1区・伊勢路へ行こう!
日本ジムナス大学駅伝寮。選手たちが食べる食事は苦い。
額に入れられて壁にかけられたタスキを見る度に、彼らの心は痛んで仕方がなかった。
半世紀にわたり箱根駅伝、いや学生駅伝界に君臨してきた日本ジムナス大学。優勝回数9回、かつては5連覇も経験した。
時には不調でシード権を失う事もあったが、それでもタスキだけはつないで来た。日本ジムナスは繰り上げスタートと言う制度ができてからそれを成し遂げ続けた唯一無二の存在であり、それが大学と選手たちの誇りでもあった。それが今回、崩された。しかもよりによって戸塚中継所で。
先頭の通過から20分以上(往路の鶴見中継所と戸塚中継所は10分)経っても中継所にたどりつけない場合、繰り上げスタートとなり強制的にスタートしなければならなくなる。その場合一応タスキはかけるが、そのタスキには仲間たちの汗は染み込んでいない。
文字通りのただの布だ。
だからこそ、そのただの布を仲間にかけさせたくないがために、選手たちは例え優勝はおろかシード権の望みすらなくなっても全力を尽くし1秒でも早く仲間にタスキを渡そうと懸命に走るのである。実力が劣っていれば距離を走るたびに差が開くのは当たり前だが、芦ノ湖から63.6キロの戸塚中継所と86.8キロの鶴見中継所で繰り上げにさせられるのはいささか意味が違う。
往路ゴール、つまり5区終了時点でトップと10分以上離されたチームは翌1月3日の8時10分、トップからちょうと10分遅れで一斉繰り上げスタートをする事になる(なおこの場合タスキは昨日までに使っていたそれと同じなので途切れた事にはならない)、要するに更にそこから10分遅れればタスキは途切れてしまうと言う事になる。その場合先にも言ったように新たなタスキをかける事になるが、戸塚中継所の場合は白と黄色の汎用タスキをかける事になる。鶴見中継所の場合は母校の予備のタスキ、つまりこれまでと同じデザインのタスキをかける事になる。
むしろデザインが同じだけにかえって惨めだと言う意見もあるが、今年戸塚中継所で繰り上げになったのは4チームで、鶴見中継所で繰り上げになったのは8チームである。そして鶴見中継所で繰り上げが出たのは昨年こそなかったがここ10年で7回あり、戸塚中継所で繰り上げになったのは5年ぶり(しかもその時は8区途中棄権であり、それを除外すると10年ぶり)である。太平洋大の圧倒的な実力を言い訳にした所で、戸塚での繰り上げが鶴見でのそれ以上に惨めである事は論を待たない話なのである。そしてその惨めな走りを、今年の日本ジムナスはやってしまったのだ。
「今のうちにはもう何もない、ゼロからのスタートだ。いや今年失敗すればもうそのゼロからのスタートも叶わないと思え」
日本ジムナスが急に崩れた訳ではなかった、兆候はあった。今年は19位だったが、去年も18位だったのだ。ただし優勝校の太平洋と日本ジムナスのタイム差が17分30秒(今年の太平洋と8位忠門大との差が17分27秒)、最下位だった維新大学との差が19分55秒と言う歴代最少記録だった事もあり、この惨敗は大混戦の結果、次はこういう事はないだろうと言うどこかだらけた空気があった。
そして何より、夏の全日本大学駅伝予選がいけなかった。
日本ジムナスは昨年度11位、全日本大学駅伝のシード権は持っていなかった。関東の大学の場合、シード権を持たない学校が全日本大学駅伝に出場するためには8人のランナーが4組2名ずつに分かれて戦う予選を勝ち抜かねばならなかった。もっとも分かれると言っても順位は関係なく、単純に8人のタイムを合計して早かった上位6校が出られると言う仕組みであった。その全日本予選を、日本ジムナスは通過した。しかも2位で。
この結果が、日本ジムナスに自信を与えてしまった。そして10月の箱根予選、日本ジムナスはトップ通過した。何だやっぱり日本ジムナスは強いんじゃないか、そんな空気が大学陸上界に流れ、そして日本ジムナス本体に伝染した。そして自信は、完全に過信になってしまった。
そして上位12校が関東で占められた全日本本戦、日本ジムナスは11位、つまり関東のチーム中ブービーに沈んだ。予選で負かした任天堂、関東基督教、忠門がシード権を獲得した中でこの様である。本来ならばこれで目を覚ますべきだったのだろう。だが、それができなかった。
その結果が箱根駅伝のあの大惨敗なのである。17分30秒だった太平洋との差は、34分48秒とほぼ倍になってしまった。
このどん底と言うべき状況のチームを立て直すのに、監督は何を命じたのだろうか。
「所詮走るのは人間だ、それを忘れるな」
これであった。特段珍しい事を言った訳でもない。そして細部においても、特段際立つような事をした訳でもない。
「朝は5時起き、夜は9時就寝。挨拶は欠かすべからず」
そして週一全員でグランド整備、学校周辺のゴミ拾い……本当にそれだけであった。画期的なトレーニングとか、想像もし得ないような練習メニューとかそう言った物は一切なかった。
