飛べない天使【改稿版】

紫月音湖*竜騎士様~コミカライズ進行中

第1章 天使召喚

第1話 失われた呪文

 生温い夜風に紛れて届く甘い花の匂いに、夏の終わりを知る。


 夕陽の色を写し取り、夜にだけ咲くのはリシャの花だ。開け放たれた窓の外。ちょうど書庫の下に植えられた樹の枝には、オレンジ色の小さな花がぽつぽつと咲き始めている。

 満開にはほど遠い。けれども花ひとつでも咲いてしまえば、その香りは遠く離れた場所にまで容易に届く。それは例えば夢の中でさえも。


「……ん」


 鼻腔をくすぐる甘い香りに、シェリルはゆっくりと目を覚ました。書庫で本を読んでいるうちに、いつの間にかうたた寝してしまったらしい。窓の外に広がる夜闇はずいぶんと深く、細い三日月はまるで難破船のように頼りなく空に浮かんでいた。

 机に置いたランプのオイルが少なくなっている。そろそろ切り上げなければと立ち上がりかけた時、書庫の扉が静かに開いて、白い神官服を纏った老齢の女性が顔をのぞかせた。


「灯りがついているので来てみれば……シェリル、あなたでしたか」

「エレナ様。すみません! もう戻ります」


 机の上に山積みにされた本を見て、エレナが少しだけ困ったように苦笑する。悪いことをしているわけではないのだが、何となく顔を合わせづらくて、シェリルは本を棚へ戻すことでエレナから視線を逸らした。けれどもそのうちの一冊を手に取られ、シェリルは「あっ!」と小さく声を漏らしてしまった。


 シェリルが読んでいた本には、どれも「天使」や「天界レフォルシア」といった聖なるものを連想させる単語が記されている。エレナが手にした本の表紙にも「人との共存における天使召喚術」と、古代語で綴られていた。


「……まだ、探しているのですか? 天使召喚術……失われた呪文ロストスペルを」


 エレナの声音は少しだけ固い。シェリルを咎める様子はないが、かといって心から応援することもできない、そんな感じだ。

 きっとエレナにはわかっているのだろう。シェリルが必死に求めるものが、叶わない願いであることを。そして未だ過去に囚われている自分を心配してくれていることも、シェリルには痛いくらいに伝わった。


 シェリルは十歳の頃、両親を何者かに殺されている。身寄りのないシェリルを引き取ってくれたのは、アルディナ神殿の神官長エレナだった。

 引き取られた当時は恐怖とショックで口もろくにきけなくなっていたが、そんなシェリルをエレナは根気強く、そして海よりも深い愛で守り育ててくれた。二十歳になった今のシェリルは、神殿ここで神官見習いとして過ごしている。


 いつ、どんな時もシェリルの味方であり続けたエレナ。夜を照らす月のように、闇に迷わぬよう導いてくれたエレナの優しさは、幼少期からずっとシェリルの心を救ってくれている。

 それに親友もできた。神殿で出会ったクリスティーナは優秀で、シェリルより三つ年上なのに、もう神官長補佐の任に就いている。


 どちらもかけがえのないシェリルの「家族」だ。一度失ったぬくもりを再びここで得られたことは幸せだったが、それでもシェリルの中には十年前に刻まれた深い闇の傷跡が時折思い出したように痛み出すのだ。

 その度に、シェリルは求めてしまう。もう失われたとされる、いにしえの魔法――天使召喚術を。


「もう遅いですから、部屋に戻りなさい」

「はい。……あ、でも寝る前にお祈りはしていきます」

「そうですか。大聖堂はもう閉めたので、行くのなら祈りの間へ行くといいでしょう。……眼鏡は、まだ必要ですか?」


 本を読む時、と外していた眼鏡をすっかり忘れていた。エレナから受け取った眼鏡には度数が入っていない。そもそもシェリルは目が悪いわけではないのに、普段から黒縁の地味な眼鏡をかけていた。

 度数の入っていない眼鏡や重く垂らした前髪は、シェリルにとってささやかな防壁の役割を果たしている。金色の髪をしっかり三つ編みのおさげにしているのも、できるだけ目立たないためだ。


 シェリルは自分の容姿が、両親を殺した何者かを呼び寄せてしまったことを知っている。

 書庫の窓ガラスに映る自分の姿。重く垂らした前髪をそっと指で掻き分けると、シェルの額には光の具合で薄い紫から銀へと色を変える小さな三日月の刻印がある。


 創世の女神アルディナの象徴である三日月。そのしるしを持つ者は世界にたったひとりしかいない。

 女神の祝福を受けた者――神の落し子。シェリルはそう呼ばれていた。



 ***



 エレナと別れ、シェリルは燭台を手に祈りの間へと向かっていた。祈りの間は、神官たちの宿舎がある星の棟の屋根裏部屋のことだ。いつでも祈りを捧げられるようにと、かつての神官たちが屋根裏部屋を自分たちで改築したと聞く。


