第169話 あの人がいたからこそ。
子爵さんの袖を引っ張って、ひそひそを超えた大きさの声。
「あなた、あれ、どういうことですの?」
子爵夫人が最初に反応したね。ゲーネアスさんの予想通り。
『麻夜ちゃん』
『はいな』
『陰キャだったけどさ、エンタメ大手の広報担当だった俺の力の一端をみせてしんぜよう』
『インドア系だったけど、エンタメ大手内定学生は見守ってあげましょう』
俺は一歩前に出た。ゲーネアスさんの手をとって、説明をするためだ。
インベントリからスタンド型のテーブルを取り出す。その上に、銭湯でいえば深い方の湯船温度、少し熱いかもなお湯の入った桶を置く。
参加してくれている人は皆、何が入っているかわかっているみたいだ。俺はそのままゲーネアスさんの手を引っ張って湯に突っ込んだ。ところどころで『ひっ』という感じの小さな悲鳴が聞こえる。けれど彼はなんとも気持ちよさそうな表情をしていた。
「ふぅっ、……寒くなってきたこの時期、こうして湯に浸かることができるだなんて、夢に見ることもありませんでした。もちろん、私の家族も昨日堪能しすぎて、かえって体調を崩してしまうところだったのです。もちろん、私と妻はそのあと、お酒を楽しませていただきました。そのとき思ったのです。家族と健やかに暮らしていけるのであれば、もう、何もいらないなと……」
素晴らしい演説だったね。でもそれくらい苦しかったんだと思う。俺も実際、治療した人からこんな感じの言葉をもらったこと、何度もあるんだ。
「先日、彼は俺の手の中に墜ちました。おかげでこうして、俺は甘い審査を経てこの国へ入り込んでいます」
ぽかんと呆けるようにゲーネアスさんを見る皆さん。俺はその隙をついて、子爵夫人へ近寄る。右手を取って魔法を唱えた。
「『ディズ・リカバー』、『フル・リカバー』っと」
インベントリから薄く白い布を取り出して、ご夫人の手にかける。それをふわりと手品のごとく舞うように引く、そのままほんの少しだけ距離を置いた。振り向いて麻夜ちゃんを見ると笑ってた。最後に、マジシャンがするようなお辞儀を見せる。
「どうぞ、その手袋をお取りいただいて、ご自分の目でご確認ください。悪素毒から解き放たれた、黒ずみに汚されていないその指先を……」
『うーわ、
子爵夫人は、俺に誘導されるように、自分の肘上まである手袋を外した。彼女の表情は驚きに包まれたけれど、次第に柔らかい笑みに変わっていったんだ。
「あなた、これ、見てくださらない? 奇跡よ。奇跡が起きたんだわ……」
子爵夫人の指にはどれほどの黒ずみがあったのかは、今はもうわからない。年齢的にもそれなりだとは思うんだけど、喜んでいる姿はそれこそ若い女性のその姿だった。子爵当主は笑ってあげることしかできなかったんだと思う。
「悪魔殿、いえ、魔王様であっても構いません。私もすべてを、魂すらも差し出します。その代わりに私の家族を、私の友人を、その家族を救ってください。欲深いのは重々承知しておりますが、どうかお願いいたします」
子爵当主は両膝をついて、俺へ頭を下げた。これ以上ない、
『うーわ、鬼、悪魔、魔王様』
『あのねぇ。鬼は言われてないでしょう? そりゃさ、ちょっとやり過ぎた感はあるけどさ』
「立ってください。俺は別に、悪魔でも魔王でもありません。ただ、俺の母もそのご両親もこの国の王に罵られ、辛い思いをしたと聞いて憤慨しています」
子爵当主も子爵夫人も、もう一人の男爵もそうだ。俺が誰だかなんとなくわかったみたいだ。
プライヴィア母さんは、表向きにはあまり気にしてはいないと言ってる。だから俺もふ~ん、程度にしか思ってないように見せてる。ただ、オオマスの件は駄目だ、許しちゃいけない。
「とりあえず俺は、彼と彼の部下の家族全員の、健康を人質に取らせてもらったんですね。簡単ですよ。実際にこうして、悪素毒を治療してみせたらいいんですから。するとほら墜ちたんです、簡単でしたよ」
俺は見回しながら言った。皆、恐怖よりも期待の目で俺を見るんだ。そりゃそうさ、俺はワッターヒルズでもスイグレーフェンでも『聖人様』と呼ばれていたんだから。嫌なんだけどね。
「俺は俺を信じてくれる人を全員、この国から誘拐するつもりです。ただ一度持ち帰って、母に許可を得なければ駄目ですけどね。もしかしたら、本国へ受け入れるのは難しいかもしれません。それでも、ワッターヒルズという都市なら大丈夫だと思っているんです」
俺は子爵当主に手を差し伸べ、ついでに『ディズ・リカバー』と『フル・リカバー』を唱えておく。ぐるりと人の間を回り歩いて、握手をしながら全員治療を終える。
「麻夜ちゃん、残りはいない?」
「うん。大丈夫。兄さん」
俺はくるりと向き直る。皆の目を見ながらゆっくりと言うだけ。
「俺をあの国に売るのは構わない。けれどそのときは、全部叩き潰すだけだ。俺と彼女、家族が揃えば、この国程度なら一晩かからないだろう」
『でもやらないんでしょう?』
麻夜ちゃんは呆れるように言うんだ。ネタバレいくないよ。
「三日後に再びここを訪れます。ご当主とご夫人だけゲーネアスさんの屋敷にいてください。それが返事だと受け取ります」
この国から人々を誘拐する方法はもう考えてある。もの凄く簡単な手順だからね。それは麻夜ちゃんがジャムさんから、ベルベリーグルさんをもらったから簡単になったというのもあるんだけどさ。
「その晩、俺は王家とその取り巻きの機能を一時的に停止させます。次の朝、城下の人たちを一斉に逃がすんです。説得はあなたたちに任せます。死ぬより今の生活が大事だというなら残っても構わない。そうでなければ明日を生きられると」
ベルベさんには麻夜ちゃんを通して、この国の王家と上位貴族の位置関係を調べてもらってる。あとはもう簡単な作業になると思うんだ。
ゲーネアスさんから聞いた話では、子爵さんが俺を信じるかそれとも上役の伯爵を信じるか。彼は間違いなく前者だと言い切ってるんだけどね。それだけゲーネアスさんも子爵さんも虐げられてきたんだろうな。ブラックって怖いわ……。
「いやはや兄さん、お見事でした。社会人経験って出るんだね-」
「ありがと、そりゃそうよ。これでも世間の荒波に揉まれてきたんだもの」
俺たちはあっさりとウェアエルズの関所を出られた。通行許可証をもらっていたけどさ、おまけにチェックしてた人は知ってる人じゃなかったけど、それはもうあっさりと。
「なんともさ、下々の役人さんたちのことを構ってる余裕がないのかもね」
「かもしれないねー」
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