4区・立川魔物見物

 あの出雲から1週間後、僕は立川に来た。


「今年の日本ジムナス、一昨年の徳政・関東基督教。今や予選会からの出場校だから気にする必要はないなどという甘い考えは通用しなくなっている」


 去年、出雲の惨敗に打ちひしがれた僕はこの予選会に来なかった。惨敗の悔しさを紛らわすためにトレーニングと言う名の現実逃避に走った。その結果予選会を走って来た日本ジムナス大に敗れた。その失敗を2度と繰り返してはならない。

 正直な話部員の中には予選会の視察に来る事を渋る人間もいたが、僕はそういう後輩に対し先のセリフを叩き付けて黙らせてやった。ましてや今年は記念大会で枠は13個もあるのだ、ますますどんな学校が出てくるかわからないじゃないか。


 甲斐学院、稲田、文学院、東方文化、維新、下野、城東、東京アグリ、中心と言った去年の出場校に無双、倭国、湘南、嘱託、周旋、東亜と言った復活を目指す学校。一見広く見える枠だがこの中の少なくとも2校は箱根を走れない、ましてや今年は「関東学連選抜」ではなく「日本学連選抜」であるだけにこの予選に落ちた場合箱根を走る事に対してのハードルはますます高くなる。

 エースと言うべきポテンシャルの人間ならば選ばれるかもしれないがそれはあくまで本人1人だけのレースであり大学として、ずっと一緒にやって来たチームとしての駅伝じゃない。

 学連選抜もチームだろ?いや大変失礼な言い方だが学連選抜はせいぜい2ヶ月半のチームだ、学校は1年生だとしても入学してからこの箱根予選まで半年はチームとして活動している。どっちが思い入れが深くなるかは自明の理だろう。だからこそ、何としても自分のタスキで走りたいと言う思いが各チーム上から下まで全員にあるのだ。

 それを忘れてしまった一昨年、天道はこの立川に送られかかってしまった。確かに天道は王者だ、王者だった。王者が崩れる時と言うのは初心を忘れた時だ。あの大木監督だって最初のシーズンは予選会6位(ギリギリ)通過で本戦も14位(ブービー)だったのだ。箱根を走れるだけで先輩たちは嬉しかったのだろう、そういう気持ちを忘れたらどうなるのか、僕は移動の間ずっとそんな事を言っていた。柄にもなく、いや本性を剥き出しにして喋る僕に後輩たちは少しうんざりしていたようだが、それでも僕は構わず口を動かし続けた。




 12人の内、上位10人のタイムで成績が決まる、それが予選会だ。

 一番重要なのは誰なのか。ズバリ、10番目の選手だ。確かにエースにはタイムを稼ぐ役目があるが、エースと呼ばれる人間は基本的に精神が強い物、要するにどんな条件でもある程度以上のタイムを出せる物だ。そして一定以上のタイムを出すランナーなんて所詮有限だから、そう考えるとエースでは意外に差がつかない物だ。

 一方で8~10番目の選手と言うのは走力もさることながらそんなに強靭な精神力を持っている訳ではないだろう、しかし実際にはエース同様にチームの浮沈を担っている。その負担に耐えるのは非常に辛い事だと思う。その強靭とは言えない精神力に背負わされる負担の重さたるや、想像するだけで同情を禁じ得ない。まあそういう事はシード校である僕たちにだって等しく言える事だ。箱根は10人で走る物だ、そして距離やその他の条件は色々あるにせよ10人にかかる負担はほとんど差がないのだ。予選会の場合は全員のスタートも同じ、距離も同じだから尚更責任と負担は等しくなる。ある意味で本戦以上に厳しい戦いなのだ。その戦いを勝ち抜くべく修練を積んで来た日本ジムナスがあんなに強かったのも筋が通っている話だ。じゃ同じようにトップ通過しておきながら惨敗した去年は何だと言う話だが、どうやら一昨年の予選会の時は全日本の出場権を得た事もあり自分たちにとって予選会通過など当然だと思っていたらしい、そしてトップ通過して「しまい」自信が過信に化けてしまったのだ。これは今年のインカレで監督から聞かされた話だから間違いない。


 稲田、下野、湘南。忠門、帝国、任天堂と並んで6月に行われた全日本予選を突破したこの3校と全日本のシード権を持っている甲斐学院の合わせて4校がトップ通過有力候補と言われている。ちょっとやそっとの狂いがあった所で枠は例年より広いし余裕であろうと言う観測が大半を占めていた。

