界の隅でルーヴァが満足げに頷いている姿が目に入る。


「宮殿へはこの崖の一本道を上っていかなくてはなりませんが、靴に少し魔法をかけておいたので、歩くのはそう苦にならないと思いますよ」

「あ、ありがとう。ルーヴァ」

「姉さんの方にも連絡はいれておきますね」

「姉さんって」

「えぇ。宮殿の管理をしているセシリアは、私の姉です」


 ルーヴァが人差し指を軽く回すと、軌跡を伝って流れた薄い靄がみるみるうちに青い小鳥に変容する。伝達の魔法だろうか。そう思いながら見ていると、小鳥は閉じられた窓をすり抜けて、そのまま外へと飛び去ってしまった。


「んじゃ、俺らも行くか。シェリル、歩けそうか?」

「うん。大丈夫」


 うなされたシェリルを気遣ってくれているのだろう。完全に悪夢の余韻が消えたわけではなかったが、それでもカインがそばにいてくれるこの現状に、シェリルは自分がいつになく安心していることを確かに感じていた。


「連れていって。女神のいる、月の宮殿へ」


 深呼吸をして、足を踏み出す。

 神の落し子として再び歩くことを覚悟して、シェリルはルーヴァの家を後にした。





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