アンカー・ミラクル大作戦
「さて5区の走り方と言うのはどういう物なんでしょうか」
やはり来ると思った。
えーっと、最初の5キロである程度足をならして後は若干前のめりになりながら淡々と上って行き、なるべく静かな山中で一息を入れ、大平台のヘアピンカーブや小涌園の急坂などの難所で気合を入れる。最高点以降はほぼ勢い任せでゴールまで下って行く。絶対的スピード量が足りないので、それしか勝つ方法はないと思って走った…………。
他人に通用するとは思えない僕だけのやり方を僕は長々と説明した。全く力押しのやり方であり、悪い意味での才能依存だ。
「今、先頭を行っている山県選手については」
僕の真似をするなとだけ言っておきます、と言ったら笑われた。愛想笑いか苦笑いかはわからないが、本心だから仕方がない。しかし山県は半袖で大丈夫だろうか。去年僕は長袖を来て山を登った物だが……。
それにしても寒い。スタジオはさすがに暖かいが、正午過ぎだと言うのに芦ノ湖は3℃しかなく、道にも雪が残っている。まあ正月なんてそんな物だし去年もそうだったが、いざこちらに移ってみると一段と寒さが身に染みる。寒い側から暖かい側に移ったって言うのにだ。
そんな僕の目を開かせたのは、大平台だった。山県のタイムが悪い訳ではない、
この定点ポイントで30分22秒と言うのは去年区間2位だった僕より1秒遅いだけと言うそれなりに優秀なタイムだ。しかし、問題はその次だった。
「続いて2位の忠門大学野上が大平台のヘアピンカーブを通過して行きますが…差は22秒!昨年柏崎さんが大平台を通過した時は29分32秒だったのに対し、野上は29分25秒で通過して行きました………………!」
バカな。
間抜け極まる事に僕は公共の電波にその三文字を乗せてしまった。あんなに凄まじかった柏崎の記録がたった1年で越えられてしまうと言うのか、いや待てあんなペースでかっ飛ばして持つ物ではあるまい、柏崎みたいなランナーがそうぼこぼこ現れてなる物か。
「11キロで先頭が変わりました!忠門大学の野上が天道大学の山県を見向きもせずに追い抜いて行きました。力強さが全く違います」
……なんて言う浅薄な願望が破られるのにさしたる時間は要らなかった。まるで走りが違う。そんなに止まっているとは思えない山県が小指で弾き飛ばされるかのように引き離されて行く。そうなのだ、大平台の次の定点ポイントである小涌園を通過した時の山県のタイムは47分42秒、ややスローダウンしているがそれでも問題はないはずだ。任天堂の大久保より18秒、太平洋の五郎丸より22秒早いから両校とはむしろ差を開いておりその点では大木監督の期待に応えている……はずだ。
「先頭の野上が芦之湯に到達しました。この時点で1時間0分24秒……去年の柏崎さんの記録より17秒早いですね」
僕が去年そこを通過した時のタイムが1時間3分20秒。まごう事なき区間2位のタイムである。威張っていいはずの記録なのに、恐ろしくしょぼく見えて来る。
「いやあ……柴原監督も野上はとんでもない記録を作るって言ってましたけどね、はっきり言ってここまでとは思ってませんでしたよ……」
野上の先輩である六角も困惑の表情を浮かべながら苦笑いしていたが、僕のそれとはベクトルも桁も違うだろう。更に別の衝撃が後方から襲って来ている。
「3号車です、下総の南が稲田を捕らえました。これで2人抜き、順位を5位まで上げています」
いつ見ても下総のユニフォームは派手だ、と言うかあの靴は何だ。僕の目が間違っていなければ何か美少女のイラストが描いてあるように見えるが気のせいか……?本人が元気づくならばそれでいいにせよ、正直なぜそうしようとしたのかはイマイチわからない。その挙句小涌園を僕より15秒早いタイム、区間2位で通過されては正直何も言えない。
そう、1位も2位も大学2年生と言う僕と柏崎より3つ下の年齢の人間に持って行かれたのだ。彼らがもし去年ここで同じ走りをしていたら僕はおろか柏崎さえ脇役に成り下がっていたと言う事であり、想像するだけで寒気がする。そんな僕を引き締めさせていたのは、ゲスト解説と言う肩書と、山県だった。
「山県の足が動いていません!19~20キロに3分37秒かかっています」