あえて述べるとすれば、長距離向けの練習を増やした事と、目標に対する集中ぶりであろうか。
「今年の目標はただ1つ、来年度の三大駅伝の出場を確定させる事だ」
監督が選手たちに述べた戦略的目標はそのたった一言だけだった。そして、もっぱら練習はその為に費やされる事になった。三大駅伝の出場権を確定させると言う事は、全日本大学駅伝と箱根駅伝でシードを獲得する(出雲駅伝の出場権は=箱根のシード)と言う事である。だが今の日本ジムナスにはそのどちらに出場する権利もない。要するに、その目標を達成するためには全日本予選→箱根予選→全日本本戦→箱根本戦と4つの大会を勝ち抜かなければならなかった。
「インカレは百地以外下位の選手を出場させる、あるいは百地さえ出さないかもしれない」
練習に関しては特に際立った事をしている訳ではなかったが、目標達成と言う点に関しては一貫していた。関東インカレは学生たちにとって1つの晴れ舞台であり、「目標」としては三大駅伝に勝るとも劣らない価値を持っていた。それを半分切り捨ててまでも駅伝に集中する、それがどれだけの重みを持っているか日本ジムナスの学生たちはよくわかっていた。
「なんでそんな面子なんだ?」
さてその関東インカレ、太平洋の堺監督や天道の大木監督と言った各校の監督は首を捻った。結局日本ジムナスは百地を使わなかったのだ。下位メンバーの育成?それにしたってこの大勝負の場で?
百地がどこか悪いのかと言う噂も流れたが、その1週間前の大会で自己ベストに2秒差のタイムを出している時点でその噂は説得力を持たない物だった。要するに元より出す気がなかったのである。
結果当然ながら、太平洋の柏崎や日村兄弟、天道の久保が暴れ回る中日本ジムナスはほとんど活躍できなかった。辛うじてハーフで入賞ギリギリの8位に食い込んだのがやっとで、5000や10000では16位、10位が最高と入賞すら叶わなかった。この敗北とも言うべき結果に、日本ジムナスの有馬監督は渋面を崩さなかった。そしてその渋面を見ていた世の人間の評価は三つに分かれていた。
「やはり日本ジムナスの退潮傾向はいかんともしがたいのか。百地頼りの状態で今年も箱根予選の突破は出来ても本戦では最下位争いか」
「百地なしで入賞できたことは収穫、しかしやはり太平洋と天道の争いであり百地が加わったとしてもシード争いレベル」
「百地なしでこの結果になった事に有馬監督は満足していない。それはお前たちならばもっとやれるだろうと言う期待の現れであり選手たちがそれに応えればあるいは」
もちろん外野が何を言おうが勝手である。だが少なくとも堺監督や大木監督は三番目の評価であった。
6月、第一の勝負時が来た。全日本大学駅伝の関東予選である。この全日本は箱根よりもずっと狭き門である。箱根はシード校10校に予選通過校9校だが、全日本はシード校6校に予選通過校6校(参加校は20校)である。シード校は全て関東だったのだが、それを加味しても12個しか関東の枠はない。要するに、去年箱根に出た19校のうち、少なくとも7校は全日本を走れない事になる。箱根5位の城東とてこの予選を突破しなければ全日本に駒を進める事はできないのだ。
タイムが重要で各組での順位はどうでもよいのだが、最終の4組にエースが走ると言う向きがあった。実際、実力的に落ちるランナーに心理的負担の大きい最終組を走らせるのはかなり危険である。もちろん走力がない=精神的に弱いと言う訳ではないのだが、実際最終4組にかかる心理的負担は大きい、何せ自分で失敗したらもう誰も取り返してはくれないのだから。当然、百地は4組である。
城東、中心、甲斐学院、下総、稲田、帝国……日本ジムナスの前に立ちはだかる壁は1枚や2枚ではない。もっとも6位に入れば本戦の出場権は獲得できるが、6位でもいいからなどと言う消極的な姿勢でレースに臨んで勝とうなど不可能である。先にも言ったように箱根予選よりも質的にも量的にも厳しい関門であり、何より1人でも失敗したらその失敗を消しようがない。箱根予選ならば最悪2人失敗してもなかった事にできるが、全日本予選ではそうは行かない。
とにかく、号砲は鳴った。まずは1組である。流れからしてここに大物は集まらない。30分ちょうどで走ればトップ争いのレベルである。ところが今年は違った。
維新の2年生があらぬペースで飛ばしたのだ。最初の1キロが2分50秒、次が2分52秒。10000mに換算すれば28分30秒ペースである、甲斐学院の留学生並だ。当然、このペースに付き合えるランナーはいない。維新のランナーにそれほど実績がある訳ではない。去年は全日本予選を走っておらず箱根予選も総合108位チーム中8位に過ぎなかった、そして学連選抜に選ばれたわけでもない。はっきり言って無名そのもののランナーだった。
「無視を決め込む」
