9区・熱中症
それでもとりあえず2位にはならねばならない。
徳政と甲斐学院を捕らえなければ出雲優勝校の面子が立たない。三大駅伝の1位2位を全て太平洋と一緒に独占する、それが天道に課せられた責任と言う物だろう。
幸い藤田の調子は良好で、5キロ地点で徳政を捕まえていた。甲斐学院はそれ以前に徳政を捕らえており、結果天道・徳政・甲斐学院による2位集団が出来上がった訳である。お互いに競い合い、1秒でも前との差を詰めてもらいたい。
「学連選抜が上がって来ました!7区で順位を落とした学連選抜ですがこの8区、関西の八重大の新島が順調なスタートで飛ばしています、18位スタートから2キロ足らずで既に倭国を捕らえて17位に浮上、今は15位集団の使命館と下総の2校を追っています」
もちろん戦いは先頭だけで起きているのではない。シード争いだけでもない、25人のランナー全てが戦っているのだ。最下位付近のチームにとっては「繰り上げ」と言う死んでも聞きたくないであろう瞬間との戦いもある。
なお平塚の時点で太平洋と走行順で最下位の無双との時間差は15分15秒、太平洋の6区が大した事がなかった事もあり(天道はそれ以下だったけどね!)まだ大丈夫そうな差だ。もっとも、その「大丈夫そう」が「やっぱり大丈夫だった」になった話を僕は余り知らない。あえて言えば一昨年の箱根の太平洋だが、それは相当に特異な事象だろう。あれを基準にして考えるのはやめた方がいい。
さて先頭の太平洋日村祐輔だが、いやに発汗が多い。まあこんな温度だから仕方ないとも言えるが、それを差し引いても言う気分になって来る。
「ちょっと不安ですね」
解説者のこういう物言いはいつもの事だ……とも言い切れない。日村祐輔は茅ヶ崎までの6.9キロ余りで20分40秒かかっている。ほぼ1キロ3分ペースと聞くとまあ普通だが、日村祐輔からしてみればイマイチと言わざるを得ない。現に藤田は茅ヶ崎の地点で22秒日村祐輔との差を詰めている。
「3号車です、城東が順位を落としています。平塚中継所で7位だった城東ですが帝国と日本ジムナスに捕まり現在9位、10位の稲田とは茅ヶ崎時点では38秒差と詰められています」
不安があるのは太平洋だけではない。2区以来ずっと上位を保って来た城東が順位を落としシード権争いに巻き込まれている。もっともこの8区辺りからシード権の文字がチラつき始め、それがランナーに活力を与えあるいはかき乱す。もっと下で言えば繰り上げスタートだ。その両者には総合優勝と同じぐらいの、いやそれ以上の魔力がある。
「今太平洋の日村祐輔が10キロを通過しました。通過タイムは29分58秒、ほぼ1キロ3分ペースです」
やっぱりおかしい。茅ヶ崎の地点で区間9位、トップの学連選抜・八重大の新島と比べると40秒悪い。今回兄の恵一も2区で区間8位と余り活躍できなかったが、それに輪をかけて弟の祐輔も振るわない。もっとも、それでも3分差をつけられているのが柏崎の恐ろしさであり天道の不甲斐なさなのだが。徳政や甲斐学院を悪く言う気はないが、両校と2位争いをしている暇は天道にはない。競い合って前を詰められるのならばそれでいいが、茅ヶ崎の時点で区間11・12位のチームに付き合ってどうする?
「2号車です、天道の藤田が仕掛けました!10キロ地点で甲斐学院と徳政を突き放し既に5秒開いています。後ろの甲斐学院と徳政はちょっとついていけないか」
それを察したのか大木監督の指示があったのかは知らないが、藤田が動き出した。とりあえず2位争いを制し、やはり太平洋に立ち向かえるのは自分たちしかいないのだとばかりの走りを見せ始めた。よし、その調子だ。日村祐輔の調子が良くない以上、色気を出しても問題ないだろう。久保に1分差で持って来られれば逆転は可能だ!