それがブレーキと言う形であったのは悲痛としか言いようがないが…そしてこの山県のブレーキを見逃す太平洋と任天堂ではなく、差を詰められ始めた。
そしてそんな事をやっている内に野上がゴール。1時間16分11秒、去年の柏崎の記録より16秒早い。
一方で山県はと言うと最後の1キロで太平洋の五郎丸に捕まり、任天堂の大久保をかろうじて振り払った。要するに天道の今年の往路順位は3位である。
往路優勝 忠門大学 5時間23分59秒
2位 太平洋大学 5時間29分46秒
3位 天道大学 5時間30分2秒
4位 任天堂大学 5時間30分5秒
5位 下総大学 5時間30分44秒
6位 稲田大学 5時間31分29秒
7位 湘南大学 5時間33分50秒
8位 甲斐学院大学 5時間34分7秒
9位 帝国大学 5時間34分15秒
10位 城東大学 5時間34分39秒
11位 相模大学 5時間35分41秒
12位 日本ジムナス大学 5時間35分51秒
13位 徳政大学 5時間36分22秒
14位 関東基督教大学 5時間36分50秒
15位 周旋大学 5時間38分2秒
16位 嘱託大学 5時間38分45秒
17位 中心大学 5時間39分12秒
18位 倭国大学 5時間39分15秒
(関東学生連合 5時間40分19秒)
19位 東京地球大学 5時間41分16秒
20位 維新大学 5時間42分55秒
5時間23分59秒。
3年前太平洋が叩き出した記録より1分45秒も早い。アンブレイカブルレコードだと思っていた記録がたった3年で過去のそれになった。野上とかその前の村田とか以前に、三強に耳目が集まっているにしては忠門が強すぎた。出雲や全日本の敗戦は一体何だったんだと言わんばかりの戦いぶりに、六角さえも呆れ笑いしていた。
「今日の結果について何か一言」
いや、野上君恐るべしとしか言いようがありません、本当に時代の変わり目と言うのを実感せざるを得ないです。
……他に何も言いようがなかった。ゲスト解説と言う立場としての最後の仕事としては余りにもお粗末だったが、できる事ならば一刻も早くここから走って帰りたいぐらいであり、そう思うと言葉が雑になってしまった。
翌1月3日、僕は一人っきりでテレビの前に座っていた。本来ならば闘志を燃やして練習に励むべきだったのだろうが、正直そんな気分になれなかった。
どうせならば3年前に太平洋が打ち立てた10時間51分15秒の記録を打ち抜いてみろよと言う変な敵愾心を忠門に対して抱いてしまい、テレビの前から離れる事が出来なくなってしまった。もちろん元から箱根駅伝が好きだったのはあるが、だからこそこうもあっさり覆されるのが気に入らないと言う面もあった。まあ言い切ってしまえば僕のわがままだが、それでも僕にも意地と言う物があった。
午前8時ちょうど、芦ノ湖に銃声が鳴り響く。そこから2位の太平洋がスタートするまで延々5分47秒……3年前の太平洋と徳政の間にあった6分5秒よりは短いが、その時はある程度予想って言うか覚悟ができていた。あの柏崎が5区に控えている中4区までに先頭で太平洋にタスキを渡されてしまえば予想可能な展開だった。
だが今回は三強三強と騒がれている中の第四極とでも言うべき存在であった忠門大学の、昨日までそんなランナーいたんだっけな野上の、柴原監督以外誰も予測していなかった走りの結果だ。気を付けていなかったわけでもないだろうが、三強にしてみれば他の2校が優先で忠門大は二の次三の次だった。だからこそ天道と太平洋は往路から主力を注ぎ込み、任天堂もまた当日変更で9区に村松隆二を置いた以外は往路より薄めのメンバーだ。もちろん忠門大がこの3校よりうまく行くとは限らないが、一人1分詰めても届かない差を付けられて前を追うことほど辛い駅伝はない。安全策を張られるだけでも負けそうな差である、心が折れなければ嘘だと思う。何とか復路優勝、総合2位がせいぜいの目標だろう。
昨日あそこにいたからよくわかるが、全くテレビも調子がいい。歴代の復路大逆転記録をいろいろ並べているが、一番新しいのでも50年前じゃないか。時代が違い過ぎて参考にならない。任天堂OBの増田の顔たるや、愛想笑いって言葉が驚くくらいよく似合う。まあいろいろと興味を引きたいのはわかるから僕もこれ以上うんぬん言いたくはないが、正直あまり感心はしない。
