スタンダードⅢ
1区・柏崎が!?
箱根が終わってから間もなく、僕たちは大島へと向かった。言うまでもなく、陸上部の合宿としてである。
「太平洋は何もかも完璧だった。だけどこちらはまだ余地がある。太平洋が今年の様な凄まじい強さを発揮する事はもうないだろう。天道はいくらでも立ち上がれる、そして今よりも強くなれる」
大木監督はそう言っていたけど、その力強い言葉も何となく空虚に聞こえる。正直、今年の箱根で受けた衝撃は計り知れない物があった。
自分が日村祐輔に負けたのは自分のせいだけどそれを差し引いたって、いや柏崎の分を差し引いたって5分天道は太平洋に負けている。2位の天道でさえそうなのだから、3位の任天堂や4位の徳政は……いや任天堂や徳政はまだいい方で、10位となった下総大学ですら5区抜きで16分負けている。
去年も太平洋は優勝したが、その時の16分後ろは16位の学連選抜だった。今年は5位の城東大学との差が15分58秒である。正直な話、想像できる範囲をはるかに超える数字ばかりが並んでいた。そして、僕もその一方の当事者であったにもかかわらず、全く実感が湧かない。
とにかく、監督の言う通りさらに強くならなければならない。相手がいくら凄まじいチームだったと言っても、同じ人間だ。勝てない訳がないのだ。打倒太平洋は遠い目標だけど、その目標への努力を怠れば勝てる訳がないのは当たり前だ。
柏崎だって日村兄弟だってただの人間だ。隙がない訳じゃない、いやそれを考えるのはやめておこう。相手の弱点を突いて勝とうだなんて正直アンフェアだ。走りの面での弱点ならば突いてもいいだろ?……それがあればそうするんだけどね。
「あそこに映ってやりたいと思っていましたけど……」
6区を走った後輩のそのセリフが重い。
箱根駅伝に優勝するとどうなるか、その答えは太平洋の選手たちが遺憾なく示してくれた。
何なんだ、1月4日のテレビは。何時になっても太平洋と柏崎ばかりじゃないか。確かに凄まじい勝ちっぷりだったけど、それにしてもテレビ局は太平洋の選手たちをアイドルか何かと勘違いしているんじゃないだろうか……と言いたいが実際その前は天道の選手たちがあそこにいたのだ。
僕は別にテレビに出てああいう形で目立つ気もないが、しかし天道の物だった席を奪われたのは正直悔しい。去年もそうだったじゃないか?いや去年はテレビなんか見ていない、自分の暴走を悔やんでテレビなんか見る気も起きず、そして天道全体が箱根の無念を晴らすと言うかごまかすための練習に専念していたから。もちろん今年も4日からの練習を怠っていた訳じゃないんだけれどね。4月から僕は3年生になる、もう自分の事だけを考えていればいい世代じゃない。新たにやって来る後輩たちに手本と先輩なりの気遣いを見せなければならない。
と言っても、相変わらずスピードの伸びは悪い。また上が抜けたと言うのに、僕の5000のタイムは未だ学内ベストテンにも入らない。出来のいい新1年が入ってくればまた順位が下がるだろう、アクセル踏みっぱなしで最後まで持たせるスタミナだけは身についたはずだが、それも所詮スピードありきの話であってスピードがなければスタミナを生かす事も出来ない。
箱根の距離で戦う分には現状のままでもいいかもしれないが、5000や10000ではそうは行かない。いくら全力疾走できる時間が長いからってカートがF1のマシンに勝てる訳がないのと同じだ。柏崎は10000でも28分05秒のスピードがあるが、僕は未だに29分を切れない。曲がりなりにも駅伝では区間2位2回3位1回と言うタイムを残してきた僕が、トラック競技では未だに2軍である。
「お前はトラックにこだわる必要はない、スタミナを鍛えマラソンを狙うぐらいがいい」
大木監督はそう言うけど、マラソンだってスピードは必要だ。そちらにこだわり肝心のスタミナを損ねては元も子もないが、やはり「一刻も早くゴール地点にたどりつく事」が目的である陸上競技においてスピードがある事はプラスになりこそすれマイナスにはなるまい。
そして何より、三大駅伝全てに出たい。一昨年度は箱根、昨年度は全日本と箱根に出たが、出雲はまだ一度もない。
出雲に出るにはスピードがなくては駄目だ、今の僕のスピードではアクセル全開でかっ飛ばしても無理だろう。もちろん箱根での敗戦も悔しいが、出雲の敗戦だって同じぐらい悔しい。大木監督だってそのはずだ。ただ去年はその後の全日本の勝利でその悔しさは消せたのだが、今年全日本を勝てる保証はどこにもない。柏崎はまだ3年、日村兄弟はまだ2年、もちろんその3人以外のランナーも凄まじいポテンシャルを持っている事は箱根で露見済みだ。
去年はたまたま天道が勝てたけど、今年勝てる保証はどこにもない。出雲も負け、全日本も負けたとなればいよいよ箱根は背水の陣となってしまう。それで気合が入って勝てればいいが、柏崎に最も楽観的に考えて3分離される事が見えている中、どうやって勝てと言うのか。
あと2年、つまり僕が天道にいる間はずっと柏崎と日村兄弟を抱える太平洋との戦いを避けて通る事はできない。同世代の悲劇?アホくさい、柏崎は特別だとしても毎年桁外れの実力を発揮するエースってのは出てくるものだ。それと戦うのは同世代のランナーの宿命だ。
……あれ?天道のエースって誰だ?今ならば久保って言っていいんだろうけど、まだ2年生の久保はエースであってもまだ柏崎の様な絶対的大エースじゃない。いや、天道の長い栄光の時代を彩って来たエースって誰だ?
