第4話 女天使リリカ

 きらきらと弾けた光の向こうに、緑に包まれた白い石畳の街並みが見えた。下界より日が昇るのが早いのか、眼下に見える街並みにはちらほらと人の姿が見える。背中に翼はないが、カインも翼を自由に出し入れしていたので、きっと彼らも紛うことなき天使なのだろう。そう思うとシェリルの心は高揚した。


 シェリルが立っている場所は長い階段の上に作られた、おそらくは風の回廊と繋がる下界への転送装置の役割を担う場所なのだろう。足元には薄緑色の魔法陣が刻まれていて、周囲に立つ四本の白い柱には瑞々しい緑の蔓草が絡みついている。よく見れば、その魔法陣は昨夜祈りの間に現れたものと同じだ。


 天使たちが行き交う街並みの向こうにはどこまでも大地が広がっていて、ここが天空であることを忘れてしまうほどだ。街の中央には大きな噴水があり、その向こう側――ちょうどシェリルが立っている階段の正面に、街を見下ろすように小高い崖が切り立っている。その頂上には、朝日を受けて白く輝く、荘厳な宮殿が建っていた。女神アルディナの居住であることが一目でわかる。


「ここが天界レフォルシアだ。お前たちの住む下界イルージュとたいして変わらないだろ?」

「そうね。……でも、女神のやさしい力をそこらじゅうに感じるわ」


 流れる風に、揺れる草花に、弾ける水飛沫に。その一つ一つの小さな命に、アルディナの慈愛を感じるようだ。見た目は下界と変わらずとも、ここは確かに天界だ。どこを見ても、神聖なアルディナの息吹を肌に感じ取ることができる。


「シェリル!」


 名を呼ばれて、ハッとする。気付けばカインは既に階段を降り始めていて、未だ天界に見惚れていたシェリルを呆れたように見上げていた。


「置いてくぞ」

「ご、ごめん」


 慌てて駆け下りたシェリルだったが、思いのほか急な階段に体がよろめいてしまった。そもそも彼ら天使が階段を使うことを想定して造られていないのだろう。階段には手すりすら付けられていないのだ。

 ここまで傾斜が激しいとは想像しておらず、案の定シェリルは数段を駆け下りたところで足を踏み外してしまった。


「きゃっ!」


 体が大きく前に投げ出され、視界ががくんと降下する。落ちる、と思った次の瞬間、シェリルは力強い腕に体を支えられていた。代わりにシェリルの眼鏡だけが、乾いた音を立てて数段下に転がり落ちていく。


「天界について早々はしゃいでるのはわかるが、もう少し落ち着け」

「ご……ごめん……」


 カインの腕をずるずるとすり抜けて、シェリルは階段の上に座り込んでしまった。驚きと恐怖で腰が抜けたといってもいい。カインが抱きとめてくれなければ、残り数十段はある階段を真っ逆さまに転がり落ちてしまうところだった。


「大丈夫か?」

「ありがとう……」


 深呼吸して心臓を落ち着かせていると、カインが心配そうに覗き込んできた。その手にはシェリルが落とした黒縁の眼鏡が握られている。


「ほら、眼鏡。……って、お前これ度数入ってないのか?」

「あ、いいの! 貸して」


 慌てて眼鏡をかけ直したシェリルだったが、カインは一瞬眉を寄せただけで深く追求してくることはなかった。



 長い階段を降り終えて、シェリルはようやく一息つくことができた。あれからカインはずっとシェリルの手を引いて、ゆっくりと時間をかけて降りてくれたのだ。街の中を歩き始めてその手は離されてしまったが、歩幅は離れすぎないようにシェリルにあわせてくれている。そう感じると、シェリルは心の中が少し温かい気持ちになった。

 風の回廊で風の抵抗から守ってくれたことも、手を引いて階段を一緒に降りてくれたことも、歩幅を合わせてくれる今も。

 口が悪く性格も最悪だと思っていた天使は、何だかんだ言ってシェリルのことを思って行動してくれている。


(……女好きの不良天使……じゃないのかもしれないわ)


 警戒心が少し薄れたのを自覚して、シェリルは少し早足でカインの隣に並んでみた。そんなシェリルに気付いたのか、カインのセレストブルーが不思議そうに向けられて。


「カイン。あの……、ありが」

「カイン!」


 お礼を言おうとしたシェリルの声をかき消したのは、強く響く女の声だった。見れば人混みを掻き分けて、見事なブロンドをした緋色の目の女性が足早に近付いてくる。声の調子から感じていたが、何やらひどく怒っているようだ。


