第2話 不良天使
「だ、誰っ!?」
突然現れた男がシェリルの声に反応して身じろぎをした。突っ伏していた上半身を起こし、周囲の様子を確認している。その視線が自分の方を向きそうになったので、シェリルは慌ててアルディナ像の方へ後退した。
しかしそれは出入り口から離れることを意味しており、おまけに男はその唯一の扉の前に座り込んでしまったので、シェリルは祈りの間に閉じ込められる形となってしまった。
何か武器になりそうなものを探してみるが、祈りの間にあるのはアルディナの石像とシェリルが持ってきたランプくらいだ。最悪ランプを投げつけることも考えていると、男の目がついにアルディナ像の後ろに隠れていたシェリルを見つけた。
「おい、コラ。なに隠れてんだ」
「きゃっ!」
手を掴まれ、少し強めに引っ張られる。たたらを踏んでよろめいたシェリルが座り込んでしまっても、男は少しも意に介さず不機嫌に眉を寄せたままだ。冷たく自分を見下ろすセレストブルーの瞳が、まるで氷のように見えて恐ろしい。
「何の用だ?」
それはこちらが聞きたいくらいだ。答えを持っていないシェリルが黙り込んでいると、男は苛立つ様子を隠しもせずにわざとらしく大きな音を立てて舌打ちする。
「だから何の用だって聞いてんだよ。人が楽しんでる最中に喚び出すとは、そりゃぁ、大層な願いごとがあるんだろうな?」
「喚び出した……って、何のこと?」
「はぁ? お前、知らずにやったって言うのかよ。それはそれで悪趣味だぞ。んな夜中に召喚するなんて、人の邪魔するなよ」
「だから……っ、喚んだとか邪魔したとか、そんなの知らないわ。あなたの方が勝手にここに現れたんじゃない。手を離して!」
掴まれた手を振りほどこうとしても男の力は強く、シェリル如きではどうにもできない。そうしているうちに腕を引っ張られ、シェリルは床から強引に立たせられてしまった。
「言いがかりはよせ。お前が喚んだんだろ!」
「だから喚んでないってば!」
「ったく、用がないなら帰らせてもらうぜ」
そう言った男の体が、淡い光に包まれる。やわらかい綿毛に似た光の粒子が舞い上がり、さっきと同じように光だけが天窓を通り抜けて夜空の向こうへ消えていった。
「か……帰れねぇっ! まさかお前、俺の羽根を取り込んだんじゃ……」
「羽根? ……あっ!」
そういえば一枚の羽根が額に落ちて消えたことを思い出す。シェリルの様子に答えを悟り、男が目に見えてがっくりと肩を落としてしまった。何なら深い溜息付きだ。
「くそっ。俺としたことが油断した」
「ね、ねぇ……。さっきから羽根とか喚んだとか、何のことを言ってるの? それにあなた、一体……何者なの?」
「お前こそ何者なんだよ。地上にはもう、召喚術を行える人間なんていなかったはずだぞ」
「そんなこと言われたって……え? 召喚? それって……」
召喚と聞いて真っ先に思い浮かぶのは天使召喚術だ。シェリルがずっと求めてきたいにしえの魔法。さっきだって書庫でその魔法の手がかりを探していたのだから、天使召喚術がすぐに結びついてしまうのは仕方がない。
けれどその魔法は既に失われたものだ。シェリルだって召喚術を行った自覚はないが、涙を流したアルディナ像と部屋に巻き起こった風は不可思議すぎて説明が付かないこともわかる。
「……天、使……?」
さっきの魔法陣が天使を召喚するためのものならば、いま目の前にいる不機嫌な男は天使ということになる。
確かに改めてよく見れば、同じ人間とは思えないほどに顔が整いすぎている。セレストブルーの瞳は天界の清らかさを連想させる輝きで、ひとつに結んだ長い髪は紫銀のめずらしい色をしていた。背中に天使の羽はないが、人間離れした美貌だけでも、男が普通の人間ではないことを肌で感じ取ることができる。
できるが――なぜ、上半身裸といってもいいくらいシャツが乱れに乱れているのだろう。おまけに首筋にはなまめかしい真紅のキスマークが淫らにいくつも咲いている。
「あ、あなた……本当に天使なのっ!?」
「羽ならあるぜ?」
にやりと笑う男の背中から、突然真っ白な二枚の翼が現れた。一度だけ大きく羽ばたいた翼が緩やかな風を起こし、ふわりと舞う光の粉と共にシェリルの肌をやさしく撫でていく。
今夜だけで、もういくつの奇跡を目にしただろう。純白の翼を広げた男の姿は息を呑むほどに美しく、シェリルは惚けたように魅入ってしまった。