それしか取るすべはなかっただろう。もっとも維新大の側にしてみれば4組にエースを残しているもののそれ以外の面子はお世辞にも強いとは言えず、ここで大量リードを開けて何とか後続に良い流れを繋ぎたいと言う事情もあるのだろう。いわゆる一か八かのギャンブルである。それに付き合えば自分たちも巻き込まれるのは明白だった、関わらないのが一番である。
結果から言えば、その博打は成功した。結局維新の2年生は最後迫られながら29分45秒台で2位と10秒以上の差で1組1位となった。もう1人も11位とまずまずの順位でゴールし、総合タイムとしては3位となった。1位は帝国、2位は中心で日本ジムナスは4位であったが、有馬監督の顔に焦燥の色はなかった。一方で焦燥の色に包まれていたのは稲田と城東である。両者とも1人のランナーが前wを追い掛けて終盤止まってしまい、追い掛けた方が34・35位に沈んでしまった。もう一方が14・17位とそこそこ頑張ったもののチームとしては12位、15位とかなり出遅れた。
そして続く2組は、1組の流れをもろに受け継ぐ形になってしまった。1組で好調なスタートを切った維新はこの2組でも自己ベストで言えば40人中25、29番目のランナーが好調な流れに乗って個人で14・15位、チームでも6位と健闘し総合成績でも4位と通過圏を維持した。それに対し出遅れた稲田と城東はランナーが無理をして後半伸びず、共に維新を下回る順位となった。一方で日本ジムナスは維新を捕らえ総合3位に浮上した。そして1・2位は相変わらず帝国・中心のままである。
「あるいはもうここで大体勝負は決まってしまったかもしれない」
後に甲斐学院の香川監督はそうこぼしていた。甲斐学院はと言うとこの時点で5位、4組に控える百地や中心の潮谷、下総の藤篠と言った各校のエースにさえも10秒以上余裕で勝てる留学生を残している現状ではセーフティラインに近い。そして甲斐学院ほどではないにせよ強力なエースが4組に控えている下総はと言うと2組の時点で6位だった。要するに、最終組のエースが失敗しない限り2~6位のチームは安泰に近かったのである。
それが覆るとすれば次の3組だっただろう、だがそう流れが容易く変わるのであれば誰も苦労はしない。覆せそうな戦力があったのは城東や稲田だったが、その両校がもう少し余裕を持って1・2組に臨めていたらこんな所(この時点で9、10位)を走っているはずはなかった。結局ここでも両校の選手は期待に応えられず、流れを変える事ができなかった。もっとも流れを良い方に傾けた学校がない訳ではない。
「この3組が勝負所だ!」
有馬監督はそう檄を飛ばしていた。2組は1組の勢いでまだ何とかなるが、3組になるとそうも行かない。ここでつまずけば最終4組にかかる負担が一気に重くなる。だからこそ有馬監督はこの3組にチームの3・4番手ではなく2・3番手を持って来ていた。そのせいもあり日本ジムナスはこの3組でトップになり、総合でも1位になった。
そして最終4組……結論から言えば、何も起こらなかった。正確に言えば、何も波乱は起こらなかったと言うべきか。もっとも、展開的な波乱はあった。3組で頑張って順位を7位まで上げて来た相模大が2人揃って甲斐学院・倭国・嘱託の留学生に並ぶような、百地や藤篠、潮谷を上回る様なペースで最初から飛ばしたのだ。
だが、残念ながらそのような博打を打つには遅すぎた。
1位 帝国大学
2位 日本ジムナス大学
3位 甲斐学院大学
4位 中心大学
5位 維新大学
6位 下総大学
「まだ第一段階が終わったに過ぎない、その事を絶対に忘れるな、あの1月3日を忘れるな!」
4組で帝国に敗れてトップ通過を逃した有馬監督の顔に笑みはない。そして解散を命じた有馬監督の目線は、帝国や甲斐学院、中心に下総と言った他の予選突破校に向く事は決してなかった。
「どっちを見ている、早く帰るぞ!」
ましてや維新の方角は部員に目線を向かわせるとする事さえ許さなかった。十何年ぶりの予選突破となった維新の喜びは大きい、だが日本ジムナスはそうではないのだ。去年も順位こそ悪かったがちゃんと本戦に出場していた、そして一昨年も、その前の年も。最後に日本ジムナスが全日本から姿を消したのは6年も前なのだ。その程度で喜んではならない、これは当然の結果なのだと有馬監督はメンバーを戒めたのである。
ではどちらの方角を向いていたか、それは稲田や城東と言った予選敗退校の方角である。一昨年の全日本2位の稲田、前回の箱根5位の城東。そういう存在ですら一つ間違えばこうなる物だと言う事を有馬監督は選手たちに伝えたかったのである。
……いやどちらかと言うと有馬監督自身がそう思おうとしているのかもしれなかった。自分で言った目標の通り確かに第一段階は突破できた。
しかし、その先はわからない。ここで好調だからと言って次どうなるかはわからない。あるいはうまく行ったと浮かれているのは自分なのか、そう有馬監督は感じたのかもしれない。
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