スタンダードAFTER
1区・後輩たちは
四年間の大学生活なんてさほど役に立たない、そのつもりで社会人生活を迎える事にした。
三大駅伝出場9回区間賞1度と言うそれなりに輝かしい成績を残しては来たが、そんなのは既に過去の栄光でありしがみついていてはいけない。実業団に入ってしまえばいいとこ「期待の新人」であり、基本的には一山いくらの存在だ。
その上に学生時代はスタッフの皆様がある程度やってくれていた体調管理も、社会人になってしまえば基本的に100%自己責任でありそれができない奴は落伍者となる。駅伝と言うのは重々しく言えば連帯責任の世界だが、逆に言えば一人欠けても次が出て来るようにできている、と言うかみんながその椅子を狙っている。だから自分がダメでも、チーム全体ではある程度何とかなる、だが個人競技では話は違う。
箱根駅伝は10人で走る。もちろん補欠の6人もいるし展開やコースその他の要素により20%になったり5%になったりするが、基本的には1人の責任は10%だ。だが個人競技であるマラソンを走る場合、自分の結果についての責任は100%自分のせいだ。その点では駅伝より気が重く、また自分の失敗が自分以外(もちろん家族やらスタッフやら監督やらの事を忘れている訳ではないけど)に跳ね返って来る事はないのでそういう意味では気楽である。とは言え、いずれにせよポテンシャルを上げなければ生き残れないのは同じだ。
その上に仕事だ。もちろん学業を疎かにしていたつもりはないが、僕だっていつ足を折るかわからない。そうなったらランナーとしての価値は大きく下がり、その価値を武器に会社に入り込んだ僕の立場はなくなり下手すれば首切りに遭うかもしれない。そうなったら競走生活どころの騒ぎではない。だから、仕事も練習も手を抜く暇などない。
「趣味は陸上か」
学生時代から、そう冷やかされた事も何度もある。実際そうなのかもしれない、僕にしてみればあくまでも自分の売りを生かすための練習なのだが、正直その上に学業や仕事を行うとなると他にする事がない。せいぜい寝る事と食事をする事ぐらいだ。
五月、自分のポテンシャルを見たいとか言う名目で大学生と合同の記録会に出場した。
「柏崎さんはお元気ですか」
確かに柏崎と僕は同じ会社に入ったが、正直な話あまり顔を合わせていない。そこいらへんの新人である僕と目玉と言うべき柏崎では世界が違う、とまでは行かないにせよ差は大きい。
実際、うちの陸上部に取材が来た時の目当ては監督かキャプテンか、柏崎だ。うらやましくもありうらやましくもなしだが、柏崎だって仕事に練習にその上取材まであるのだ、どうやったら暇ができるのか正直知りたい。
「ちょっと教えてくれないかな、柏崎の近況って奴を」
聞かれても困りますよ堺さん、ってあれ下総大学の幸崎監督?どうしてまた?