…と言うか、調子が良くないで済むのだろうか。
「今日村祐輔が15キロを通過しました、タイムは47分20秒です。ここ1キロが3分13秒かかっています。文字通り滝のような汗が流れ出ています日村祐輔、さあここからの遊行寺の坂がこの8区の最重要ポイント、どれだけのタイムで乗り切れるか!」
47分20秒、1キロ頭にすると3分9秒ペース、かなり悪い。単純計算で1キロ3分ペースで走ったとしても2分20秒詰められている事になる。
「2号車です、後ろの甲斐学院と徳政を突き放しました天道です。大木監督が大声で藤田に呼びかけていますが、それによるとどうやら前との差は1分30秒まで詰まっているそうです!まだ前の太平洋は見えませんが、それでもかなり近づいている事だけは間違いないようです」
遊行寺の定点ポイントは15.9キロ地点だ、テレビ局が前との差をまだ確認できていなかったのは仕方がない。だが正直な話、まったく情けない事だがその数字を聞くまで希望を失っていた。たかが数字だと言うがその重みは計り知れない。もちろん人間一人一人には相応の重みがある、ドラマがある、駆け引きがある。しかし結局勝敗の基準となるのはタイムと言う名の数字だけだ。時間は人間如きの都合でどうなりもしない、絶対的な基準だ。それだけに重い。
「日村祐輔が必死に坂を上っています!この17~18キロは3分27秒、その前の1キロが3分30秒、これは息を吹き返していると見ていいのか」
どんなに苦しくてもそれぐらいの走りはしてくる、それがエースと言う物だろう。その2キロで5分57秒、遊行寺の坂の入り口から影取までは8分48秒だった。去年で言えば区間10位ペースでこれまでのようなブレーキと言う訳ではない、もちろん地力からすれば不満だらけだろうがそれでもさすがと言う所は見せ付けてくれ……
「これはちょっと本格的に危ないかもしれません日村ゆうす、ああっと蛇行してしまった!こんな日村祐輔を見るのは初めてです!」
と思っていたら何だこれは!19キロを過ぎたあたりから日村祐輔はまっすぐ走る事ができなくなって来ていた。遊行寺の坂を含んでいたとは言え18~19キロが3分34秒と全てが坂だった17~18キロより更に悪くなっている。残り2.5キロ、その2.5キロがどれだけ長い事だろうか、堺監督や柏崎以上に本人の気持ちを察するに余りある。
もちろん勝負は勝負だ。大木監督や藤田も日村祐輔の事情は分かっているだろうが、手を抜いてやる道理はない、そしてそれこそ日村祐輔にとっての冒涜だと言う事もわかっているだろう。
昨シーズン、天道は三冠全てで2位にもなれないと言う惨敗を喫した。そしてその三冠全ての2位が太平洋だった、要するに天道は昨シーズン一度も太平洋に勝てなかったのだ、柏崎がいなかった太平洋に。あの時の僕は勝利を追い求める事ができなかった。柏崎がいない太平洋に勝って何になる、ただの空き巣狙いじゃないか。そういう考えに囚われた僕はレースに集中できず、出雲であんな凡走をやらかしそして惨敗を招いた。そしてその悪い流れを引きずったまま全日本、箱根を過ごしては太平洋に勝つどころか徳政と日本ジムナスに優勝を奪われたのもむべなるかなと言う奴だ。据え膳喰わぬは男の恥とか誰が言ったかは知らないが、柏崎の故障と言う天道にとっての絶好のチャンスをフイにするような走りを出雲でしてしまった結果があの昨シーズンの醜態だったのだ。
「2号車です!ついに1号車が見えました!差はもう30秒あるかないかでしょう!」
遊行寺の定点ポイントではまだ1分25秒の差があった、それが4キロほどで30秒になってしまったのだ。いや正確に言えば2キロほどでか、藤田の16~18キロのタイムは5分51秒とそんなに日村祐輔と変わらないのだから。