 木の扉を開けて中に入ると、狭い室内にアルディナの石像がある。大聖堂のような荘厳さはかけらもないが、シェリルはこの古びた空間が好きだった。天窓から差し込む月光の下、かすかに微笑むアルディナ像を見ていると、記憶に残る母親の顔がよみがえるからだ。

 優しく慈愛に満ちたアルディナの表情は、両親から受けた無償の愛を思い出させる。それは胸を切なく締め付けるものではあるけれど、エレナから同等の愛を得て育ったシェリルは、もう悲しみに暮れるだけの子供ではない。


 両親がシェリルに残してくれた形見、不思議な紫銀色に輝く三日月の首飾りを優しく握りしめて、シェリルはアルディナ像の前に跪いた。

 指を絡ませ両手の中に紫銀の三日月を握りしめて、目を閉じる。眼裏まなうらに浮かぶ両親の顔。地下の隠し通路に押し込まれ、シェリルに三日月の首飾りを手渡した時の母の言葉が未だ鼓膜を静かに揺らす。


『これを持って逃げなさい。必ずあなたを守ってくれるから! ……シェリル、愛しているわ』


 額に残された最後のキスの感触と共に、行かないでと伸ばした幼い手に母の涙が落ちて砕ける。

 ――その冷たい涙の感触がいま、記憶をすり抜けてシェリルの手に直に触れた。


「……っ!」


 驚いて目を開けると、握りしめていた手の指に一粒のしずくがこぼれ落ちていた。


「え……?」


 過去を思い出し、久しぶりに泣いてしまったのだろうか。そう思って頬を拭ってみるが、シェリルは泣いてなどいない。ならば雨漏りでもしているのかと天窓を見上げて、気付く。

 アルディナの石像が、涙を流していた。


「……アルディナ様!?」


 慌てて立ち上がり、一瞬迷ったあとに、その涙を指で拭う。石像の頬は冷たいのに、流れる涙は人と同じく熱い。


(一体何が……)


 混乱するシェリルの視界に、今度は淡い紫銀の光が映り込んだ。首から提げた三日月の首飾りが、まるで何かを呼び寄せるように緩く点滅を繰り返している。


 涙を流すアルディナ像。突然光り出した形見の首飾り。自分では対処できない現象を目の当たりにして身を竦めたシェリルが、アルディナの涙に濡れた手で三日月の首飾りを握りしめた瞬間――ふわりと、窓も開いていないのにどこからともなく風が吹いた。


 やさしい風は次第に渦を巻き始め、床に細い光の線が走る。シェリルとアルディナ像を中心にしてぐるりと円を描いた光の線は、まるで自ら意思を持つかのように床を滑り、そこに大きな魔法陣を浮かび上がらせた。


 狭い祈りの間に、まばゆいばかりの光と風が渦を巻く。けれどもそれはシェリルを傷つけるものではなく、何か大きな優しい力に抱きしめられているかのようだ。

 足元から頭のてっぺんまで、くるくると絡みついて吹き抜ける風は淡い光の粒子を纏ったまま天窓をすり抜けていく。暗い夜空に上っていく風の軌跡は星屑の川がきらきらと伸び上がっていくようにも見えて――その美しい光景にシェリルは驚きも忘れてつい魅入ってしまった。


 夜空を控えめに彩る風の残光。そのうちのひとかけらが夜空に帰らず、今度は流れ星のように落ちてくる。いや、星と言うよりは光の綿毛のように、ゆらゆら、はらはらと揺蕩っている。


 どこからともなく、翼の羽ばたく音が聞こえた。羽音に合わせて大きく揺れたその光が、纏う衣を脱ぎ捨てて形を変える。

 淡い燐光を弾いて中から現れたのは、一枚の白い羽根だ。天窓をすり抜けて落ちてくる白い羽根は、空を見上げたままだったシェリルの額に落ちると、そのまますぅっと溶けるように消えてしまった。


「……羽根? え?」


 驚いて額に触れても、落ちてきたはずの羽根はどこにもない。羽根どころか、床一面に浮かび上がっていた魔法陣もアルディナの涙も消え失せていて、祈りの間は何事もなかったように夜の静寂に包まれている。


「……何、今の……?」


 夢でも見たのかとわずかに後ずさったシェリルの背後で――。

 どさり、と。重い何かが落ちる音が響いた。


「ってぇぇっ! 誰だよ! いまどき古くさい召喚術で俺を喚び出しやがったのは!」


 突然聞こえた声に、シェリルがおかしいくらいに肩を震わせて跳び上がる。驚いて振り返った先に、もはや上半身裸といってもいいくらいシャツを盛大に着崩した見知らぬ男が突っ伏していた。



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