レースの方を言えば、この足の皮がむける事など日常茶飯事な山下りの6区、忠門大は区間3位だった。この6区で忠門より威勢が良かったのは稲田と日本ジムナス、それから東京地球大で、稲田の大谷が区間新記録を叩き出して太平洋との1分43秒差を12秒差に縮め、日本ジムナスも前区間記録に5秒差の好走で総合12位から8位まで浮上。そして東京地球大も忠門に次ぐ区間4位の走りで17位に浮上した(日本ジムナスも東京地球も復路一斉スタートの範囲だった為見た目ではわからないが)。
―――――――――――そう、要するにそういう事だ。
天道も任天堂も稲田大の大谷の快走に捕まって順位を落とし、太平洋も前述の通り稲田に付けていたリードの大半を吐き出した。かろうじて2位を守った太平洋だが、5分47秒だった忠門との差は7分を越えてしまった。ますます気が重くなる数字だ。焦燥が暴走を生み、暴走がブレーキを生む負の連鎖だ。
それでも平地である7区になればと言う期待はあったに違いない。太平洋は全日本で活躍した加藤、任天堂は榊原と言う俊才1年生を据えている。天道の小塚も1年生で三大駅伝初出走だが、12月にちらっと見た時は結構いい走りをしていた。
榊原と小塚は、5キロも走らない内に加藤と稲田大の源に取り付き2位集団を形成した。小塚にはなるべくならばここに甘んじないで先頭の忠門を追って欲しいし、大木監督や太平洋の堺監督も同様の事を思っているだろう。
大木監督と堺監督の檄が飛ぶ。大木監督のそれほど太くはないが同じぐらい力強い堺監督の声に答えたか、10キロちょうどの所で加藤が動いた。小塚も、榊原も付いて行く。実に激しい争いであり、この7区の段階でこんな戦いが見られると思うと正直な話ワクワクする。
「二宮の定点ポイントを今2位の太平洋大学加藤が通過して行きました。先頭との差は7分59秒です」
……………まあ、井の中の蛙の争いなんだけれど。結局忠門のランナーは3年前に日村祐輔が作った区間記録と4秒差と言うタイムで駆け抜け、最後のスパートで総合2位かつ区間2位になった任天堂の榊原にチームとして8分32秒、個人的には1分22秒の差を付けた。
しかし何なんだあれは、いくら圧倒的トップとは言え忠門の選手たちの顔がかなりほころんでいる。少なくとも僕よりは確実にいい顔だ。正直、やる気があるのかといら立ちを覚えずにいられなかった。喜ぶならばタスキを渡し終わってから喜べばいいだろ、チームの勝利が決まってからでも遅くないだろと大木監督ならば言っていただろう。
だが、そんな忠門大学に誰も抵抗できていないと言う現実は重い。
8区は、忠門の七尾と下総の佐々木の二人舞台になった。6・7区と失敗して9位まで落ちていた下総大の佐々木が、はるか前を行く七尾と張り合うかのように飛ばし続け4人抜きでチームを芦ノ湖スタート時の5位に復帰させた。
「後ろは離してるぞ、敵は下総の佐々木だ、遊行寺の坂を上り切ってからが本番だ」
余裕しゃくしゃくという訳でもあるまいが、柴原監督の指示は妙に爽やかかつ軽い。檄と言う言葉が全く似合わない、いや指示と言うにも軽すぎる気がするその物言いを聞かされても僕は力が入らないだろう。
だが忠門のランナーたちは笑みを絶やさないままに、柴原監督の声援を力に変えながら走って行く。そして佐々木から6秒差で区間賞を奪い取り、同時に「三強」であった学校の闘志を根こそぎ奪い取った。天道はこの8区必死の走りで七尾と佐々木に次ぐ区間3位で走り総合2位に浮上したが、忠門との差は9分50秒にまで広がってしまった。
「このまま終わる訳には行かないですよね」
「そうですよね、榊原がいい走りを見せたんで何とか、せめて2位だけはと思うんですけどね……」
むちゃぶりだなと思わずにいられない。増田だってこんな展開は予想外だろう、この状況で任天堂の事を問われた所でそうとしか言いようがない。
もっとも、任天堂にとって最後のお願いができるとすればこの9区しかなかった。
「村松隆二が太平洋を捕らえました、戸塚中継所の時点で58秒あったタイム差を既に6秒に詰めています」
