第3話 天界レフォルシアへ

 カーテンの隙間から、早朝の白い朝日が忍び込んでいる。起きなければと思う一方で、記憶には残らない夢の残骸を追ってシェリルは再び瞼を閉じた。

 そういえば、昨夜は悪夢を見なかった。あたたかい何かに包まれて、とても穏やかな気持ちで眠れたような気がする。そんなことをぼんやりと思いながら寝返りを打ったシェリルの額に、こつんと固い何かがぶつかった。


(……?)


 何だろうかと手探りで伸ばした指先が、壁に当たる。


(ベッド……こんなに、狭かったかしら……?)


 いつもなら寝返りを打っても壁にぶつかることはないのだが、今朝はなぜかベッドがとても窮屈に感じる。けれどその狭さも何だか心地良くて更に体を寄せると、


「寝顔は意外とかわいいんだな」

「……っ!?」


 間近で聞こえた声に、シェリルの意識が一気に覚醒する。眠気の吹き飛んだ視界に滑り込む紫銀の髪を見た瞬間、シェリルはそれまで微睡んでいたとは思えないほど俊敏に体を大きく仰け反らせた。けれどしっかり目覚めた意識とは反対に体はまだ機能しておらず、シェリルはベッドから転がり落ちそうになってしまった。


「……きゃっ」

「朝から元気良すぎだろ」


 もがいた手を引かれ、シェリルは再び壁――ではなく男のはだけた胸元に頬を寄せる形となってしまう。視界に飛び込んでくる美貌となまめかしい肌の感触は、寝起きの頭には刺激が強すぎる。全身にカッと熱がこもり、シェリルは男の胸に手を押し付けて、精一杯体を引き剥がした。


「なっ……なん、何で!? どうして私……っ、ここにいるの!? あなた、ベッドは!?」

「まぁ、少し落ち着けよ」

「こんな状況で落ち着けるわけないでしょ! もう少し離れて!」

「さっきはお前からすり寄ってきたくせに、よく言うよ」

「そんなの知らないっ!」


 ジタバタともがきつつ何とかベッドから抜け出ると、シェリルはいつでも逃げ出せるよう扉の前に後ずさった。そんなシェリルの不安など微塵も気にしていないのか、男はベッドに寝転んだまま大きく腕を上げて体を伸ばしている。そしてゆっくりと立ち上がると、シェリルとは反対側へ向かい、部屋の窓を開け放った。


 朝の涼しい空気が、部屋の中にこもった熱を冷やしていく。窓辺に腰掛けて朝日の昇る様子を眺めている男の姿に、シェリルはまた不本意ながらも見惚れてしまった。

 そんな自分を戒めるように強く頭を振って、シェリルは机の上に置いていた黒縁の眼鏡を手に取った。いつものように眼鏡をかけると自分の前に見えない壁ができたようで少しホッとする。乱れた髪も手ぐしで素早く整えて、前髪は額のしるしが見えないようにしっかりとおろす。本音を言えば髪も三つ編みにしたかったが、そうしているうちに男がこちらを振り返ったので髪は下ろしたままになった。


「乱れ髪は色気が出て好きなんだが……何かこう、いまいちだな」

「あなたには関係ないでしょ」

「眼鏡もダセぇ」

「ダサくて結構! って言うか本当に天使らしくないわね、あなたって」

「カインだ」

「え?」

「俺の名前。お前は?」

「……シェリル」


 名乗られたからには、自分も名乗らないと失礼に当たるだろう。本当は名乗るのも躊躇ったのだが、一応は……たぶん天使であるから、名乗っても害はないはずだ。


「そうか、シェリル」


 改めて名を呼ばれると、色んな意味でシェリルの胸がどきりと鳴る。


「それで? 結局、俺を喚び出した理由をちゃんと聞いていないんだが?」

「喚び出したつもりはないんだけど……」

「この際、召喚術は偶然だったことにしよう。それでもだ。俺はお前の願いを叶えないと天界に戻れない」

「え? 翼があるんだから飛んで帰ればいいじゃない」

「そうできたらとっくに帰ってる。お前、昨日俺の羽根を取り込んだろ。アレはいわば契約の証だ。天使召喚術は召喚者と天使との契約の儀式でもある。喚び出された天使は、召喚者の願いを叶えるまでは離れられないんだよ」


 昨夜カインを包む光だけが空に消えていったことを思い出して、シェリルはようやく彼があれほどまでに落胆した意味を理解した。


 シェリルの願い。それはずっと前から決まっている。

 両親を殺した邪悪な者の正体を暴き、今後シェリルを狙わないよう完全に滅してもらいたい。幼い頃の惨劇、あれはもはや人間の所業などではない。あんなむごいことができるのは、闇に属する者の仕業だ。ならばそれに対抗できるのは、天界の……女神アルディナの力しかないと思った。


 カインと名乗る男は口も悪ければ、おそらく女性関係も派手でだらしがないことが容易に見て取れる。自分の容姿が相手にどう見られているかをよく心得ている、タチの悪い男だ。

 そんな不良めいた男でも、カインが天使であることに間違いはないのだろう。偶然とはいえ、せっかく召喚できた天使をみすみす手放すほどシェリルも馬鹿ではない。この機会を逃せば、次はもうないのだと考えなくてもわかる。


