5区・ニュースタンダード

 わかっちゃいるけど長い。


 1月3日午前8時ちょうど、太平洋大が芦ノ湖をスタートした。

 天道のスタートはその7分3秒後、その7分3秒がどれだけ重たい事か。1秒でもいいから太平洋との差を詰めてくれ、その事だけを考えながら僕は小田原中継所でウォーミングアップを始めていた。


 そんな僕の側には日村祐輔がいた。全日本でも存在を見せ付けた太平洋の1年生、昨日2区で太平洋を先頭に持って来た恵一の双子の弟。相手にとって不足なし、と言えるほど今の僕に余裕はない。何とかこの1年生を1秒でも負かして天道の復路優勝に貢献する、その事しか考えられなかった。


 やっと天道のスタート時間が来た、既に太平洋は2キロ以上先を走っている。とりあえずは徳政を捕まえてもらいたい。そして徳政を置き去りにするなりお互いに競い合うなりして何とか太平洋との差を1秒でも詰めてもらいたい、もちろん自分も太平洋との差を詰めるのに貢献するからと必死に祈っていた。

 大木監督はこの6区にこれが三大駅伝初経験の1年生を持って来ていた。正直下りに向いているのかはわからないけど、5000mでは僕より上のタイムを持つ、スピードに長けたランナーである事だけは間違いない。出雲にも全日本も出ていない1年だからと侮っていると痛い目を見るぞと心の中で秘かに毒づいてみたが、今さらそんな理由で天道の選手を侮る奴などいない。


「安全策は取りません」


 太平洋の堺監督は昨日そう言っていた。2位と6分もの差があるならばブレーキによる万が一の事態を避ける為飛ばしすぎないようにするのが基本なのに、それをしないというのだ。まさか天道を恐れての事でもあるまいが……1区ごとに1分ずつ詰められてもまだ2分あると言うのに。


 果たして。

 芦ノ湯を通過した時点で太平洋と徳政の差は6分17秒に、太平洋と天道の差は7分8秒に広がっていた。後続を見てみてもこれより早いランナーは任天堂と東方文化しかいない。

 もちろん、これはむしろ好機焦って飛ばしブレーキすれば望みが生まれると思わなかった訳ではない。しかし、そのブレーキが起きる気配が一向に来ない。天道も徳政も、全然前との差を詰められない。太平洋は大平台の定点ポイントも全く減速する気配なく通過して行く。コーチから天道が大平台を通過したら最終準備を整え始めろと言われたが……やって来ない。

 天道が大平台を通過したのは結局その7分34秒後だった。芦ノ湯より更に26秒開かれている。一方で徳政との差はほんの5秒詰まっただけで、後ろから稲田と甲斐学院を抜いた任天堂が40秒差まで迫って来ている。太平洋を逆転、いや2位を狙うどころか3位を守れるかさえ危うくなってきた。


 ……いかんいかん、そんな後ろ向きの考えじゃダメだ。何としても僕の手で天道を単独2位に押し上げ、1秒でも太平洋との差を詰めなければならない。それが僕を7区に起用してくれた大木監督の期待に応えるため、何があってもなさねばならない事だ。仮にも僕は2年生だ、1年生に負けてたまるかと言う思いがないと言ったら大嘘吐きになる。いくら日村祐輔が桁外れの新人と言えども、柏崎と比べれば格は落ちるはず。負ける訳になど行くか。

 そして太平洋のランナーが小田原中継所にやって来た。最後はさすがに残り3キロの上り(に思える平地)で疲れていたようだが、それでもまだしっかりと走っていた。この6区はある意味5区より過酷なコースで、何年前だか忘れたが区間2位で走って来たほどのランナーがタスキを渡した後まともに歩けなかった事があったと言う記憶がある。これは太平洋のランナーが最後にやや疲れた所で決してブレーキになった訳ではないと言う話であり、要するに太平洋がこの6区も強さを見せつけたと言う事である。

 リレーゾーンに立った僕に徳政のランナーの姿が映った。そしてその少し後ろから天道が任天堂を従えてやって来る。まず徳政がタスキリレー、そして僕、続いて任天堂。この3校がほぼ等間隔でタスキリレーを終えた。


 太平洋とは8分6秒差、結局芦ノ湖からほぼ1分開かれたと言う事か……とにもかくにも、目の前の徳政を追い抜きすぐ後ろの任天堂を退けねばならない。徳政とは13秒差、任天堂とは11秒差。負けるものか。


