2区・がっかり出雲

「俺もさっき聞いた。けっこう深刻らしい、三大駅伝は完全にアウトだそうだ」

 柏崎が故障。太平洋の顔、いや今や学生駅伝の顔とも言うべき存在が故障。

 出雲どころか全日本にも箱根にも出られないらしい。


 ……何という事だ。


 確かに太平洋大にとって計り知れない痛手だ。

 だがそれが天道のランナーのタイムを向上させる訳ではない。太平洋にはまだ日村兄弟がいる、任天堂・徳政・城東・関東基督教・甲斐学院・忠門・中心・下総・稲田と言った関東のライバル校もいる。

 もちろん他地区の大学や外国のIVYリーグ選抜も無視はできない。結局、全力で走らなければ天道が勝者となる事などできないのだ。


 ……なんて事を思えていたらどんなによかった事か。柏崎故障のニュースを聞かされた僕は、それからと言う物全く集中できなかった。

「キョロキョロするな!」

 セレモニーでも落ち着きのなかった僕は大木監督にそう怒鳴りつけられた。

 いくら出雲は初だからと言っても仮にも3年生、三大駅伝4回目の人間が取るべき挙動じゃなかっただろう。

 でも実際、僕は前を向かず太平洋大の方ばかりを向いていた。出雲駅伝のシード権は前回の上位3校であり、並び順としては太平洋、徳政、稲田、北海道学連選抜、東北学連選抜そして天道、任天堂……となっている。当然、4チーム分も離れている太平洋の様子を見るのは無理な話だが、それでもそちらから目が離れなかった。

「いいか、柏崎だって所詮6分の1に過ぎんのだ、他の6分の5の力が萎む訳でもないんだぞ、最大の敵はやはり太平洋だ!箱根を忘れた訳じゃないだろう、あの太平洋のランナーたちの走りを!」

 と大木監督は僕らに訓示したけど、僕の耳には入って来なかった。

 実際問題、柏崎と言う絶対的存在がいるといないとで太平洋大の選手たちの心理も随分と変わってくるだろうと思っていた僕には、大木監督の言葉を素直にはいそうですかと聞く気には到底なれなかったのだ。

 確かにここは出雲であって箱根ではない、けれどいずれにせよ柏崎が今の学生陸上界を代表するエースである事は覆しがたい事実だ。関東インカレでは10000mを28分30秒切りで駆け抜け、留学生たちすら軽く凌駕したランナーがいるといないとではだいぶ違う。

 柏崎の存在に敵である僕らは萎縮し、味方である太平洋の仲間は勇気付けられるだろう。柏崎と言う存在は二重に太平洋の優勝を近づける存在なのだ。その柏崎がいないと言う事実を無視する事など、僕には到底できなかった。

 何もかも上の空だった。ずっと柏崎と太平洋を倒すためにここまで来たと言うのに。いや柏崎はともかく太平洋は倒せるけど、柏崎のいない太平洋を倒して何の価値があると言うのだろう。フロック、空き巣狙い、どさくさ紛れ。いずれにしたって、王者の名を取り戻せるような勝利にはならない。来年、戻って来た柏崎が無念を抱えながら砥いでいた牙を剥きだしにして天道に挑みかかって来る。その無念は去年の全日本の比ではないだろう、そしてその全日本の後の箱根がどうなったか。知っての通り、全日本で太平洋に勝ったはずの天道がなす術もなく打ち砕かれたのだ。今から来期の事を心配してもしょうがないと言うのに、僕の頭の中にはそんな事ばかりが巡っていた。


 出雲到着2日後、いよいよ出雲駅伝の号砲が鳴り響くまであと10数分になっていた。けれど、それでも僕は集中できなかった。柏崎のいない駅伝、実際どうなるのか。僕を含め関係者全員誰もその展開、その結末を予想できなかった。大木監督だってそのはずだ。それでもあくまで自分の道を貫けと言う宣言は監督としての意地であろう……けど僕には無理だ、無理だった。それでも刻限は容赦なく迫る。

 やめだ。もう考えるのはやめだ。僕はアクセルを踏みっぱなしにする事しかできない、そしてそれ以外に天道が勝つ方法はないのだ。


 号砲が鳴り響いた。九州の鹿児島工業大学の留学生共々、僕は初っ端からアクセル踏みっぱなしのレースを行った。だけど、スピードの絶対量だけはどうにもならなかった。いくらスピードが向上したと言っても、留学生相手でどうにかなる物ではなかった。