9区に残しておいた村松兄弟の弟、隆二が天道と太平洋を抜き去って行く。任天堂としてはある意味理想の展開と言えるだろう、そのはるか前に忠門がいる事を除けば。
にしても、先頭が映らない。
まあ当たり前だろう、ずっと忠門を映していてもいい加減ネタ切れになるのは目に見えているのだから。2号車の任天堂と太平洋の2位争いもちょこちょことしか映らず、映るのはもっぱら5位争いにへばりついている3号車とシード権内を探しているバイクリポートばかりだ。
「武蔵君は今年3年生になって急成長して来たんですよね、松嶋君に代わって来年はエースを名乗れるぐらいの力はあると思いますよ」
毎年の恒例である稲田偏重の解説もなぜかいとおしい。天道をなかなか映さない事に対しては後輩の不甲斐なさにやや落胆したものの、正直大した問題ではなかった。3年前のあの時に感じた清々しさを通り越した感情とは何かが違う、あまりにも異世界染みた何かの接近にただ呆れるだけの感覚。ほんの1年前まで心血を注いでいたはずの舞台が何か別の物に代わってしまったと言う気持ち。
「あと5秒、周旋は何とか間に合った!しかしもう残りはダメか!今ランナーが見える所まで来たがーっ……!!」
いつもながらの悲痛な光景、時間に敗れたランナーたちが乾いたタスキを肩に鶴見中継所を飛び出していく姿を見せられても、僕の心はざわめかなかった。
かろうじて天道のアンカーが太平洋を捕らえて2位に上がった時はよしと声を上げてみたが、それきり何も言う気にはなれなかった。
「ミラクル大作戦」。何と言う軽い響きだろう。
これまで血と汗と涙を流して戦って来たはずの舞台におよそ似つかわしくないそんな言葉を掲げた忠門大学に、誰一人抗えない。
「最高のミラクル、今ここに成就!忠門大学、箱根駅伝、初優勝!!10時間、49分、25秒!!」
――――――――――この時、僕の心の中ではっきりと音が鳴った。そう、何かが終わった音が。もちろん忠門大学もまたいつかどこかに取って代わられる時代が来るのだろう、でもそれが天道や太平洋である保証はどこにもない。
ましてやそれが大木監督や堺監督の率いるそれかどうかは全く分からない。もちろん大木監督も堺監督も、忠門大学から天下を奪い返さんと全力で戦うだろう。それが成就するか否かは別として。
総合優勝 忠門大学 10時間49分25秒
2位 天道大学 11時間0分44秒
3位 太平洋大学 11時間1分9秒
4位 任天堂大学 11時間1分57秒
5位 稲田大学 11時間7分48秒
6位 下総大学 11時間8分0秒
7位 湘南大学 11時間10分25秒
8位 帝国大学 11時間11分41秒
9位 甲斐学院大学 11時間12分7秒
10位 相模大学 11時間13分25秒
――――――――――以上シード権獲得――――――――――
11位 日本ジムナス大学 11時間13分40秒
12位 城東大学 11時間14分16秒
13位 周旋大学 11時間16分50秒
14位 徳政大学 11時間17分22秒
15位 関東基督教大学 11時間18分55秒
16位 東京地球大学 11時間19分27秒
17位 中心大学 11時間20分20秒
18位 維新大学 11時間21分19秒
19位 嘱託大学 11時間24分7秒
( 関東学生連合 11時間25分29秒)
20位 倭国大学 11時間27分50秒
シードを獲得できなかった10+1チームの内日本ジムナスと周旋を除くすべてが鶴見で繰り上げスタートの憂き目に遭ったり、またゴール直前に芦ノ湖一斉スタートにからむシード権を巡るドラマがあったりしたが、それも全て他人事だった。
新たな時代の到来。陳腐極まる言い方が他に例えようもないが、僕の心の中で鳴ったのはそれを告げる銃声なのかもしれない。
なれば僕がすべきは決まっている。大木監督からの卒業、箱根駅伝からの卒業。
僕は今この時ようやく、社会人になれたのかもしれない。
まあ、母校の応援と趣味である学生駅伝の観戦をやめる気はないけれど。
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