「……私を……」


 覚悟を決めて、シェリルはカインをまっすぐに見つめた。


「私を女神に会わせて。それが私の願いよ」

「……はあっ?」


 シェリルの願いはカインでも想像していなかったものなのだろう。ポカンとした顔はひどく人間らしくておかしいし、今まで優位に立っていたカインに何なら一矢報いた気分だ。

 すぐに答えが出ないということは、やはり人間が女神に直接会うのは今までに例がないのだろう。会えなければせめて意見くらいは聞いてほしいと考えながら、シェリルはカインが考え込んでいる間に髪の毛を三つ編みに結んだ。


「召喚術を行える人間はアルディナに仕える清らかな心の持ち主――神官だけだ。そういう奴らの願いってのは大抵どこそこの魔物討伐とか、穢れた地に蔓延る瘴気の浄化とか、世界の安寧に関係するものが多いって聞いてたんだが……。お前のそれは例外中の例外だぞ。まさか女神本人に謁見を希望する人間がいるとはな」

「私欲満載で悪かったわね。私だって結構必死なの! それで、できるの? できないの?」

「我の強い女は嫌いじゃないが……。まぁ、天界に連れていくことはできる」

「本当!?」

「あぁ。でも……」


 意味ありげに言葉を切って、カインがじっとシェリルを見つめた。探るようなセレストブルーの瞳があまりに真剣に向けられるので、シェリルは居心地が悪くてソワソワしてしまう。

 やはりただの人間が女神謁見を望むなど、大それた願いなのだろうか。額の、落し子のしるしを見せれば問題なく女神の前に通されるかもしれない。けれどこの三日月の刻印を、シェリルはまだ人前に晒す勇気はなかった。


「……考えても同じだな。どっちにしろ、俺はそれまでお前と離れられないんだし」

「嫌なら構わないわ。私だってあなたみたいな不良天使と一緒にいるなんて……」


 シェリルの願いを叶えるまで離れられないというのなら、新しい天使でも紹介してもらおう。そう思ってシェリルはカインにくるりと背を向けた。

 そろそろ朝の仕事の時間だ。礼拝堂の掃除にはクリスティーナも来るだろうから、彼女にこのことを相談してみるのもいいかもしれない。


「とりあえず着替えたいから出ていって。願いは別のを考え……きゃっ!」


 突然腕を引かれ、シェリルはカインの腕の中にしっかりと抱きしめられてしまった。


「な、なにっ」

「契約は成立した。とりあえず天界へ行くぞ」


 頭上でそう声が聞こえたかと思うと、シェリルを抱えたカインが窓枠に足をかけるのが見えた。


「えっ!? 待って、ここ二階……っ!」

「ばーか。俺は天使だぞ」

「やだ、降ろして! 誰が今からなんて言ったのよっ」

「暴れるとうっかりお前を落とすかもしれないぞ? 落ちないように、俺にしっかり掴まってろ。何なら甘えて縋ってもいいぞ」

「誰があなたなんかにっ」

「あっそ。んじゃ、行くぞ」

「いや、待って! 心の準備が……っ。きゃぁぁっ!」


 まだ喋ってる途中なのに、カインはシェリルを腕に抱いたまま窓の外へ勢いよく飛び降りてしまった。

 朝のひんやりとした空気が、シェリルの肌を乱暴に撫でていく。耳のそばで風を切る音がして、重力に従っていた体が突然くんっと真上に引き上げられた感覚がした。

 バサリと羽ばたく音に恐る恐る目を開けば、足元の、もうずっと下の方にアルディナ神殿がミニチュアのドールハウスのように見えた。ぐんぐんと上昇する視界に、もはや抵抗するより落ちないようにしがみ付いていた方が妥当である。


「強引なんだからっ!」

「ああ、よく言われる」

「エレナ様に報告もしたかったし、それにわたし着替えてもいないのに!」

「たいして変わらないだろ」


 シェリルが着ているのは寝衣のワンピースだ。こんな格好でどこに――シェリルの願いを叶えるならば天界なのだろうが、せめて神官服くらいには着替えさせてほしかった。寝起きのまま、いや、羽ばたく翼の風圧で三つ編みに結んだ髪もきっともうボサボサになっているだろうから、きっと寝起きよりもひどい状態だろう。

 できるだけ目立たないよう過ごしてきたので今更綺麗に見られたいとは思わないが、それでも地味と無頓着とは違う。女神に会う前に身なりは綺麗にしておきたいと、そう思っていると、ふいに体にかかる風の抵抗が消えた。


「これで少しはマシだろ」


 見ればカインが両の翼を前に回して、シェリルの体を抱きしめるように包み込んでいた。完全に風が遮断されたわけではないが、髪が巻き上げられることはなくなっている。けれどもカインの方は変わらず風の抵抗を受けていて、どうやら翼でシェリルを守ってくれているようだった。


「カイン、あなた……。羽を使わなくていいの?」

「もう風の回廊に入ったからな。風の抵抗はあるが、飛ばなくてもこのまま天界へ着く」


 風の回廊。

 聞き覚えのある言葉に、シェリルは記憶の糸を手繰り寄せる。今まで数々の書物を読み、天界の知識をある程度得ていたシェリルは、それが天界と下界を繋ぐ道であったことを思い出した。

 天界レフォルシア。女神アルディナの住まう場所。長い間望んでいながら心のどこかでは諦めもしていた願いが、ようやく叶おうとしている。その現実を前に、シェリルは逸る気持ちを抑えることができず、まだ見えない天界を見ようと身を乗り出して空を仰ぎ見た。


「着くぜ。天界レフォルシアだ」


 カインの声がしたかと思うと、シェリルの視界に白くやわらかな光が弾けた。



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