だから再び腕を掴まれたと気付いたのは、男に抱きしめられた後だった。
「きゃっ!」
シャツのはだけた胸元に直に頬が触れる。少し熱っぽい男の肌の感触に動揺して顔を上げれば、美貌の男が薄いくちびるを引いて勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「なにするの!」
「言っただろ? お楽しみの最中に喚び出されたって。その代償は払ってもらおうと思ってな」
男の首筋に付けられた赤いキスマークを目にした途端、シェリルの頬にカッと熱がこもった。
「俺としてはもう少し色気のある方が好みなんだが……」
三つ編みを弄んでいた指先が頬に触れ、そのままシェリルの顎を上向かせる。見開いたシェリルの視界いっぱいに、直視するのも躊躇われるほどの美貌が迫ってきて、互いのくちびるよりも先に前髪がわずかに擦れ合った。
「……っ、離して!」
必死に身を捩り、何とか自由になった右手を動揺のまま振り上げる。
綺麗な顔を傷つけるとか、聖なる存在であるとか、そんなことは頭の隅に追いやるどころか、むしろ頭の中から吹き飛んでいた。シェリルは振り上げた手で男の頬を力いっぱい平手打ちしてしまった。
「痛っ……」
男が短く呻いた拍子に、シェリルを拘束する腕の力が弱まった。その隙に男を押しのけて逃れたシェリルが、祈りの間の扉を破る勢いで開け放つ。
「あなたが天使だなんて認めないわ! 天界でもどこでもいいから、さっさとここから出ていって!」
男を振り返りもせずそう叫ぶと、シェリルは階段を転がり落ちるように駆け下りていった。
自室に戻って内側からしっかりと鍵をかける。祈りの間はシェリルたち神官の宿舎がある星の棟の屋根裏にあるので、男が来ようと思えば来られる距離だ。自室を特定されないようにしばらく物音も立てずに様子を窺ってみたが、どうやら扉の向こうに人の気配はしないようだ。それでも灯りをつける気にはなれず、シェリルは静かにベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
深呼吸で気持ちを落ち着けていると、瞼の裏にさっきの男の姿が浮かび上がる。さらりと揺れる長い紫銀色の髪は、まるで夜空を流れる天の川のように美しかった。晴れ渡った空を思わせるセレストブルーの瞳も、背中で羽ばたく純白の翼も、――不敵に笑う顔さえ、悔しいくらいに目を引いた。
彼が正真正銘の天使であるなら、ずっと求め続けてきたシェリルの願いが叶うかもしれない。両親を殺した正体不明の闇。あれが何なのか、その正体を天界に住む女神なら知っているはずだとシェリルは思っていた。その闇を滅する方法も。
シェリルたち人間が住むこの世界はイルージュと呼ばれ、創世の女神アルディナによってはるか昔に創造された歴史がある。
下界イルージュと天界レフォルシアは今よりも近い存在として人々の中にあり、それは人間と天使の関係性でも同じことが言えた。イルージュで天使の姿を見ることはさほど珍しいものではなく、人間を手助けするために天使たちはその神秘の力を惜しげもなく振るっていたと言う。その最たる例が「天使召喚術」だ。
天界に住む天使たちを呼び出す儀式として用いられた術は、女神アルディナを信仰する神官たちによって行われていたが、長い年月を重ねると共にその術もゆっくりと途絶え、そして失われていったのだ。
シェリルが求めていた天使召喚術。喚び出した天使に天界へ連れていってもらい、女神に会わせてもらえないかとずっとそう思ってきた。
エレナでさえ渋い顔をするのだから、シェリルだって心のどこかでは召喚術が叶わない願いだと諦めていた節もある。けれど、さっき現れたあの男。背中に翼を持つ男の存在が、諦めかけていたシェリルの願いに再び火を付けた。
(……でも)
抱きしめられ、強引にくちびるを重ねようとしてきた不遜な男が清らかな天使であるはずがない。というか、天使であってほしくない。
シェリルの想像する天使像をことごとくぶち壊した男の顔を思い出して、今更ながらに胸が鳴る。その甘いときめきに自分でもびっくりして、シェリルは強く頭を横に振った。
(あんなのが天使だなんて……私は認めないわっ!)
そう言い聞かせるも、眠りに落ちるまで男の顔は何度でもシェリルの脳裏にちらついた。
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