8区・復路の失望
「午前7時、芦ノ湖。芦ノ湖の空は昨日同様、青く澄み切っています。しかし大きな違いが1つあります。それは125人のランナーが、己が全ての思いを込めてこの芦ノ湖まで持って来た25本のタスキが存在する事です。今、芦ノ湖はランナーたちがタスキと一緒に持って来た熱気であふれています。そして今日は更に125人のランナーが、仲間たちの思いを受けてタスキを大手町へと運びます」
復路開始1時間前、事前番組が始まった。それにしても今日は暑い、本当にランナーたちが持って来た熱気が作用したかのようだ。昨日は12時15分の小田原中継所で7℃だったが、今日は午前7時の芦ノ湖でもう6℃ある。
天気予報によれば同じ12時15分ぐらいの時間に通過するだろう鶴見中継所の予想最高気温は14℃だそうだ、昨日とはえらい違いだ。普通の人でも体調を崩しそうな気温差である、ランナーに取ってはなおさら大きな問題だろう。そう考えると気温は高いのに背筋は寒くなってくる。
何せ昨日の時点で1区の関東基督教の出遅れ、2区の忠門の来生の大ブレーキ、5区で日本ジムナスの区間18位のブレーキ。太平洋だって1~4区が区間7位、8位、11位、15位と柏崎がいなければとても往路優勝できたチームではない。天道も1区2位はいいとしてもそれ以降が11位、8位、9位では威張れた物ではない。
「太平洋の堺監督は日村恵一が誤算だった、あと1分は前でタスキを渡してくれると思っていた、しかしそれが成らなかった事が3・4区のランナーに2年ぶりの山となる柏崎に負担をかけまいとして無用なプレッシャーを与えてしまったと語っていました。一方で天道の大木監督はタイム差は想定内だが小ミスが多すぎた、太平洋にも失策があったから現在の差で済んでいるだけだと厳しい表情で語っていました」
洋天対決、事前予想ではそういう言葉があちこちに溢れていた。全日本の覇者である太平洋の洋と出雲の覇者である天道の天を取って洋天対決とか言うらしいが、今は正直聞きたくない言葉だ。そのネーミングはどうかとかいやせめて天洋対決だろとか言いたい事はあったが、何より太平洋も天道も現時点までその期待に応えるような走りができていないのだ。もっともこの言葉自体は太平洋が出雲を勝ち天道が全日本を勝った一昨年でも使われていたが、その時は太平洋があの歴史的大勝利、天道も大学記録で走ったのだから期待に応えられたと言えるが、今年は……。もう僕が何を言っても仕方がない事だが、復路のランナーたちにはどうか、もちろん天道だけではなく太平洋のランナーたちにも三大駅伝の覇者にふさわしい走りをしてもらいたい。だが昨日の寒さに続き今日のこの暑さではそれは儚く淡い望みなのだろうか。
とにかく、運命の銃声は鳴らされた。
1月3日8時00分、太平洋のランナーが復路のコースへと飛び出して行った。そして8時1分18秒、天道のスタートを告げる旗が振り下ろされた。今から8分30秒の間にあと16回その旗は振り下ろされる、最短では5秒最長でも1分25秒の間隔で。そして16回目の旗からわずか12秒後に繰り上げ一斉スタートの銃声が鳴り響く。このスタート時からの忙しい時間の動きが、今年の往路の混沌ぶりを雄弁に物語っていた。
この6区の過酷さは箱根に携わる者ならば全員が知っている。はっきり言って、10区間中一番過酷な区間だ、2区や5区の方がずっとましだ。上りならばスピードを落とせばいいが、下りではそれができない。自分の限界を越えた速度を出そうとすれば当然ガタが来る、残り3キロの平地(いや実際は下りだけど)でガクッとなってしまう。
「今太平洋が最高点を通過しました。これからいよいよ834mを一気に駆け下って行きます」
もっとも6区の最初5キロは上りだ。本格的な下りが始まるのは最高点を通過してからであり、本番である。もちろん最初の5キロを無下にする訳には行かないが、実際問題この5キロで順位が動いた話を僕は知らない。いや一斉スタートの中ではあるのかもしれないが。
さて、天道は太平洋を必死に追い掛けているはずなのだが、最高点の時点では逆に6秒離されてしまった。地力とかそういう概念以前に、前が見えないのは辛い。6区でなくったって1分18秒も離されていれば前が見えないのは当たり前だが、正直追うべき敵が見えないと言うのは辛い話だ。そう考えると改めてまるで見えない所にいたはずの僕らを追い抜いた柏崎の偉大さを思い知らされた気分になって来る。そういう意味では使命館は気の毒かもしれない。12秒前と言う極めて手頃な位置にいる存在は繰り上げ組にとっては格好の「的」であり、後ろに活力を与える存在でもある。
いやとにかく天道だ。昨日同様お客さんの歓声であふれかえる小涌園を先頭で通過したのは太平洋だ。天道にも同じぐらいの声援が鳴り響く。しかしその走りはと言うと
「現在2位天道と太平洋の差は1分30秒と若干開きました」
負けているじゃないか!残り3キロに余力を残しているのならばいいが、そうでないとすると正直まずい。何せ、