 だが僕はそういう下馬評に耳を傾ける気はない。大体、下馬評という言葉自体が下馬先で主の帰りを待つ間供の者が色々と無責任な評判をしたと言う事から来ており、元々信憑性は薄い。大体、一昨年の箱根で太平洋の優勝や天道の惨敗を予想できた人間が何人いるだろうか。太平洋の優勝はまだしも、天道の10位を予想できた人間は1人もおるまい。

「かなり不安があるんだよな」

 そしてコーチがそんな事を言っていたチームが1つあった。湘南大学だ。

 湘南はここ2年連続で箱根の出場を逃しておりかなり苦闘中のチームであるが、今年度は澤村と言うエース候補が加入してかなり威を上げていた。インカレでは5000のみだったので僕は直に戦っている訳ではないが、そのインカレでは3位を獲得した。10000の持ちタイムで言えばさすがに柏崎には負けるものの久保とほぼ同レベルの選手だ。その澤村のお陰で湘南は5年ぶりに全日本の出場権を獲得できたのである。

 ではその湘南がなぜ不安視されるか。澤村が故障しているとか言う訳ではない。全日本予選は8人(本戦も8人だけど)で走る物であり、箱根予選は最低10人で走る物である。要するに全日本予選より最低2人多く出さねばならない、その2人がかなり劣っているのが問題なのだ。稲田や下野などと比べるとその9、10番目の選手の10000のタイムが30秒程度悪い。何だ2人で1分程度じゃないか、澤村が何とかするだろ?いや下が当てにならないとなると上にかかる負担は大きくなる、その結果暴走してブレーキを起こし、その結果下にかかる負担がさらに大きくなり……と言う悪循環が起きかねないのだ。日本ジムナスの今年の箱根での区間順位を見た所最低が区間7位(1区)なのに対し太平洋は12位(5区)、天道に至っては18位(4区)だ。駅伝では大エースより層の厚さが重要だと言う事が嫌と言うほどわかる話である。

 とにかく、今から始まる戦いは気楽な個人走とは違う。個人走ならば失敗しても恥をかくのは自分1人、迷惑をこうむるのも自分1人だ。ところがこの箱根予選は1人の失敗が残る最大11人に波及する。正直、学生三大駅伝の経験7回の僕でさえ考えるだに恐ろしい話であり、そのプレッシャーに1年生が耐えきれるだろうか。僕に精神論を唱える気なんかはさらさらないけど、身体能力が一流で精神力が三流のランナーと身体能力が三流で精神力が一流のランナーがいたら、僕は後者を重く使うだろう。人それぞれの限界はあるにせよ、その限界に必死にたどりつこうとする努力、自分の限界を知りその範囲内でレースができる器用さ、どんな困難な状況でも一定以上の活躍ができる安定感。マラソンではともかく駅伝においてこれほど大事な能力はないからだ……まあ全ては僕の私見の範囲を出ない話だけれど。

 


 号砲が鳴った。40大学462人のランナーの、13個のイスをかけての死闘が始まったのだ。例年より4つ多いとは言え、所詮狭き門である事には変わりはない。少なくとも去年は15位と16位の間に7分の差があった。1人5秒でも埋めるのに四苦八苦すると言うのに7分つまり1人あたり42秒を埋めるのがどれだけ厳しい事か。それでも全ての大学が箱根路を目指しこの1年の努力の成果をこの立川に叩き付けに来るのだ。ここに立ってしまえばみんな条件は同じ、後は自力(地力と言うのとは少し違うと思う)だけの勝負なのだ。


 開始1キロ、早速この大集団から数人の選手が飛び出して来た。甲斐学院・倭国・嘱託・平成地球大の留学生に、湘南の澤村だ。平成地球大はここ数年留学生を投入しながら倭国や嘱託と同様に箱根からは遠ざかっているが以前1度出場した事がある。その時はまだ留学生2人が許されていたのが大きかったにせよ、この枠の拡大を絶好のチャンスと捕らえ一気呵成に押し切る作戦に出てもおかしくはない、まるで出雲の使命館のようにだ。あの時使命館は最終6区でも下総に抜かれただけで7位でゴールした、要するに関東の大学11校の内5校に勝ったのだ。作戦が成功したと言う何よりの証拠と言ってよい。同じ事を他のレースでと言う考えが他のチームに湧き上がって来ても全く無理からぬ話だ。

