第5話 医者ルーヴァ

「ルーヴァ。ちょうど良かった。今からお前のところに行こうとしてたんだ」


 ルーヴァと呼ばれた男性は顔の左半分を洒落た眼帯で覆い隠し、片手には数冊の医学書らしきものを持っていた。真っ直ぐな青みがかった髪は肩より少し下で綺麗に切り揃えられ、先ほどの口調と変わらず落ち着いたやわらかい雰囲気を醸し出している。


「何の用ですか?」

「あぁ。こいつを、少し預けたい」


 こいつ、と簡単に紹介され、ルーヴァの青い右目がシェリルを向く。目が合った瞬間ふわりと微笑まれたので、シェリルは軽く会釈するついでに滲み出ていた涙を素早く拭った。


「ちょっと野暮用ができちまってな。ついでだからシェリルはお前の好きにしていいぞ。お前が相手なら、これ以上変にはならないだろ」

「ちょっと、それって……」


 穏やかそうな外見のルーヴァは無害にも見えるが、さすがに「好きにしていい」と言われて「はいそうですか」と頷くほどシェリルも馬鹿ではない。さっきの泣き顔などもう忘れたかのように、シェリルは翡翠色の瞳をむっと釣り上げてカインに詰め寄った。


「心配すんな。別に取って食われやしねぇよ」

「あなたが言っても信用できないのよ」

「こいつに女を襲う気概はねぇよ。万が一何かあっても、俺を呼べばすぐ飛んできてやるから安心しろ」

「そうは言っても……」


 いつの間にか顔には不安の色が浮かんでいたのだろう。気付けばカインの服の裾を掴んでもいる。その手をやんわりと外されただけで急に心細くなってしまい、シェリルはつい縋るようにカインを見上げてしまった。その翡翠色の瞳に映るカインは、なぜかおもしろそうに口角を緩く上げて笑っていた。


「何? お前、捨てられた猫のような顔してるぞ。俺がいないとそんなに不安か?」

「そっ、そんなんじゃないわ! 別に一人でも平気よっ。さっさと用事でも何でも済ませにいけばいいわ」

「はいはい。んじゃ、ちょっと行ってくる。一時間くらいで戻るから、後は頼んだぞ。ルーヴァ」


 そう言うとカインはルーヴァの返事も待たずに人混みの中へ歩いて行ってしまった。向かう方角は、あの妖艶な女性が去っていた方と同じだ。それに気付いた途端、胸の奥が針で刺されたような痛みがして、シェリルは息を止めてしまった。


「相変わらず自己中心的な人で困りますね。えぇと、シェリルとお呼びしても?」

「あっ、はい。その……よろしくお願い、します」

「そう萎縮しないで下さい。それに、さっきカインと話していたようにしてくれて構いませんよ。そう畏まられる立場でもありませんので」

「でも……」

「私が、そうしてほしいのです。だめでしょうか?」


 口調も言葉も声も、何もかもが優しいひとだ。ルーヴァの雰囲気にシェリルの不安も警戒も薄れていくのがわかる。


「……わかっ……た、わ。ルーヴァ」

「ありがとうございます。距離が縮まったようでうれしいですね」


 そういうルーヴァの口調は変わらないが、雰囲気のやわらかい丁寧語は正直に言えば安心する。もしかしたらルーヴァの気遣いなのかもしれないが、シェリルは彼が作ってくれた穏やかな空気感をありがたく享受することにした。


「では、行きましょうか。前もって言っておきますが、あなたを襲うことはありませんので、どうぞご安心を。そんなことをするのはカインくらいですからね」


 冗談も言えるのかと、少し笑ったことでシェリルの緊張も解れていく。隣を歩くルーヴァを改めて見てみると、彼もカインとはまた違った美貌の持ち主であることがわかった。顔の左半分は眼帯で覆われてはいるものの、その美しさは隠すことができていないようだ。

 肩の少し下くらいで綺麗に切り揃えられた青い髪は、さらさらと音が聞こえてきそうなほど癖がない。眼帯は小さな宝石と刺繍で縁取られており、彼がとても身なりに気を遣っていることがわかる。

 お洒落が好きなのだろうか。そう思って眺めていると、シェリルの視線に気付いたのかルーヴァの右目がこちらを向いた。


「それにしても人間のあなたが天界を訪れるとは、めずらしいこともあるものですね。まさかとは思いますが、カインにむりやり連れて来られたとか……そういう話ではないですか? もしそうなら私が下界へ送り届けてあげられますが」

「えぇと……むりやり、っていうのは……まぁ、むりやりだったけど。でもルーヴァが想像しているような話じゃないと思う」


 おそらくは友人――なのだと思うが、カインの女癖の悪さはルーヴァでさえ辟易しているらしい。あの言い方では、もしかして人間の女性にまで手を出したことがあるのだろうか。それはそれで何だかものすごく嫌な気分だ。


