第6話 神の落し子

「私は怒っているのよ」


 肉感的な体を背中から抱きしめて、カインはリリカの首筋に顔をうずめた。甘えるように頬をすり寄せると柔らかな耳朶が鼻先をくすぐって、同時にいつもとは違う少しフローラルな香りがした。

 リリカがあまり好まない匂いだ。けれど甘い花の香りの奥に、背筋をぞくりと震わせる官能的な香りが隠れている。まるで匂いに釣られた獲物を誘い込む、濃厚な花蜜のようだ。


「香水、変えたのか?」

「やっぱりカインにはわかるのね。そうよ。ルーヴァにもらったの。男を虜にする香りですって」


 胸の前で組まれたカインの腕に自身の手を重ね、リリカが背後のカインを仰ぎ見るようにしなだれかかる。


「どう? 効いてる?」

「試してみるか?」


 首筋に寄せた唇を滑らせて耳朶を甘噛みする。そのまま頬のラインをなぞってキスを誘うカインの唇を、リリカの手のひらがギリギリのところで押し止めた。


「あの女のことを話すまではダメよ。あんな冴えない、しかも人間の女をどうして連れていたの?」


 またか、と言わんばかりにカインは溜息をついた。おあずけを食らって正直いらつきもしたが、唇を押し止めたリリカの手のひらをぺろりと舐めることで一旦は気持ちを落ち着かせた。


「……召喚されたんだよ」

「召喚? 冗談でしょう? 今のイルージュに召喚術を行えるほどの人間はいなかったはずよ」

「そのはずなんだがな。弾みで契約しちまったから、あいつの願いを叶えるために連れてきたんだよ」

「あんな女に、あなたを召喚できるほどの魔力があるとは思えないけど」

「偶然が重なったんだろ」


 失われたとされる召喚術によって喚び出された挙げ句、不本意にも羽根をしるしとして契約を結んでしまった。自分の愚かさに呆れもしたが、不思議と今はそこまで嫌だとは思っていない。

 地味で色気のかけらもないシェリルが、カインの言動ひとつで照れたり怒ったりする様子を見るのはどちらかと言えば楽しい。女神に会いたいという願いも大それていて愉快だし、神官の女を色恋に落としてみたらどうなるか、という仄暗い遊び心も否定はできない。

 とは言っても、今のカインの興味はリリカの方だ。消化不良で燻ったままの熱を吐き出すように、カインはリリカの耳に吐息を吹きかけた。


「なぁ、もういいだろ? こっち向けよ」


 掠れた声で囁いて、カインはリリカの体を自分の方へ向かい合わせた。逃げられないようにぴったりと体を寄せると、リリカもカインの首に腕を回して妖艶に笑う。


「せっかちね」

「これからって時に召喚されたんだ。わかるだろ?」

「だからって、まさかあの女に手なんて出してないでしょうね?」

「……まさか」


 熟れた林檎のように頬を染めるシェリルの顔が脳裏によぎった瞬間、カインの左頬にピリッとした痛みまでもがよみがえった。その記憶を一時封印して、リリカに唇を寄せようとしたカインの背後で――なぜかここにはいるはずのないルーヴァの声がした。


「突然お邪魔してすみません、リリカ。少しカインを借りていきますね」


 肩に触れたルーヴァの手の感触に、カインの体が反射的にびくりと震える。リリカが叫んでいたが、何を言っているのかまではもう聞こえなかった。

 目を開くとリリカの姿はどこにもなく、カインは見慣れたルーヴァの家の中に強制的に移動させられていた。


「……ルーヴァ、お前……俺をいじめて楽しいか? この堕天使め」

「そういうの、一気に吹き飛んでしまいますから」

「はぁ?」


 カインを甘いひとときから連れ出した本人は少しも悪びれた様子がない。それどころかいつもの笑みに加えて、子供のようなわくわく感が増しているような気もする。

 まるでステップでも踏むかのように部屋を仕切るカーテンの前に進むと、もったいぶった様子でカインを手招きした。白いカーテンの向こうは、ルーヴァが患者を診察するベッドが置いてあるはずだ。

 渋々ながらカインもそばへ寄ると、ルーヴァが一呼吸置いてからカーテンを静かに開けた。


 診察用のベッドに、見知らぬ女が横たわっている。その姿にカインの目は釘付けになってしまった。


 月光を集めたような白皙の肌。シーツの上に波打つ金の髪は、まるで星を溶かしたようにきらきらと輝いている。長い睫毛は伏せられたまま、淡く色付く薄桃色の唇からわずかに漏れる吐息で女が眠っていることを知った。