「倭国の田井中が言ってたらしいんだけどさ、そんなもんなのかね。まあ俺の考えがちと古いのかもしれねえけどさ」
幸崎監督が下総大の監督になったのは僕が小学生だった頃の話であり、その時の下総大ってのは予選13位が最高ってレベルの弱小チームだった。それを幸崎監督は就任2年で箱根に出場させ、以後今まで一度たりとも箱根から下総大の名前が消えた年はない。まごう事なき名将であり僕の恩師である大木監督も敬意を抱いている人間だ。
「もちろん個人の趣味嗜好に文句を付ける筋合いは俺にはないしさ、練習がきついのは自覚してるけどさ、俺が学生だった時とそんな急に変わる物でもないはずなんだけどな」
大木監督と同じように彫りが深く威厳を感じさせる幸崎監督の顔がどこか歪んでいた。一体何がそんなに問題なんだろう。第三者である僕に下総大学の相談でもしようと言うのだろうか。
「お前さん趣味ってなんだ?」
自分でもわかりませんね、本気で陸上かもしれませんね。社会人になるに当たりなんか一つぐらい趣味が欲しいなとは思ってるんですが何分多忙な物で。
「田井中がいわゆる萌えアニメって奴が好きなのは知ってるだろ?田井中が言うにはさ、高校の時まではそういうのに大して関心はなくて大学に入ってから、それも陸上部に入ってからハマったらしいんだよ。まったくわかんないもんだよ」
僕にはその感覚はわかりません。わかるのは柏崎や田井中にとってはそういう代物が活力を与える糧になっているって言う事だけです。
「…………なるほど、ありがとうな」
幸崎監督は腕組みをしながら僕の元を離れて行った。実際、僕が天道大生だった時にはそういう趣味を持った仲間はいなかった。チームカラーと言う物なのかもしれないが、なんとなく大木監督と近いイメージを抱いていた幸崎監督率いる下総大学でそんな事になっていたのは正直意外だった。
この記録会には各大学の一年生が多い。下総だけじゃなく天道に太平洋に任天堂、稲田に甲斐学院忠門、帝国…力試しであり最初の他流試合と言うべき場所である。自分が出たわけでもないそんな記録会に僕が出場したのは、自分だって社会人一年生だと言う事を自覚し驕りを取り除くためだ。もちろん負ける訳には行かない。
僕の戦法はとっくに露見している。その点では都合がいい。最初から全力で飛ばす。ついて来るのならば振り落とす、ついて来ないのならばそのまま。銃声と共に飛び出した。最初から僕なりのトップギアで飛ばす僕について来るのは倭国と東京地球大の留学生と、稲田のエース松嶋ぐらいの物だ。後はもうマイペースで走っている感じで僕に喧嘩を売って来るような一年生はいない。いや、ついて来ないのがもう一人いた、甲斐学院の「元」留学生だ。僕と同じように就職して実業団の駅伝チームに入った彼はその時以上のポテンシャルを見せ付けている。その上に4年間の日本生活で陸上のペースに慣れている。5番手集団の先頭と言う極めて好位置につけ、僕らの動向をうかがっている。
並ばれてスピード勝負になったら勝てない、その事を察した僕はギアを上げた。二段ギアとか二枚腰とか呼ばれていたが、単なる負けず嫌いだ。その負けず嫌いに己が戦法を合わせてしまうあたり我ながらわがままな話であり、と言うか1年生が居並ぶこの場に限って言えば全く大人気ない話だ。もっとも、僕はあらかじめこの記録会で本気の走りを見せる旨言いふらしていたので罪悪感はなかったが、問題は別の所にあった。
案の定、元留学生ランナーが飛ばして来た。僕がむきになるのを見計らっていたんだろう。まったく正しい判断だ。そしてそれに釣られるかのように東京地球大の留学生もにじり寄って来た。後ろを向いた訳ではないが、感覚からしてわかる。倭国の留学生と松嶋がやや離れていく中、甲斐学院OBがやって来た。
……速さが違う。10000m全体ならばそれほど負けている気はないつもりだが、瞬間の速度は向こうの方がかなり上だった。残り2000mで簡単に抜かれてしまい、どんどんと差を広げられてしまった。なるべく見ない事にして自分の走りに集中したが、後続のランナーがずいぶん迫って来る。僕はある意味格好の目標であり、また絶好のペースメーカーになっていた。慌て気味に後ろを振り返ると、随分と幼い顔が多い。一年生だ。僕にも一応プライドがある。一年生には負けていられないとばかりに無理矢理ラストスパートを図ってみたが、差が開かない。向こうもそうなのだからお互い様とは言え、全く我ながらどこまでもお山の大将である。
