7区・僕の最後の戦い

 もっとも次の3区とてすんなり収まる気配はない。




 百地、倭国の留学生、嘱託の留学生が控えているだけに今度こそ区間記録が出てもおかしくはなかった。そしてまたもやと言うべきか日本ジムナスがこの時点で10位、倭国が11位だった。嘱託は20位と苦しんでいたので両者に絡んで来る可能性は薄いだろうが、いずれにせよ百地と倭国の留学生が並んで走る展開になる事は必至だった。また来生のような事が起きなければいいのだけれど、その不安が僕の頭に霧のように立ちこめていた。


 天道はと言うと、開始5キロ余りで太平洋との10秒差を詰めたもののそれきり抜く気配もなく並走状態である。それで前が落ちればいいのだが、10キロ地点で甲斐学院・城東・徳政が区間3~5位ではそれも望み薄だ。言うまでもなく1位と2位は百地と倭国の留学生で、つまり6位以下のタイムで並走しても前との差が詰まらないのは当たり前だ。何をやっている仕掛けろと言いたい、言っても届かないんだろうけど。

「百地と倭国の留学生が凄い走りを見せています!現在の所区間記録より10秒早いタイムです」

 そして百地と倭国の留学生の2人は次々と前のランナーを追い抜きやがて天道と太平洋の4位集団に迫って来た。そこでようやく危ないと思ったのか2人してスピードを上げ始めた。まったく、太平洋も天道も前の3校が見えていないのか?確かにお互いがお互いを最大のライバル視している事は確かだがとりあえずは日本ジムナスと倭国、いや前の3校に勝たなければどうしようもないじゃないか。

 もっとも、倭国の留学生はこの寒さに耐えられなかったか2人に取り付いた所で足が止まった。一方で相変わらず百地はペースを落とすことなく2人を追い抜いた。天道と徳政の間には戸塚中継所の地点で1分10秒差があったが、15キロ地点では1分27秒と離されている。一方で百地と徳政の差は2分40秒から1分ちょうどになっている。とにかく百地のペースが半端ではないのだ。確かにあれに付き合うのはやめてもらいたいが、かと言って甲斐学院・城東・徳政を追うのをやめないでもらいたい。


「日本ジムナスの百地、今タスキリレー!7人抜きで3位まで上げて来ました!そして区間新記録です!」

 結局百地は区間新記録を達成、最終的には3位まで順位を上げ3分あった甲斐学院との差を36秒にまで縮めた。2位は徳政が城東を残り3キロで抜き去り、城東は最後に百地に捕まって4位になった。天道は最終的に太平洋を振り落としたものの、タイムとしては百地、倭国の留学生、徳政、嘱託の留学生、忠門、甲斐学院、城東に次ぐ区間8位に終わった。太平洋との間には24秒の差を付けられたものの、柏崎相手にこんな差などなぐさめにしかならない。



 とにかく自分自身だ、僕の最後の箱根まであと50分余りだ。4区は全区間中唯一20キロを切る短距離区間だ。正直、そんなに優秀なランナーが出てくる訳でもない。言い換えれば、層の厚さが出てくる区間でもある。…と思ったが今年はそうも行かない。稲田がなんとこの4区にエースの松嶋を投入して来たのだ。調整がうまく行っていないのかと思ったが、そうでもないようだ。稲田は平塚中継所で13位だったが、松嶋にタスキが渡るやあっと言う間に順位を上げ出した。


「関東基督教が振るいません。2区で一度7位まで上がったものの3区がまさかの区間21位で現在15位。すぐ後ろには使命館が迫っています」


 調子がいい所があればよくない所もある。一昨年の出雲優勝、今季の出雲5位全日本6位の安定勢力の関東基督教が苦しんでいる。使命館としてはちょうどいい標的だろう。出雲と全日本の両者で負けた関東基督教を抜けば、ある程度の目的は達成できたとも言える。もっとも、天道とて人の事をやいのやいの言っている余裕はない。

 先頭の方では徳政が甲斐学院を捕まえて首位に上がっていたが、天道は5位のままだ。いや順位はともかく先頭との差は平塚中継所の地点で未だ1分40秒近くあり、それからほとんど変わっていないらしい。ひっくり返せない差ではないつもりだが、それにしてもいささか重い。もっともそれ以上に重要な太平洋との差は開いているようなのだが。


 よしあと5キロだ。最後のウォーミングアップだ。柏崎も隣に控えている、柏崎との最後の対決だ。仮にも前回の区間賞ランナーだ、その肩書に恥じない走りだけはしてやる。

「いやー松嶋君の走りには期待が持てる、って言うか未来を感じますねー」

 ……どうでもいいけど解説者が浮かれ上がり過ぎだ。確かに区間記録ペースらしいが、だったら百地の時も同じぐらい騒げばいいのにと思ってしまう。いやそんな事はどうでもいい、ついにタスキが来た。