 果たせるかな、そう思う間もなく平成地球大の留学生が他の3人を置き去りにせんとペースを上げた、どう考えても20キロのレースを走るペースじゃないスピード(後で聞いたら1キロ2分40秒だったそうだ)だ。確かに作戦としてはなくはないが、正直無謀すぎる。これでばてないのならば世界が違うと諦めるが、ばてたら悲惨な事になりそうだ。まあ、一発勝負である以上仕方ないで済まされる話だが……。しかし、タイム以上に目を剥かざるを得ない事実がそこにあった。


 甲斐学院・倭国・嘱託の3校の留学生が傍観していると言うのに、1人付いて行っている人間がいるのだ。他ならぬ澤村だった。確かに澤村は優秀なランナーだとは思うが、留学生と真っ向から勝負して勝てるほど強力な訳ではないだろう。ましてや留学生にとっても無謀なペースなのにそれに付き合おうなど無謀と言うレベルを通り越している。

 もちろん、最初からペースを上げて最後まで粘ると言うやり方はある。他ならぬ僕がやっているやり方だが、それで成功と言うべき戦果を挙げて来たのだが、少なくとも僕の場合それが成功しているのはスタミナがあると言うよりスピードがないからだ。そりゃ頭が熱くなった時には限界を無視したスピードを出すが、その暴走とも言うべきスピードを最初から出し続ければ止まるのは当たり前だ。僕の場合備えているスピードが大した物ではないから最後までガソリンを切らさずに走り続けられるが、澤村のスピードは僕とは桁が違う(5000のタイムでは僕より15秒早い)。その結果自分の体の方がスピードについていけないと言う事態に陥りかねない。もちろん僕と澤村を一緒にしてはいけないんだろうけど、それにしても無謀すぎるように思える。

 案の定、5キロ過ぎから早くも雲行きが怪しくなって来た。後ろの3人の留学生が澤村にへばり付き始めたのだ。その後ろには稲田の松嶋や中心の潮谷と言った日本人エースたちも控えており、これらに抜かれるとそのまま一気に崩壊する可能性があった。予選会は個人順位よりタイムであり、そのタイムを失っては文字通りの本末転倒である。


 そして10キロ地点。ここまでは何とか粘っていた澤村だったが、ついに3人の留学生に抜かれてしまった。それでも平成地球大の留学生が一緒に崩れたためまだ順位としては4位だったが、後ろの松嶋や潮谷が差を詰めており、エースとしては少なくとも彼らと並走しなければいけない。テレビでは10キロのポイントで大学ごとの通過人数を出していたが、この10キロポイントを最初に10人通過したのは甲斐学院で、次は稲田、3番目が城東だったが、湘南の名前がなかなか出て来ない。その内に湘南と同じ全日本出場校である下野が6番目で10人通過し、湘南は結局12番目だった。かなり危ない数字だ。

 澤村がこの現状を知っているかどうかはわからない、けれど知っていたとてどうする事も出来やしない。できる事と言えばただ走る事だけである。それが陸上競技って物だろと言えばそれまでだが、実際澤村にはどれだけの余力が残っているのだろうか。


「澤村がちょっと危なくなって来ています。現在4位を走っている澤村ですが中心の潮谷が澤村の真後ろに取り付きました。さらに少し後方には稲田の松嶋や城東の岩田、倭国の田井中など各校のエースたちが控えています。彼らの猛追を凌ぎ日本人トップの座を死守できるか、そして湘南に3年ぶりの箱根路をもたらせるか、湘南の1年生エースは苦悶の表情を浮かべています」

 テレビカメラに映る画とアナウンサーの実況が澤村の苦闘ぶりを容赦なく伝えていた。その顔から正直余力は感じられない。もっとも柏崎のように顔は苦悶の表情を浮かべていても現実にはまだまだ余裕と言うケースもあるのだが、柏崎は凡百のランナーやそこらのエースとは違う存在だ。澤村が柏崎級であれば僕は口をつぐむしかないが、走りを見ている限りそうとは思えない。


 そして15キロ。この時先頭では嘱託の留学生が倭国と甲斐学院の留学生にやや離されたものの依然として数秒内に留まり、意地を見せていた。だがその後方では澤村が田井中と潮谷に突き放され、岩田や松嶋に苦悶の表情で喰らいついていた。潮谷の独特なフォームには思わず吹き出しかかったが、それで速いのだから誰にも文句を言われる筋合いはない、そう速いのだから。実際僕の走り方も称賛されるべき物とは思えないし。詰まる所結果が全て、数字が全ての世界なのだ。