 僕はいつも通り最初から飛ばした。そして2キロも経たない内に徳政を抜き去った。このまま一気に離し、そしてそのまま太平洋との差も詰めてやる。

 と思ったが、抜き去ったはずの徳政が後ろにへばり付いて離れない。

「気にするな、お前はお前の走りをしろ」

 大木監督の檄に応え気にしない事にしたが、それにしてもよくもまあと思った。仮にもアクセル全開でぶっ飛ばしているつもりのこちらのスピードによくついて来れるな、後で止まっても知らないぞと思っていたら、なんと任天堂まですぐ後ろについて来ていた。

 ちょっと待て、僕は仮にも去年の箱根10区で区間2位、全日本8区で区間3位のランナーだぞ!そのランナーの実力が分かってないのか!?いやもちろん相手が僕だって事はわかってるんだろうけど、そういうランナーを配置して来たんだろうけど、それにしても強引だ。まあ強引なのは人の事を言えた義理じゃないけれど、しかしそれにしても予想外だった。

 僕には2位集団を率いる気なんかない。太平洋大を3校連れ立って追い掛けて行くと言う展開になればいいけれど

「おい、太平洋がさらに前に行ってるぞ」

 現実はこれである。二宮の定点ポイントを通過した時点で天道と太平洋との差は8分42秒になっていた……どうなっているんだ?

 僕は決して遅れているつもりはない。十分アクセル全開で飛ばしているつもりだ、それなのに。僕はカッと頭に血が上りアクセルをさらに一段階上げた、元々全速力だった所からさらに一段階だ。後から考えると相当に無茶な事をやっていたが、徳政と任天堂がうっとおしかったし、何より太平洋に1秒でも負けたくなかった。


 結果、徳政と任天堂を突き放してやる事には成功した。もちろん、太平洋大の背中は見えっこないが、それでも少しは詰めているだろうと言う感触はあった。細かいアップダウンが気にはなったが、それでも僕の血が上った頭はそんな事など顧みることなくただただ前に進む事だけを考えていた。一瞬やばいかとも思ったが、去年だってそのままでなんとかなってしまったのだ、今年もと思い直して再びアクセル全開で飛ばした。

 中継所が見えた。初のタスキ渡しだ、走りながらタスキを外して手に持ち、握り締める。僕たちの血と汗が込められたタスキだ、さあ受け取れ、そして前を追え!


 ……疲れたけど、個人的な感触は悪くない。タイムは…1時間3分45秒。よし、目標としていた1時間4分切りは達成できた。ひとまずはやれやれと言った所だ。さて、太平洋との差は……。



 9分25秒??


 1分19秒もあの1年生に負けたって事か?


 待てよ、僕は1時間3分45秒で走ったんだ、それより1分19秒早いって事は……1時間2分26秒?


「その通り、区間新記録だ」


 7区の従前の区間記録は1時間2分35秒。太平洋の日村祐輔はその記録をも塗り替えたって言うのか?あの1年生は一体、と言うか太平洋大は一体どうなってるんだ?と言うかそんな大学にどうして全日本で勝てたんだ?

 そしてその挙句にと言うべきか、僕は区間2位だった。決して僕の走りは凡走なんかじゃなかった、それなのに更に遠くへ、はるか遠くへ太平洋大は行ってしまった。下野や東京アグリと言った下位のチームなどは、もう太平洋から18分ほど遅れている。トップから20分遅れたら繰り上げスタートになりもうタスキをつなぐ事はできない、味気ない繰り上げタスキをかけて走らねばならなくなるのだ。

 最後の10区だけは自校で用意した予備のタスキをかけて走る事ができるけど、はっきり言って空しい。柄だけ同じでもそのタスキには血も汗もにじんでいない。ここまで運んできたランナーの血と汗がにじんで初めてタスキはただの布でなくなると言うのに、むしろ生半柄が同じだけに辛くなってくる、だろう。生で経験した事はないけど、きっと僕がその立場に立たされたらそういうふうに思うだろう。


 8区、そろそろ何とかしないと洒落にならない。太平洋大だって同じ人間の集まり、伊勢路で負かせた程度の人間の集まりだ。そうそうあんな快走が続く訳がない。実際、8区最初の定点ポイントである茅ヶ崎を天道は区間トップで通過した、太平洋との差を詰めたのだ、ほんの7秒だが……しかし、その後ろが来ない。確かに僕は徳政と任天堂に40秒の差をつけたが、それにしてもどうなっているんだ?