 さっきまで一緒にいたリリカとは違う別次元の美しさを、内面から輝かせているような、そんな女だった。


 ともすれば、女神アルディナと並んでも遜色がないほどだと思う。カインとて姿が、女神がいるならばこんな女なのだろうと思わせるほどには神々しく、息を呑むほどに美しい。

 けれどもその美貌よりもカインの目を引いたのは、女の額にくっきりと現れている三日月の刻印だった。


 光を受けて薄い紫から銀へ色を変える三日月のしるし。それは天使であるならば誰でも知っている、より身近にある高貴な紋様だ。

 女神アルディナを象徴する三日月。そのしるしを持つことを許された者。天界に遠い人間でありながら、もっとも天界に近い存在。


「神の落し子。……この目で見るのは初めてだ」

「えぇ、私もです。彼女が神の落し子であるなら、いにしえに失われた天使召喚術をいとも簡単にやってのけたことにも説明がつきそうですね」

「そうだ、な……って!? 待て、こいつシェリルか!?」

「そうですよ? 当たり前じゃないですか」


 あまりの変わりように、思わず目を剥く。記憶にあるシェリルとはずいぶん違うが、確かに髪色などは同じ……だったような気がする。正直地味すぎて、シェリルの容姿はあまりカインの記憶に残っていなかったのだ。

 ただ前髪を重く垂らし、髪を三つ編みのお下げにして、仕上げに黒縁の眼鏡を想像してみると、ベッドの女は綺麗なくらいシェリルの姿と重なった。


「私の手にかかれば誰でも美しく変身できますよ。とはいえ、今回は特に手をかけることもなかったのですが」

「どういうことだ?」

「シェリルは元から美しかったのですよ。その輝きをあえて隠していたように思います。前髪で落し子の刻印を隠し、眼鏡と三つ編みで目立たないようにしていた。実際あなただって、元のシェリルの姿はあまり記憶に残っていないのではないですか?」


 確かに、ただ地味でどこにでもいそうな女だったことくらいしか、シェリルの容姿に関して言えることはなかった。額の刻印だけでも見えていれば、それが強い目印となって記憶には残っただろうが、実際には特徴のあまりない薄い印象だった。出会った経緯が召喚術という極めて稀な現象だったため、それなりにひとりの人間として認識していただけにすぎない。


「自分の姿に、あまりいい思い出がなかったのかもしれませんね。下手したらあなたが目を付けて手を出していたかもしれませんし?」

「人を色魔みたいに言うな」

「おや? 違うんですか?」

「俺は寄ってくる女しか相手にしない。本気になるのも、なられるも面倒なだけだ」

「恐ろしいくらい天使が似合いませんね、あなたは」

「そりゃどうも。……んで、なんでコイツは寝てるんだ?」

「抵抗されると面倒なので」

「お前の方がよっぽど怖いだろ」


 ふっと鼻で笑って、カインはシェリルを起こさないように静かにカーテンを閉めた。後ろではいつの間に準備していたのか、テーブルの上にティーカップが用意されている。


「家にお酒は置いていませんので紅茶で我慢してください」

「あぁ、悪い」


 まるで我が家のようにくつろぐカインの前に、ルーヴァが慣れた手つきで紅茶を注ぐ。その間もカインはぼんやりとカーテンの方、その向こうに眠るシェリルのことを無意識に考えていた。


「そんなに気になるんですか?」

「気になるっていうか……神の落し子が女神に会いたいなんて言うから、一体何考えてんだろうなって」


 カインの言葉に、ルーヴァの右目が見開かれた。どうやら静かに驚いているらしい。声を荒げることはなかったが、震えた指先でティーカップがカチャンと擦れ合った。


「女神に? シェリルの願いは女神に会うことなんですか?」

「らしいぜ? とんでもない願いだろ?」

「カイン。あなたも知っているでしょう? 女神は……」

「落し子のシェリルが相手なら、どうにかなるんじゃないのか?」


 暢気に紅茶を飲むカインからは、焦りや戸惑いは一切感じられない。成り行きまかせでどうにでもなると、本気でそう思っていることがルーヴァには嫌と言うほど伝わってくる。

 カインとは長い付き合いだ。彼の力をもってすれば、大抵のことはいいように転がってきた過去もある。けれど今回はそうもいかないと、ルーヴァは気楽に構えるカインに呆れたように溜息をこぼした。


「そんなに簡単なものじゃないと思いますよ。とりあえずシェリルが目覚めたら、月の宮殿へ行ってみて下さい」

「何だよ? やけに意味ありげだな」

「私も確信があるわけではないで、滅多なことは口にできませんが……」


 そうルーヴァが言葉を濁した後に続く形で、カーテンの向こうからシェリルの恐怖に満ちた鋭い悲鳴が響き渡った。



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