 もっとも、太平洋以下関東の大学は鹿児島工業大学の留学生なんか見ちゃいない、どうせ2区以降で落ちるだろうと思っていた、そして僕ばかり見ていた。なぜわかるかって?結局気持ちが定まらなかった僕は最初から飛ばしつつも不安に駆られてしょっちゅう後ろを向いていたが、後ろのランナーの視線が明らかに僕に集中していた。

 考えすぎ?そんな事があるものか。さっきも言ったように九州の大学は2区以降落ちる一方であり関東の諸大学の相手ではないのだ。とすれば同じ関東の大学であり2区以降も優秀なランナーを揃えている天道の方がどう考えても恐ろしいじゃないか。

 って何をやってるんだか、そんないらない事なんか考えていては足が鈍るじゃないか、折角1区に起用してくれた監督の期待に応えられないじゃないか!……と後から思うのは楽なんだけどね……とにかくこの時の僕は明らかにおかしかった。

 それでも何とかせねばと言う意地だけはあった。意地だけが僕にアクセルを踏み続けさせていた。


 結果、なんとか区間2位でタスキを渡す事ができた。と言ってもいつものような粘りを発揮する事はできなかった。

 今回の僕の走りは、少なくとも好走ではない。失敗かよくて凡走と言った所だ。何せ、3位忠門と2秒差、5位の太平洋と7秒差、関東最下位で総合13位の甲斐学院と30秒差しかつけられなかったのだ。それではとても後続のランナーにアドバンテージを残したとは言えない。単に関東の大学の中で1番最初にタスキを渡しただけというレベルだ。

 ……そして、この僕の失敗がその後の天道の運命をぶち壊した。


 2区、なかなか先頭に立てない。僕の凡走のせいでトップと15秒離されていたのが原因とはいえ、5.8キロのコースの中間点まで来てもまだ天道は2位だった。いや鹿児島工業は捕らえていたのだが、その前に天道自身が関東基督教に捕まっていたのだ。そして関東基督教は区間賞で飛ばし、なんとか2位を保ち続けた天道との間に12秒の差をつけた……もっとも、ここまでならばまだよかった。


 しかし、3区。いよいよ僕が開けた傷口から本格的な大出血が始まってしまった。天道は最初の1キロで関東基督教に並びかけたのだが、明らかに無謀なペースだった。その後2キロ近く並走を続けた所で突然ガクッとペースが落ちてしまい、1キロ3分半と言う目を覆いたい数字になってしまい、当然の如く後は順位を落とす一方になった。結局、区間17位。総合順位は8位まで落ちてしまった。脱水症状らしいが、それにしても……だ。

 それでも4区になればと思ったが、そこでもダメだった。区間10位、これでは順位が上がるはずもなく、むしろ逆に9位に落ちてしまった。もう太平洋は2分以上前だ、勝負になりっこない。まだ箱根の1区間分ぐらいの距離は残っているんだけどね……。

 と言うか、太平洋だって今かなり焦っているはずだ。何せ先頭はまだ関東基督教であり太平洋ではないのだ。太平洋は2・3区とイマイチ振るわず3区の地点でまだ総合5位のままだったのだが、4区で追い上げてやっと総合2位まで持って来ていたのだ。先頭との差は35秒、いくらでも逆転の可能性のある差だ。


 ああ、太平洋は柏崎もいないのにきちんと優勝争いをしているのに対し天道は先頭の姿を拝む事さえできない。お前は区間2位だろと言うかもしれないけど、僕が柏崎の事ばかり考え肝心のレースに対して集中できずあんな凡走をやらかしたのが原因である以上、この惨敗の起因は明らかに僕だ。僕はすまないと言いながらテレビモニターを拝む以外の事をする気になれなかった。


 それでも5区、区間2位。このまま終わる訳には行かないと言う意地だろうか、必死の抵抗を見せてくれた。アンカー久保にタスキを渡す時には7位に浮上していた。

 しかしここまでの展開、去年と全く変わらないじゃないか。年下のエースである久保にタスキを渡したのは去年よりほんの1つ前なだけじゃないか、お前ら1年間何をやって来たんだと言われても全く反論の余地がない。情けない所の次元じゃない話だ。

 そして、頼りの久保も冴えなかった。結局1人抜いただけの区間5位。天道は結局去年より1つ下の総合6位に終わった。




「全く、お前たちやる気があるのか!いくら駅伝が相手との競争だからって相手の方ばかり見ていては自分の走りができる訳ないだろ!去年も言ったがこれじゃ汚名返上じゃなくて汚名挽回だぞ!」