 15キロ地点を各ランナーが通過して行く。テレビではこれまでと同じように10人通過した大学が並べられて行く。真っ先に10人通過したのは相変わらず甲斐学院だったが、稲田や城東も僅差でくっついている。順位ではなくあくまで目安とは言え、ここになかなか名前が出て来ないとなるとかなり不安になって来るだろう。いや下手に数人通過して名前が画面に乗り、その後数字が増えない(誰も通過しない)方が不安が大きいだろう。

 今回の場合湘南がそれだった。甲斐学院、稲田、城東の次に5人通過したと言うのにそこから一向に数字が増えない。その間に次々と各校のランナーが通過して行き、次の湘南のランナーが通過した時には既に甲斐学院が10人通過、湘南の8人目が通過した時には既に8校が10人通過、やっと10人目が来たと思ったらなんと15番目だった。目安に過ぎないとは言え湘南危うしを告げるには十分な数字である。その後、アナウンサーが15キロ通過時点での正確な順位を告げていた。湘南は12位、まだ何とか通過圏内ではある。だが14位(13位じゃなくて)との差はたったの7秒、はっきり言ってないのと変わらない。

「湘南のエース澤村がピンチです!城東の岩田に加え稲田の松嶋に突き放され、そして東京アグリの浅井や文学院の時口にも捕まり現在10位です」

 下が弱い、その事が上のランナーの焦燥を呼ぶ、そして崩壊を招く。最悪の悪循環が目の前にあった。良いチームと言うのは下が上に近付いていくが、悪いチームと言うのは下が上を引きずり込もうとする。澤村もまた下に引きずり込まれてしまったのだろうか。

 



 やがて全ランナーがゴールインし、そして結果発表の時が来た。


 1位 稲田大学

 2位 甲斐学院大学

 3位 城東大学

 4位 下野大学

 5位 中心大学


 ここまではおおむね予想通りだった。下野は目立った選手はいないものの集団走で着実に走り、最後の5キロで順位を上げていた。

 甲斐学院や中心はトップ通過を目標としていただけに選手は不満顔だったが、それでも勝者である事に変わりはない。


 6位 文学院大学

 7位 倭国大学

 8位 維新大学

 9位 東方文化大学


 文学院や維新、東方文化は通過とは言え去年より順位を落としてだった。その為か甲斐学院や中心と同様に選手たちに笑顔は乏しかった。そしてそれは4年ぶりの出場を決めた倭国もまた然りだった。留学生と田井中は良かったがそれ以外が振るわなかったのだ。2人がいなくなればまた落ちるのではないか、そういう危機感が選手たちから笑顔を奪い去っていた。しかし、それもまた贅沢な悩みなのだろう。これから先は本来ならば箱根を走る事すら叶わない身である。


 10位 周旋大学

 11位 嘱託大学

 12位 無双大学


 それゆえと言うべきか、この3校は出場が叶った事を素直に喜んでいた。もちろんこれから彼らに待ち受ける道程が上位9校のそれと同じく非常に険しい事は言うまでもない。だがとにかく大手町に立ってしまえばみな条件は同じである、今年の日本ジムナスの件がある以上誰もありえないだろなんて言えない。

 とにもかくにも枠はあと1つ、まだ湘南の名前は出ていなかった。後輩たちの集計によれば東京アグリにわずかに負けているらしいが、果たして。


「第13位 東京アグリ大学!」




 ……その通りだった。その瞬間東京アグリ大からは安堵の溜め息(さすがに去年7位通過から今年13位と言う事を思うとすんなり喜ぶ事はできなかったのだろう)、湘南からは悲嘆の声が漏れた。いや、正確に言えばわずかではなく2分27秒になっていた。1人あたま15秒弱、小差に見えるかもしれない数字だが、はっきり言おう。大差だ。去年は18秒で当落が別れたのだ、1人あたまではなく10人全体でだ。実際に今年も9位東国文政と10位周旋の間には20秒の差しかない、さらに言えば13位の東京アグリと東国文政の間にも2分25秒差しかないのだ。暴論ではあるが、東京アグリがいつもの年の通過ラインにたどりつくのは湘南が1つ順位を上げるよりは簡単なのだ。

 去年も一昨年も、湘南は箱根予選を落ちた。けれど両年とも11位だった、今年ならば通過できる順位だった。だが澤村が加わり全日本予選も通りこれまでより強くなったはずなのに、湘南は敗れた。箱根には魔物がいると言う言葉は聞き飽きたし肌身で嫌と言うほど感じているが、立川にも魔物は間違いなくいたのである。そしてその魔物の存在と威力を自分自身を含めここに来た部員全てに感じさせる事ができた、それだけでも今日この立川に来た甲斐があったと言う物である。

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