「甲斐学院が上がって来ました、3位スタートの徳政とスタート時17秒あった差を詰めて現在並走状態です、太平洋との差は現在2分10秒です」
ここまでの4人の中で甲斐学院のランナーのタイムが一番いいのだ。下手すると甲斐学院に抜かれるかもしれない。いやもうすでに1分12秒の差を40秒にされたのだから結構やばいのだが、正直どうも危機感が伝わって来ない。あるいはこの暑さでブレーキを恐れているのかもしれないが、よその区ならばともかく6区でそれが通じる物なのか。
とにかく次の定点ポイント、大平台までに何とかしないと危ないぞ。中継所地点で差が2分を越えると黄色信号が灯る。そしてその黄色信号のせいで後続がますます急かされる、それにこの暑さが加わったらと考えるとそれだけで恐ろしくなってくる。
「小涌園です。使命館が18番目(18位ではない)争いを繰り広げています。繰り上げ一斉スタート組の中で維新大学が早めに動いて使命館を捕まえにかかりましたが、使命館もこれに付き従い3キロ近く並走を繰り広げ後続を突き放しました。そしてチラチラ前に見えるのは倭国のランナーです」
そして使命館だ。どうしたって今年一番耳目を集める存在はここになってしまうだろう。柏崎のラストランも終わった今、半世紀ぶりの関西からの挑戦者に耳目が集まるのも当然だった。しかも往路時点で10位だった中心との差は4分5秒、シード獲得の可能性がないとは言えない差、となればますます耳目が集まるのは火を見るより明らかである……あれ、何かおかしい。
何、小涌園の時点で区間7位?まあそんなもんだろうなと思っていたら、天道じゃなく太平洋の選手のタイムだった。天道はと言うと区間9位、大差がある訳ではないが太平洋との差を広げられている事には間違いない。じゃあ区間1位は誰なんだよって言う話だが、甲斐学院かと思ったらそれとて区間4位に過ぎない。徳政は甲斐学院に追い付かれているからそんなわけないし……。
「太平洋のランナーが今大平台のヘアピンカーブを下って行きます」
いやいやそんな事は後でいい、今は先頭だ。見た所太平洋のランナーは速い遅いは別にして極めて順調だ。これでは大きなミスは起きないだろう、まあそれを期待したらその時点で負けなのだが。実際、そういう王者の走りをされると追い上げる側としては実にやりにくい。それをやって勝って来たのが天道なのだが、やられると実に厄介だ。
さて、天道のランナーが大平台にやって来た。タイム差は1分27秒、3秒詰めたと言うよりはほぼそのまんまとでも言うべき状態だ。悪くはないが、どうせならば芦ノ湖の時点でのタイム差から1秒でも詰めて小田原中継所に持って来て欲しい。もっとも、小田原中継所でどういう状態で持ってくるかが最重要事項だ。定点ポイントはあくまで定点ポイントでしかないのだから。
そしていよいよ、最後の難関と言うべき残り3キロに太平洋が突入した。その3キロをどれだけのタイムで乗り切れるかが運命を分かつのだ。見た所太平洋の選手はどこでもマイペースを崩す事なく安定感あふれる走りを繰り広げている。あれがかつての天道の走りだったのにと思うと正直憎たらしいばかりだ。そして憎たらしいとばかり言っていられない現実が襲いかかって来た。
「2号車です!甲斐学院が迫って来ました!芦ノ湖では1分12秒あった天道との差が現在もう5秒です!この残り3キロで順位の交替があるんでしょうか」
ぐうっ、何をやっている!天道は太平洋を倒さねばならないチームなのに甲斐学院に負けてどうする!?甲斐学院を軽視する訳ではないにせよ、太平洋を倒すために戦って来たはずなのに。タイム差も大平台から函嶺洞門までの4キロほどの間に17秒開かれた。こんな調子で久保に回して逆転できるのか!?いくら久保でも2分が限度だろう。それ以上は相手がつまずかない限り、そんなするだけ無駄と言うよりしてはいけない期待通りの事が起きない限り無理だろう。しかも向こうには日村祐輔がいる。その日村祐輔を向こうに回して差を開かれないはずがない。少なくとも7区と9区で日村祐輔に負けるであろう分を勝たねばならない……この6区でものつもりだったんだがなあ。
結局、残り1キロで天道は甲斐学院に捕まり3位に後退、太平洋との差は1分55秒と37秒開かれてしまった。4位の徳政とは35秒差とこっちも詰められてしまった。後ろでは5位忠門はそのまま、城東が任天堂を抜いて順位を6位に上げていた。しかしこの暑い山下りだと言うのに、うちも含めて倒れるランナーがいない(むしろ倒れ込むぐらい全力で走って来て欲しかったけど)。
ああっと、学連選抜の皇室大のランナー河内が倒れ込んだ!いやちゃんとタスキはつなげたが、それにしてもまさに全力を使い果たしたと言うべき走りだ。ああいう走りができたらなあと思わず羨ましくなった。その上に結果まで伴っていたんだから言う事のない話だ。具体的に言えば、4人抜きで総合13位まで上がって来たのだ。10位とのタイム差も1分55秒と現実的な数字になって来た。