 当然、大木監督は僕たちを怒鳴り付けた。その顔には怒りが浮かび、悲しみが滲み出ていた。そして僕の視線は否応なくその大木監督の顔に釘付けになっていた。

「あれを見ろあれを、お前たちだってああやって喜びたいだろう?だったら相手に振り回される事なく己が走りに集中しろ、いいな!」


 大木監督の指差す先には太平洋の猛追から見事逃げ切り優勝した関東基督教の選手たちが歓喜する姿があった。その純粋に喜ぶ姿が正直羨ましかった。

 出雲の出場さえも去年が初だった、そして10位だったチームが優勝する。その喜びの大きさは計り知れない物があるだろう。一方で天道は優勝が常の目標、最低でも優勝争いが義務となっていた。その義務を果たす事すら叶わなかったのだ。出雲でも全日本でも箱根でも、天道は優勝を狙わねばならないチームだ。前回の出雲と箱根の惨敗でその重荷からも少しは解放されたはずだったのに、柏崎の故障などと言う一大事と関係なく、

「去年は1区の出遅れからずっと振るわなかったもののやはり天道は強い。太平洋と一騎打ちか」

「前回王者の太平洋はやはり強いが、天道も元来スピードは豊富。両者の一騎打ちに割り込むとすれば徳政か」

 なんてマスコミの人たちは言っていた。

 もちろんそんな言葉を真に受けるほど馬鹿ではないつもりだが、それにしても天道が背負う金看板の何ぞ重い事か。もっともその金看板を背負いながらこれまで勝って来たのだから悪いのは僕ら以外の誰でもないのだが、少なくとも関東基督教の方がずっと気楽に、肩の力を抜いた状態で臨めたのは間違いない。もちろん関東基督教だって柏崎の故障と言うニュースに衝撃を受けただろうけど、元々(失礼な言い方だけど)優勝に執着していなかったからさほど気にしてはいない、雲の上の一大事を眺めるような気分だったのだろう。だからこそこうして優勝の凱歌を味わう事ができたのだ。


 ……とか言う繰り言は余りにも空しい、だって柏崎と言う要をわずか2日前に失った太平洋は連覇こそ逃したもののきちんと2位まで来てるのだから。そしてうちと太平洋との間には2分18秒の開きがあった。去年は1分52秒だったから、去年より更に26秒開かれている事になる。柏崎がいない、弱化しているはずの太平洋に更に差を開かれていると言う事だ。太平洋だって天道と同じかそれ以上のプレッシャーを受けてこの出雲駅伝に臨んだはずなんだ。しかも心理的にもタイム的にも要である柏崎を失ってなお、優勝争いをし続けた。それに比べ天道は何だ、去年4位で一昨年の優勝校である甲斐学院や去年2位の徳政はおろか箱根で13分も引き離した下総大学にすら勝てなかった。


 太平洋が強いんじゃない、天道が弱いんだ。認めたくない事だけど、認めなければならない。天道は王者じゃなきゃいけない、少なくとも僕らがいる間は、天道は学生駅伝の頂点に立つ存在でなければいけない。それが僕らの責任であり、義務だ。過去2年箱根路は太平洋の色に染められ、10年以上箱根路を染めて来たはずの天道はすっかり脇役だ。それでも伊勢路だけは守って来た、天道の色で染め続けて来た。せめてそこだけは勝たねばならない、いや伊勢路も箱根路も取らねばならない。



「お前は良くやった、伊勢路では去年と同じくアンカーを頼む」



 大木監督はあんな醜態をさらした僕にこんな温かい言葉をかけてくれた。


「ただ、この調子ではあんな楽な状況では持って来られないだろうな。そこの所はどうか勘弁してもらいたい。そして箱根だが」

 えっ?もう?まああと箱根まで2ヶ月半とすればそれほど急な話でもないが…。



「山登りをやってみないか?」

 5区!?あの柏崎の走った5区を!?

「ああ、お前のスタミナであれば乗り切れると俺は信じている。インカレでお前のスピードの成長ぶりはとくと見届けた。後はやはりスタミナだ。残念だがうちにはお前ほどスタミナを持った選手はいない」

 そんな……確かに僕はアクセル踏みっぱなしで伊勢路や箱根を駆け抜け成績を残してきた身ではあるけど、そのいずれよりも険しくそして距離そのものも単純に長い箱根の山をアクセル全開で駆け抜ける事ができると言うのか!?

 だったら初っ端からアクセル全開で飛ばすのをやめろ?ダメだ、去年の箱根が終わってからそういう走り方の練習しかしていない。いまさら僕に抑えた走りだなんてできない、そうしようとすればずっと抑えたまんまで終わりそうだ。とにかく、今は目前の全日本に集中するのみだ。箱根の山の事はその後考えればいいのだ。

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