「昨夜はどこに行ってたのよ! 私を置いていなくなるなんて……まさか他の女のところじゃないでしょうね?」


 怒ると更に妖艶さを増す美しい女性だった。少しきつい目つきは、女性が気の強い性格だということを示しているようにも思える。それに目を奪うほど鮮やかな赤い口紅をつけたこの女性は、きっとカインにをつけた張本人なのだろう。


「まぁ、女つったら女のとこだけど……そんなの慣れてるだろ? リリカ」

「ちょっと! 誤解を招くような言い方しないでよっ」


 何となく居づらい雰囲気に後ずさっていたが、そんな気持ちをまるで無視した発言に、シェリルは思わず二人の間に割って入ってしまった。その時になってやっとシェリルの存在を認識したのか、リリカと呼ばれた女性の目が値踏みするように向けられる。


「……誰、この女」


 くっきり波立たせたブロンドと赤い口紅に抜群のプロポーションを持つリリカと並ぶと、シェリルの貧相さは余計際立ってしまう。おまけに寝起きの格好で、風でボサボサに乱れた三つ編みと重く垂らした前髪、極めつけに黒縁の眼鏡である。

 シェリルだって、今リリカが何を考えているのかくらいわかる。きっとカインの隣に並ぶには到底似合わない、地味で冴えない女だと思っているのだろう。それは間違いではないし、そう見られるようにシェリル自身がやってきたのだから何も問題はない。けれどもこうもあからさまに侮蔑じみた視線を向けられると居たたまれない気持ちになってしまうのはなぜだろう。


「わけは後で話す。こいつをルーヴァのところに置いたらお前の家に行くから、それまでおとなしく待ってろ」

「……わかったわ。なるべく早く来て」


 最後の方はなぜかシェリルを見て頷いたリリカは、それまでの怒りを忘れたかのようにおとなしく人混みへと消えてしまった。


「面倒くせぇな、女ってのは」


 ぽつりと呟くカインは、心底疲れたように溜息をついている。


「面倒くさいって……今の人、カインの恋人なんでしょう? だったらちゃんと話し合って、私のことちゃんと誤解だって伝えてよ」

「別にリリカとは恋人でも何でもねぇよ。嫌いじゃないから一緒にいる。会いたいときに会える、お互いに都合のいい関係だ。それはアイツもわかってる」

「あっ、遊びなの!?」

「何だよ? お子様にはまだ早かったか?」

「そっ、そうじゃなくて……!」


 恋人ではない女性と、夜を共にする。お互いに割り切った関係が存在するのも否定はしないが、さっきのリリカの様子はどう見てもカインに恋愛感情を持っているように感じた。それともシェリルにはわからない駆け引きのようなものが、カインとリリカの間に存在するのだろうか。でも。


「……そんなの、恋じゃないわ」

「別に俺は恋愛したくてリリカといるわけじゃない」

「でも、そういう関係は……少し悲しすぎるわ。人との関わりって、もっと深いところで繋がって幸せを感じられるものだと思うから」

「……」

「だからカインも、もう少し……」

「俺たちのことはお前に関係ないだろ!」


 人目も憚らず怒鳴られて、体が反射的に萎縮してしまう。けれどシェリルの方も止まらなかった。


「失ってからじゃ遅いのよ!?」


 脳裏に今でも鮮やかによみがえる両親の笑顔。触れられそうなほどにはっきりと記憶に残るのに、彼らのぬくもりはひとかけらさえシェリルには伝わらない。

 家族の愛と男女の恋愛は違うのかもしれない。それこそ人の恋愛観に口を出す権利もない。だからつい言葉にしてしまった後で、シェリルはどうしていいかわからずにカインから思いっきり顔を背けてしまった。


「……ごめん。私が言うことじゃなかったわ」

「それは別にいいが……お前、何かあったのか?」

「何でもないわ。気にしないで」


 シェリルの意思に反して、なぜか目頭が熱くなってしまう。泣いている顔を見られたくないのに、泣いていることを悟ったカインがシェリルの腕を掴んで離さない。


「おい、シェリル!」

「何でもないってば!」


 今度はシェリルの方が声を荒げてカインから逃げようとする。逃げたところで行く当てなどないのだが、今はこんな顔をカインに見られたくなかった。けれどカインの力に敵うはずもなく、掴まれた腕ごと再び引き寄せられたところで――今度はやわらかく響く男の声が二人の間に割って入った。


「嫌がっている女性を引き止めるほど、女には困っていないでしょう? カイン」


 振り向くとそこには、青い髪した男性が品の良い笑みを浮かべてシェリルたちを見つめていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る