もちろん、区間賞を取って後続を突き放すような優秀なランナーはいたが、柏崎の様な大エースがいたかと言うこれがいなかった。野球の打線で言えば1番から9番までまんべんなく点が取れる代わりに、大砲が一人もいないと言う事になる。そういう打線は確かに相手ピッチャーに気が抜けないと思わせる事はできるが、しかしホームランで一挙に差を広げられてしまうと言う恐怖を抱かせる事はできない。一昨年の全日本でも大木監督はそんな事を言っていた気がするけど、柏崎とまでは行かないでも後続を2分は開けるランナーが欲しい、他校に誰某までに○分は開かないとまずいと思わせるランナーが欲しい。
今年の太平洋なんかまさにそれで、柏崎と言う大砲の前に2分、できれば3分は開かないといけないと考えた僕らは、日村兄弟を含む他の選手を何としても抑えようとして無理をして逆に引き離され、そして柏崎にやられてしまった。
柏崎の前にいる者は柏崎にまで着実につないでいけば問題なしだし、柏崎の後の者は大量リードを得た後だから悠々構えられる。太平洋の選手全体にそういう心の余裕があり、天道にはその太平洋の余裕が重石となり枷となったのだ。もちろん区間2位や3位のランナーを1人で2分3分も突き放す様な事など普通は無理なのだが、それができてしまうのが柏崎であり箱根の5区なのだ。
柏崎に対抗する方法はただ1つ、同じだけの時間差をつけられるランナーを他で用意するしかない。もちろん久保に頼んでも良いが、柏崎の分を1人で凌ぐのは無理がある。とすると、僕らもまたやらねばならない。
「5キロなら5キロ、10キロなら10キロ、いずれにせよ最後まで全力で走れるようにしなければならない、スタミナに自信がなければ最初は控えて、あれば最初から飛ばして行くのもいいけど、結局一番大事なのは自分の身の程を知る事なんだ」
4月。推薦・一般を含め39人の1年生が天道大陸上部にやって来た。その顔合わせの際に先輩として何か言ってくれと大木先生に言われ、ない頭で必死に絞り出した言葉がこれだ。自分自身それができている、つまり身の程を知っているとは思えないのだが。言ってて恥ずかしいと言うか情けなくなってきた。大木監督ならばまだともかく、僕のような奴が言った所でただ空虚なだけだ。
走りで手本を見せればいい?無理だよ、5000のタイムでは8人、10000のタイムでは4人の1年生に負けている僕がどうやって?箱根で2回連続の区間2位?そんなのはあくまでも過去のデータだ。
「さすがですよね」
それでもロードのハーフ練習ではそれなりにいい所を見せられたつもりだ。これまで通り最初からアクセル踏みっぱなしで飛ばし続け、そして何とか最後まで持たせた。結果、新1年の誰にも負けなかった……まあ新1年と競い合っちゃしょうがないんだけど。
天道の今年の目標はただ一つ、太平洋を倒して箱根を制する事だ。
もちろん出雲や全日本の勝利も欲しいが、やはり箱根での勝利が一番重要だ。さっき自分が言った事と矛盾するけれど、3ヶ月前に突き付けられた9分30秒と言う数字が今僕にとてつもなく重くのしかかっていた。
けれど所詮同じ人間だ、あの時の太平洋は全てがうまく行った、そして天道は局所でつまずいた。また太平洋は全日本の惜敗でチーム全体が燃え上がり、天道は全日本の勝利で自信が過信になっていた(少なくとも僕は)。此度は太平洋も天道もそうはならないだろうと言う可能性の方がずっと大きいだろう。
しかしそれぐらいで詰まる差じゃない、9分30秒って言うのは。これが3分ならば、いや5分ならば可能性があるだろと言う気分になって来るが、9分30秒となるとそうは行かない。何せ、柏崎1人に5分負け、残る9人同士の戦いでも4分半負けているのだ。9人で4分半差ならば自分たちの成長と流れ次第で覆す事はできても、1人で5分差を覆す事は果てしなく難しい。だがそれをやってのけたのが柏崎だ。
そしてこれから僕たちはその柏崎に5分差を付けようとしているのだ……どう考えたって不可能だ。できる事があるとすれば、その4分半差を覆しさらに柏崎につけられるであろう5分差を付け返す事だ……やっぱり不可能じゃないか。