この6区の区間賞は往路16位の周旋で、区間2位が往路15位の帝国で、その次が河内であった。要するに往路15~17位の3チームのランナーが6区の1~3位だったのである。その結果周旋は12位帝国は11位学連選抜は13位となり、関東基督教は区間6位で走りながら14位のまま、区間2ケタ順位の下総と相模は15・16位に転落、区間22位とブレーキになってしまった倭国は使命館と維新にも捕まり19位にまで順位を落とした。
要するに、この6区も平穏無事とは口が裂けても言えない結果だったのである。往路に続いて大波乱が起こるのは既定路線だと言わんばかりのこの展開に、僕は思わず手を合わせずにいられなくなった。
7区、例年気温差に悩まされる区間である。最初は小田原からの山風で涼しいのだが後半はかなり暑くなる。今年は小田原中継所の地点でもう10℃を越えていたのでそういう意味ではましかもしれないが、往路の事、6区の事を思うと正直どうなるかわかりゃしない。
7区には二宮しか定点ポイントはない。そこまではどうなっているのか詳しい事はわからない。もちろん天道、そして太平洋についての情報は入って来るのだが、余所はどうなっているのかとなるとほぼテレビ放送を頼りにするほかない。実際問題、今の天道は太平洋云々の前にまず甲斐学院を捕まえなきゃならない。とりあえず小田原中継所では9秒の差があった、すぐ取り返せるはずの差だ。しかし、未だ天道が2位になったと言う情報は届いていない。
「先頭の太平洋が快調なペースで二宮を通過しました」
一方で太平洋は順調らしい。スタミナと根性でゴリ押しの走りをする僕が走りを語っても滑稽だが、正直いい走りをしている。実際にタイムもいいらしい。それで天道は……
「2号車です。現在3位の天道につけています」
まだ3位なのか!?と言うか小田原中継所と比べてずいぶん距離が開いてないか?1キロ近く離されてないか?
「3位の天道が今二宮を通過して行きます。トップとのタイム差は3分ちょうどです」
何をやってるんだ!そんなんで勝てる訳がないだろ!地力が足りないのならば仕方がないが、5000の持ちタイムで僕を3秒上回るようなランナーがそんなタイムでいい訳がないだろ!5000とハーフは違うのは言うまでもないが、起用してくれた監督の期待を裏切るつもりか!それじゃ太平洋はおろか甲斐学院さえも捕まえられないのも無理はないか。もっとも、二宮の時点でも甲斐学院との差は12秒しかない。太平洋がよくて天道が悪いだけでなく、甲斐学院も悪いのだがそれにしてもである。
そして今年は一昨年のような失望だけではなく、混沌まで襲いかかって来るから性質が悪い。
「3号車です、帝国大が上がって来ました!往路15位と苦しんだ帝国ですが小田原中継所で11位に浮上、そしてこの7区では既に中心と稲田を捕まえ9位に浮上、そして日本ジムナスも射程圏内に捉えています!」
二宮の時点で太平洋が区間2位と聞いて、じゃあどこが1位なんだよと思ったらまた帝国だった。往路15位と振るわなかった所が復路では天道はおろか太平洋すら凌駕している走りをしているとなれば、展開が落ち着くはずもない。
天道は区間何位なんだよ?17位だよ!……17位だよ……。甲斐学院が14位と決していい訳じゃないのに追い付かないはずだ。
「大変です、天道がまた順位を落としそうです!徳政がもう3秒差ない所まで詰めて来ました!両者の勢いが明らかに違います」
そしてまあ覚悟していたとは言えこれか。二宮の時点で区間8位だった徳政が区間17位の天道に追い付けないはずはない。こんな調子で優勝などできる訳もない。
平塚中継所に太平洋が飛び込む。そしてタスキを受け取った日村祐輔が飛び出して行く。天道はその1キロ以上後ろを走っている。いくら8区が藤田でも日村祐輔に勝てるとは思えない。1分差で終われば上出来と本人も大木監督も言っていた。この状態から1分差を付けられれば完全に終いだ。久保1人で4分をひっくり返せる物か、いや2人でも4分をひっくり返せる物か。うちに柏崎がいる訳じゃなし……。
そして案の定、天道は徳政に捕まり4位まで順位を落として平塚中継所にやって来た。徳政は最後に甲斐学院を捕らえて2位になり、天道に20秒の差を付けた。徳政と太平洋の差は3分3秒。つまり天道と太平洋との差は3分23秒、小田原から比べて1分半開かれた。ちなみに区間賞の帝国と比べると2分半悪い。
全く、真夏でもないのに太陽がいやに強く照って、この箱根路を不必要に暑くしているように思えて来る。真冬の気温に慣れている中14℃になれば暑く感じるのは当たり前だが、その理屈以上の暑さが僕らにまとわりつき、優勝と言う名の希望を蝕んで行く。正直、この時の僕の目を表現するのに死んだ魚のような目という言葉以外にピンとくる言葉はなかっただろう。
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