「私、カインを召喚したみたいで……。カインの羽根を取り込んじゃって契約が成立したから、こうして願いを叶えてもらうために天界へ連れてきてもらったの」

「召喚……? えっ? 召喚って……それはつまり、天使召喚術を行ったのですか!? あなたが?」


 それまでのやわらかい雰囲気から一転し、多少声を荒げて食い入るように見つめてきたルーヴァに、シェリルはびくりと肩を竦めて立ち止まってしまった。


「私……何か、いけないことでも……?」

「あぁ、すみません。驚かせてしまいましたか。いえ、驚いているのは私もそうですが……」

「……カインが召喚術を行える人間はもういないって言ってたから、ルーヴァが驚くのもわかるわ。私だって、未だに信じられないもの」

「確かにそれもそうですが……そもそもカインのように能力の高い天使が召喚されることの自体がめずらしいのですよ」

「能力が高い? カインが?」

「えぇ。カインは話していませんか? 彼は天界を守る天界戦士の一人で、一部隊を率いる隊長でもあります。天使召喚術によって召喚される天使の能力が高ければ高いほど、それを召喚する者の魔力も当然高ければなりません。しかし今の下界にそれほど高い魔力を有する人間はいないように感じていましたので……少々驚きました」


 顔がいいだけの女好き天使が、まさか一部隊をまとめる部隊長だったとは寝耳に水だ。そもそも戦うことを主とした組織があるのも驚きである。

 確かに魔物の脅威は下界にも少なくはないが、討伐などはハンターや国の騎士などが率先して行ってくれている。ならば天界戦士は、一体何と戦うことを目的としているのだろうか。こんなに美しく争いとは無縁に思える天界に、必要な組織だとは思えない。


「天界にも、魔物がいるの?」


 率直な疑問を口にすると、意外にもルーヴァの顔にわずかな影が差した。


「そう、ですね。天界はあなたが思うよりも、光だけではないのですよ」


 ルーヴァの声音がそれ以上語ることを拒んだような気がして、シェリルも口を噤んでしまう。けれど束の間の沈黙さえ居心地が悪く感じてしまい、結局数秒も経たないうちに別の話題を振ることになってしまった。


「そ、それにしてもカインが天界戦士で部隊長だなんて信じられないわね」

「そうでもありませんよ。彼の能力は天界でもトップクラスと言ってもいいくらいです。一部隊ではなく、天界戦士すべてを統べるほどの能力があるんですが……本人が面倒なことは嫌がってしまいましてね」

「ルーヴァはカインのこと、すごく買っているのね」

「私も天界戦士の一員でしたから。今は左目を失い、戦士は引退していますがね」


 そう言って眼帯を軽く指差して笑う。どうやらさっきのピリッとした空気はうまく中和できたようだ。ルーヴァの纏う雰囲気に、心地良いやわらかさが戻っていた。



 しばらく他愛もない会話をしながら歩いていると、シェリルは神殿の建つ崖の麓に建てられた小さな一軒家の前に辿り着いた。かわいらしい鉄の門を開けた先の庭にはたくさんの植物が植えられており、一歩中に入ると甘い花の香りや鼻腔をツンと刺激する薬草の香りが入り混じって流れてくる。

 少し騒がしい香りに招かれて、シェリルはルーヴァの開けてくれた木の扉をくぐり抜けた。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 ルーヴァに促されて中に入ったシェリルは、部屋の棚ぎっしりに置かれている小瓶の山に目を見張った。瓶にはそれぞれラベルが張ってあるものの、いわゆる「天使語」なのか、古代語を読めるシェリルでさえ解読できない不思議な文字だった。大きなテーブルの上にはいろいろな実験器具がきちんと整理されて置かれており、その横には本と書類が山のように積み上げられている。


「すごい。ルーヴァは医者なの?」

「ええ、まあ一応。最近は美容の方に興味が傾いていますけれど」

「だからいろいろお洒落なのね」


 宝石をあしらった眼帯も派手ではなく、むしろルーヴァの品を引き立てている。リリカの性を大胆に表現したお洒落も艶やかで目を引くが、ルーヴァの醸し出す美は控えめながら凜と咲き誇る白百合のようだ。

 男性のルーヴァに居心地がいいと思ってしまうのは、こういう雰囲気のせいもあるのだろう。


「もしかして天使がみんな美しいのはルーヴァのおかげだったりするのかしらね」

「さぁ、どうでしょう。けれど女性が美しく変身していく様は一種の芸術だと思っていますよ」


 背後でパタン、と扉の閉まる音がする。


「あなたはどんな風に輝くのでしょうね、シェリル」


 その言葉にハッと振り返るより早く、シェリルの意識がそこでぷっつりと途切れた。



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