 僕は9度目の三大駅伝、最後の箱根へ向けて足を進めた。この時点での順位は1位徳政、2位甲斐学院、3位城東、4位日本ジムナス、5位が天道だ。まず目標は18秒前にいる日本ジムナスだ。

「差は1分48秒だ、逃げ切ってみせろ」

 徳政と1分48秒か、逆転も不可能じゃなさそうだな……えっ逃げ切れ?どうやら1分48秒ってのは柏崎との差らしい。確かに今シーズン、出雲では29秒全日本では48秒しか負けなかったが、それはあくまで平地での話だ。柏崎のホームグラウンドと言うべきこの山で果たしてそれだけの差で足りるのだろうか。なお小田原中継所の時点で徳政との差は1分39秒だった。とりあえず最初のポイントは函嶺洞門だ。そこまでで日本ジムナスを捕まえたい。


 あれ?3キロも走らない内に、本格的な上りに入る前に日本ジムナスを捕まえた。どうやら向こうの調子が良くないようだがそんな事は知った事じゃない。こうなった以上次の標的である城東を捕まえなければならない。とりあえず大平台の辺りで……


 あらら?今度は大平台にたどりつく前に城東を捕らえてしまった。どうやら日本ジムナスと城東が区間18・19位(函嶺洞門の時点で)らしいが、にしても……ええいこんな所でもたもたしていられるか!まずは甲斐学院、そして徳政を捕まえてやる!そして柏崎から逃げ切ってやる!


「やはり柏崎は凄まじいな」

 何?函嶺洞門の時点で25秒も差を詰められた?ええい、やはり敵わないとでも言うのか!?いや違う、まだ詰められただけで抜かれた訳じゃない!勝負はこれからだ!大平台の時点で前の甲斐学院とは40秒差、徳政とは1分2秒差まで詰めたらしい。その2校を捕らえるのが僕の目下の仕事だ、柏崎の事は気にしない事にして飛ばし続ける。

 3年前は10区、一昨年は7区を走ったがそれに比べると5区は静かだ。小田原中継所や芦ノ湖はともかく箱根の山中ともなると本当に人がいない。見えるのは箱根の山を象る僕よりずっとずっと年長の木々ばかり、たまに旗を振る人がポツリポツリといるぐらいだ。その上カーブ続きであり、平地の直線道路なら何とか見えるはずの甲斐学院のランナーも見えない。それだけに己との戦いは厳しい。


 おっと、急に騒がしくなって来た。まさか柏崎がもう追い付いて来たのか!?いや違う、この騒ぎ声は前の方からだ。あっ、甲斐学院のランナー発見!一気に捕らえてやる!

「徳政とはもう30秒ないぞ!」

 長い直線、湧き上がる歓声。間違いない、ここは紛れもない小涌谷だ。5区で最も厳しい坂、5区で最も人が多く集まる場所。そして長い直線。見えた、徳政のユニフォームと1号車だ!甲斐学院のランナーを捕まえ突き放した僕の、最後の獲物だ!

 ……………おや?歓声のボリュームが急上昇した。これはまさか!


 …………間違いない、柏崎だ。これほどの歓声を集められる人間は他にいない。柏崎の大学駅伝ラストランと言うこの二度と来ない時間を待ち望んでいたファンがどれだけいるか想像に難くはない。ここにいるだけではなく、テレビの向こうにいるファンも含めれば8ケタを越える事は確実だろう。

 何!?15秒差!?柏崎の力ならば驚かないが改めて数字を突き付けられると重くのしかかってくる。こうなったらまずは徳政を捕らえる事に集中するよりない。とにかくまずは徳政を捕まえてやる!幸いもう徳政は視界に入っている、ここがギアの上げ時だ!


 そして16キロ地点、ついに徳政を捕まえた。向こうは発汗こそしていなかったがかなり息が上がっているっぽい。並ぶ必要はない、一気に置き去りにしてやる!よしこれでついに首位だ、柏崎との戦いの開始だ。


「柏崎が来た!徳政を捕らえついに前を行くは天道のみになりました!現在の所タイム差は12秒!果たしてこの結末はどうなるか!」

 1号車のアナウンサーの絶叫が耳に響く。生ける伝説となりつつある柏崎とどさくさ紛れながら去年の区間賞である僕との激突、全日本の覇者太平洋と出雲の覇者天道の対決となれば盛り上がりが最高潮に達するのは当然だが、それにしても寒さを感じさせないような熱い絶叫だ。僕も負けてはいられない!