「ついに残り1キロ、日村祐輔が懸命に足を動かしています、後ろの藤田の足音に気付いているか!もう差は10秒もないでしょう!」
1号車のカメラに天道がはっきりと入って来た。日村祐輔の苦しむ姿は見たくない、見なければならないんだろうけど見たくない。だから僕は藤田に必死に視線を集中させ、そして声援を飛ばす事で気を紛らわさせた。
「ついに藤田が日村祐輔を捕らえた!8区残り800mで首位交代!全く今年は何と言う年なのでしょうか!箱根の魔物は一体どこまで暴れ回るのか!」
そして藤田は日村祐輔を置き去りにして前へと歩を進めた。もういいだろ先頭を映せ映してくれと思っていたが、それが叶わぬ望みである事はよくわかっている。
「ああっと歩いてしまった!いや走り出した、残り500mもう順位はどうでもいい、このタスキを渡す事だけが重要だ、さあ日村祐輔必死に歩みを進める!」
もう目を向ける事はできなかった。同じランナーとして、一昨年箱根の7区で完膚なきまでに叩きのめされた身として、日村祐輔のこんな姿を見ていられなかった。その間に天道が先頭でタスキを戸塚中継所に持ち込んだと言う実況が聞こえたのでその時だけは視線をモニターに向けたが、もうそれが限界だった。
こんなに耳を塞ぎたいと思った事はいつ以来だろうか、3年前の大惨敗の時以来だろうか。いやその時以上だろう、その時は悲しさや辛さより悔しさと呆然自失の要素が大きかった。
「日村祐輔が戸塚中継所に来ました、甲斐学院が横をすり抜けて行く中今タスキリレー…そして崩れ落ちました!顔からは汗、目からは涙があふれています…そして今徳政がタスキリレーを行う中日村祐輔が運ばれて行きます…」
その言葉に僕は安堵の溜め息を吐かずにいられなかった。もちろんこの結果が喜べるものではない事は明白だが、彼はまだ3年だ来年やり直しがきく、いやこれからいくらでもやり直しがきくはずだ。
当然ながら日村祐輔は区間最下位、そして区間賞は何と八重大の新島だった。
倭国、下総、使命館、周旋、相模の5校を抜いて18位から13位まで順位を上げた。関東以外の大学が区間賞を取るのは史上初、いや50年前にもあったがその時はオープン参加扱いで順位はなかったので「幻の」区間賞であり、正式記録として関東以外の大学が箱根駅伝で区間賞を取ったのは史上初である。
何だかんだ言っても天道は強い、最後はやっぱり天道なのか。9区に突入した箱根路をそんな空気が支配していた。もっとも、目を背けてはいけない事実が2つある。1つは、8区まで天道が1つも区間賞を取っていないと言う事だ。このまま優勝と言う事になればおよそ70年ぶりの珍記録だそうだ、正直それで優勝しても実に微妙な話だ(ちなみに1回ならば5年前にあった)。
もう1つは、太平洋の事である。
「太平洋が甲斐学院を抜いて3位に復帰しました。日村祐輔が命がけでつないできたタスキ、そして天道はまだ射程圏内にいます。柏崎の為にも、日村祐輔の為にも、太平洋は最後まで諦めはしません」
戸塚中継所での差は1分39秒、十分に射程圏内である。いくらアンカーが久保とは言え、これまでの事を考えれば何が起こってもおかしくはない。太平洋の地力を考えれば、考えれば……あれ?3位に上がった?じゃ2位はどこだ?
「今最終ランナー、無双が戸塚中継所を通過して行きました!先頭天道が通過してから15分47秒後(復路一斉スタートだったので実際のタイム差は19分03秒)です。これはどうやら鶴見中継所も繰り上げなしで終わりそうです!」
先頭争いが混迷を続けた結果、どうやら25本のタスキが繰り上げなしでつながりそうだと言う報が飛び込んで来た。そしてそこで僕はようやく2位の大学の名前に気付いた。
……えっ、任天堂大学だって?
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