28分37秒53。一応日本人では1位、面子は保てたつもりだ。しかし残り100mで東京地球大の留学生に逆転され、その上に僕と10秒も差のない学生ランナーが松嶋を含めて7人もいる。しかも1年生が4人。井の中の蛙大海を知らず、夜郎自大。全く、そうとしか言いようがない。
「先輩」
天道に入って来た1年生の渡辺だ。天道らしいスマートな走りで、この記録会を日本人3位のタイムで走り抜けた次代のエース候補。素質って言う安易な言い方は好きじゃないけど渡辺には確かにそういう類のそれがある、でなければあんな涼しい顔はできない。僕は自分がイケメンなどと思った事は一度もないが、少なくとも走った後の顔はほぼ間違いなく走る前より醜男である事は知っている。2年生の時の全日本大学駅伝の後の顔など、正直今見ても笑えてしまうぐらいひどい。優勝のゴールテープを切ったと言う最大級の歓喜に値するシチュエーションなのにだ。
「いつから先輩は今回の様な戦法を取るようになったんですか?」
2年生になった時だと素直に答えた。
大八木先生に最初からアクセルを踏み続けそのまま粘り込む戦法を取る様に言われて今でもそのまま続けている。でも実際にそういう戦法を取ってる人間から言わせると、かなり大変な戦法だ。まず当たり前だがスタミナがなければいけない、それからスピードがありすぎるのも良くない。スピードが足りなくて置いて行かれるのはまだしも、自分の体がスピードについていけなくなって止まってしまうのは最低だ。だから僕はスタミナを鍛え上げる事に集中している。あらかじめ走る距離及びコースを自分なりに精査し、自分なりに「暴走する計画」を立てる。制御がきかないから暴走と言うのにそれに計画などと言う言葉をくっつけてしまう辺り我ながら滑稽だけど、爆走とか激走とか逃走とかそんな格好のいい形容が付けられる走りじゃない。言っておくけど絶対に真似しようなんて考えるんじゃないぞ。
「ああすみません」
おやおや、たくさんのランナーがやって来た。
任天堂の榊原に下総の南、そして同じく下総の佐々木だ。それから忠門の七尾もいる。南は前回の箱根で僕と同じ5区を走っていた2年生(当時は1年生)だから名前は知っているが、あとの3人の1年生とは今日が完全な初対面だ。この4人もまた渡辺と同じように、僕から10秒以内のタイムでゴールした優秀なランナーたちだ。それにしても、4ヶ月前に5区を走った時は僕と南の間に2分10秒のタイム差があったのに今回は8秒半か……つくづく参ったね。
「何としても全日本と箱根に出場したいんでね、箱根の後も必死になって練習を積んだんですよ」
南の顔は非常に満足げだ、まあ当たり前だろう。でもその南を渋い顔で見つめる目があった。これぐらいのタイムで浮かれ上がるんじゃないって事ですよね幸崎監督…あれ?
「一応まだ記録会の最中なんだからな、そこの所を忘れないでくれよ」
ああ任天堂のコーチの周防さん、これは失礼。いやそれにしてもそちらの榊原君、いいタイムが出ましたよね。こりゃ正直うかうかしてられないですよ。前回の優勝がいい方にいい方に波及しているんですかね、こういういい新人が出て来るって事は。
「それならいいんだけどね、この前この4人でさ」
「周防さん、こんなとこでそんな愚痴を言ってもしょうがないでしょ。それがお互いの為になるんならばいいと思いますけどね私は」
「………………………」
忠門大の柴原監督にたしなめられて周防さんは口を閉じたけど一体どういう事だろう。
「柏崎さんはどうなんですか」
この質問をされるのは今日だけで何回目かわからない。僕らの世代の筆頭はどうしても柏崎になってしまう。それはいいが、僕は正直柏崎と疎遠だ。社内での僕と柏崎の配属は違うし、陸上部でもあまり顔を合わせていない。積極的に避けようとしている訳ではなく、いろいろすれ違う事が多くてそうなっているだけだ。もっとも僕自身その状況に不満を抱いている訳ではない。柏崎だっていろいろ忙しいんだろう。
「そうですか……今度もし良かったら太平洋の五郎丸と一緒に柏崎さんを案内してあげようと思ったんですけど」
五郎丸ってのは去年補欠で名を連ねてた2年生だ。柏崎の跡目として山を登るんじゃないかって言う評判だが、彼と柏崎が親しかったって言う話は僕も聞いていない。
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