 多分最高点で並ばれるだろう。そこからが勝負だ。粘って粘って粘り倒す。100分の1秒でも早く、1ミリでも前でゴールすればいいのだ。それでこそ、僕は柏崎を真に破った事になる。さあ、来るならば来い!……あれれ?

「柏崎が来ました!そしてなんと天道のランナーを一瞥もせずに置き去りにして行きました!何という恐ろしい走りでしょう!やはりこの5区は柏崎の5区なのか!」

 あららら……と思う間もなく柏崎は僕の存在などなかった事かの様に駆け抜けて行った。仮にも先頭を走るランナー、出雲で逃げ切られたランナーである僕を無視するとはどういう了見かと頭に血が上ったが、どうもいつものようにギアを上げられない。疲れた?いやそんなはずはない、まだ余力は残っていると言う自負はある。


 とにかく、最高点を過ぎてからの下りで何とかしてやろうと思ったが、自分ではギアを最高までぶち上げたつもりだったが、全然差が詰まらない。僕と柏崎では持っているスピードが違うから離されるのは仕方がないが、これまでずっと煮えたぎっていた勝負への執着が嫌になるぐらい湧いて来ない。これが僕の4年間のラストランなのかと、その時の僕は自分のことながら驚くほど淡白だった。




 結局、柏崎に抜かれてからの6キロほどで、僕は柏崎に1分18秒の差をつけられてしまった。

 1時間19分45秒と言うタイムで区間2位で走ったのだから凡走ではないはずだが、柏崎に3分17秒負けた事には変わりはない。全日本では48秒だったのに。




優勝 太平洋大学 5時間30分17秒

2位 天道大学 5時間31分35秒

3位 徳政大学 5時間32分30秒

4位 甲斐学院大学 5時間32分47秒

5位 忠門大学

6位 任天堂大学

7位 城東大学

8位 日本ジムナス大学

9位 稲田大学

10位 中心大学 5時間36分00秒

11位 下総大学

12位 相模大学

13位 倭国大学

14位 関東基督教大学

15位 帝国大学

16位 周旋大学

17位 日本学連選抜

18位 使命館大学 5時間40分05秒




 時差スタート18チーム、一斉スタート7チーム。

 そして使命館も時差スタート組に加わる事になった。メディアでは柏崎の記録と同時に時差スタートを勝ち取った使命館の奮闘を高く評価していた。使命館の監督は今回の目標は繰り上げスタートなしと言っていたが、復路一斉繰り上げスタートは覚悟していたと思う。それすらなしで往路を終えた事は十分に評価されてしかるべきだが、辛辣な事を言えば5区間の中で区間2位以上を2回取ったのが天道だけ(それも区間2位2回)と言う混乱状態のなせる業だろう。例えば日村恵一が本来の力で走る事ができていたりしたらおそらく繰り上げ一斉スタートになっていただろう。もっともタラレバを言えばキリがない、タラレバこそ勝負の世界で一番の禁句だ。運だと言ってしまえば身も蓋もない話だが、結局はそんな物なのかもしれない。


「明日はうちの久保と太平洋の日村祐輔との勝負になる、だがむしろそれ以外の4人の出来が勝敗を分けるだろう」


 大木監督はそう復路のメンバーに訓示した。やはり久保を使わずに太平洋に勝つ事などできるはずがない。もちろん久保だって去年の悔しさを忘れてはいないはずだ。今年こそやってやろうと思っているに違いない。

「最後は久保が何とかしてくれる、それまで太平洋を離すなよ」

 えっアンカー!?と正直僕は驚きを隠せなかった。エースを1区に使うのは稀にあるが、アンカーに使うなど聞いた事がない。日村祐輔は8区にエントリーしている、だからそこにぶつけるか、さもなくば一昨年区間賞を取った9区のどちらかだと思っていた。

 あるいは太平洋の逆をやってやろうとしているのかもしれない。一昨年、天道は柏崎の存在に圧されてレースを狂わされ、その顛末があの9分30秒差だった。最後に久保と言う大砲を置く事により太平洋を牽制しようとしているのだろうか。

 大木監督ならば間違いないと思いつつも、僕は寂寥の感に捕らわれていた。もう自分ができる事はただ1つ応援だけなのだと、そして明日をもって僕の天道大生としての陸上は終わりを告げるのだと。だからこそほどなく同僚となる柏崎に、いやそうでなくとも4年間の三大駅伝で同じ区間を4度も走った間柄として何か言葉をかけるべきなのだろうが、それが呆れるほど何も出て来なかった。今の僕はまだ、太平洋を破って箱根を勝ちたい天道の駅伝主将なのだ。僕はその事を実感せずにいられなかった。

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