4年生が卒業しただろ?いや、去年太平洋で箱根を走っていた4年生は3人、天道も3人だ。ましてや太平洋の抜けた3人の中で、区間賞を取ったランナーは1人もいない。我ながら随分な言い草だが、10人の中でもあまり活躍できなかった3人が抜けたと言う事になる。天道?8区で区間賞を取った先輩、エースの深野先輩、そして去年の主将で4区2位になった先輩だって、全員チームの要そのものじゃないか、卒業による痛手が大きいのはむしろこちらだ。自分たちの努力と新入生の出来に賭けるしかない。
「5000だと?」
関東インカレ、僕は10000と5000での出場を志願した。10000と5000の開催日には1週間の間があるが、5000とハーフの開催日は同じであり、5000に出たらハーフで走るのは無理だ。大木監督は僕にトラックは向いていないと言ったし、僕自身もそう思う。けど、個人的な欲もあった。三大駅伝皆勤、だ。
出雲に出るにはスピードがなくてはならない。5000や10000で戦えなければ出雲で戦うのは無理だ。スピードならば天下一の天道でたった6(+2)枠に入るためにはこれまでのスピードでは無理だ、だから箱根からの4ヶ月でスピード練習に勤しんで来た、その成果を試す機会が欲しかったのだ。もちろん、武器でもある肝心要のスタミナが損なわれては何の意味もないんだけど。
結論から言えば成果は確かにあった。
まず10000、28分57秒41、初めて29分を切れた。
順位は5位、柏崎や留学生を相手にしていた事を考えれば上出来だと言えよう。去年のハーフと同じように柏崎が自分以上のスピードでかっ飛ばして行くのには面食らったが、元より柏崎の事など気にしないようにしていた自分にはむしろ早く消えてくれて好都合だった。あくまでマイペースで最初からかっ飛ばすしか僕にはできる事はないのだ、例えそれがハーフだろうが10000だろうが5000だろうが、そしてその結果僕はこうしてタイムと言う名の戦果を挙げて来たのだ。
続いて5000。そこにはあの日村兄弟がいた。他にも来生、北池など他校のエースたちもここに控えていた。もちろん、僕は自分のレースに徹するのみだ。
最初からアクセル全開で飛ばす、だが前に出られない。自分と同じかそれ以上のペースで飛ばす選手が多いからだ。それでも、自分ではアクセル踏みっぱなしが許される時間は相手より長いと思っている。けど仮にも2年間学生陸上を走ってきた身だ、僕の戦法なんぞみんなとっくに把握している。もたもたしてたら突き放されて結局そのまま行かれてしまう、みんなそう思っているのだろう。だから全然離してくれない、もっとも無理をして付いて来てくれているのであれば好都合だが、この距離ではその無理を通し切られる可能性も否定できない。そして一緒に走る人間の多くが箱根や全日本で既に見た、あるいは見るであろう人間ばかりだ。そういう距離を走るランナーがそう簡単に崩れる訳がない。結局、全員に一定以上のスタミナがある以上この5000はスピードの多寡だけが勝敗を決する世界だった。それでも、天道の中で激 しく揉まれて来た経験は一つの戦果を僕に掴ませた。
13分57秒89。13位と言う順位については別にいい。とにかく、目標である13分台を達成した、それが何より大きかった。もっとも、それでも学内では9位に過ぎないのだが。
そして10月、僕の願いはかなった。出雲駅伝へエントリーされたのだ。神無月、いや神在月の出雲を僕は駆ける事になったのだ。
そして、さらに驚く事に1区だと言うのだ、アンカー6区、全区間中唯一10キロを越える6区よりエースたちが集う1区。
柏崎もきっと1区に来るだろう。柏崎以外には負けやしない。いや、柏崎をも破る。そして天道を出雲で優勝させる、そうなればこんなに嬉しい事はない。
そしていよいよ僕たちは出雲に向かう事となった、だがそのバスの中で大木監督が深刻な顔でこちらに声をかけて来た。
去年の惨敗を取り返せと言う檄だろうか。
「柏崎が故障したらしい」
……えっ?
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