 何の事はない、太平洋のランナーが区間2位で走ってただけだ。

 当然、区間3位以下のランナー18人は太平洋に離される事になる。何本のタスキが途切れる事になるのだろうか。下手をすればシード圏内のチームさえ繰り上げになるかもしれない。

 そして遊行寺の坂。3区では頭の方に下り坂としてやって来るポイントだが、8区では後半に上り坂としてやって来る。ここからの5.4キロが8区の明暗を分ける。今さら逆転など不可能ではあるが、せめて10分差だけはつけられたくない。10分と言えば5区時点ならば翌日の6区で一斉繰り上げスタートにされる差である、つまりもう1日駅伝があったら天道まで繰り上げスタートにされると言う事である。実際、去年繰り上げ一斉スタートになりかけた時には本気で血の気が引いた。

 もう自分のレースは終わって今は大手町に向かう移動車の中、もう僕には応援以外の事はできない。


 そしてもうこの遊行寺坂の時点で4チームが太平洋の20分以上後ろを走っていた。要するにここから盛り返さない限り、戸塚中継所でタスキは途切れる事になる。去年は6区以外繰り上げゼロだった、つまり1本も途切れたタスキはなかったのにだ。もっとも、ここで盛り返してタスキをつないでも、次もつなげると言う保証はどこにもないが。


 やがて、天道がタスキを渡した時には太平洋との差は9分12秒になっていた。確かに差を詰める事はできた。今さら逆転を望む方がバカとは言え、1区以来ずっと負け続けて来たものをやっと挽回できたと思うと少しホッとした、情けない話だけど。

 しかし、そんな事を言えているだけ僕らは幸福だ。甲斐学院、城東、関東基督教の5位集団が既に14分差、総合10位の中心(復路一斉スタート)が17分30秒後ろを走らされている。

 5位集団はまあともかく、シード圏内の中心すら繰り上げの危機に瀕している。大木監督に因れば20年前にはしょっちゅう起きていた事らしいが、その時の駅伝をデータでは知っていても生で見た事のない僕たちにとっては恐怖以外の何でもない。



 そして。



「今繰り上げスタート!残念ながら4本のタスキがここで途切れてしまいました!繋げなかったランナーも、受け取れなかったランナーもどれだけ悔しい事か!その無念を力に変え未来の栄光を掴むため4人のランナーは飛び出しました!」


 その時が来てしまった。むしろ遊行寺坂の時点での4校だけで済んでよかったと言うべきなのかもしれない。ただ16番目の学連選抜が19分44秒遅れだったので、鶴見では繰り上げは免れないだろう。

 そう思うと胸が痛くなってくる。いくら勝負の世界とは言え、20年前には珍しくなかった事とは言え……とにかく、アナウンサーの人が言っていた通り、この無念を力に変えなくてはならない。太平洋が全日本の無念を箱根にぶつけてきたように、僕たち天道も。

「久保!行け!」

 太平洋の日村兄弟だけじゃない、すごい1年はうちにもいるんだと言う事を見せ付けてやらなければ気が済まなかった。そのすごい1年である久保は僕の思った通り9区で太平洋を激しく追い上げた。

 僕らが復路で離されてしまった太平洋との2分19秒差を詰めるべく、見えない太平洋を追っている。総合2位、復路優勝。それだけはしなければ全日本優勝校の面目が立たない。僕もそのつもりで7区を走ったのだが、相手が、いや言い訳だが相手があれではどうにもならなかった。

 大手町にたどりついた僕は久保の快走を祈り、時に頑張れ久保と声を上げながらテレビモニターを見つめていた。その甲斐あってか(いや僕の声援なんぞ関係ないだろうけど)権太坂では8分54秒差、横浜駅では8分16秒差と詰めて来ていた。確かに久保も見事だが太平洋のランナーも悪いのかと思ったが、権太坂の時点で区間5位である。2位、3位、2位、区間賞、区間新、2位、区間新、2位と来れば5位でもブレーキに見えて来るが、これまでが異常すぎるだけだ。

 当然ながら区間6位以下のランナー15人はさらに太平洋大との差を広げられて行く。また繰り上げが起きるのだろう、しかもこの時点での区間1~4位が天道、関東基督教、任天堂、城東と言う元より繰り上げの心配などないであろう所ばかりでは、太平洋がちょっとぐらい遅れた所でその更に後ろを走るランナーたちの助けにはならない。


 やがて、鶴見中継所に天道がやって来た。去年、あそこにいたはずなのに景色を全く覚えていない。それ以前、テレビで見たときと同じ風景がそこにあった。太平洋とのタイム差は7分40秒。いける、37秒ならば逆転は可能だ……ところで太平洋の10区って誰だ?

 正直聞いた事もない3年生だが。どうやら最初の箱根らしい、いや三大駅伝自体初経験らしい。個人的に同じ競技会に出ていた記憶もない。成績としては太平洋の13~15番手らしい……逆転できる!

 そんなおめでたい妄想を抱いていた僕を現実に引き戻したのは、やはり全日本と同じく繰り上げスタートの銃声だった。鶴見では更に4チーム増えて8チーム、8本のタスキが途切れる事になった。復路一斉スタートだった忠門と下総を含め往路の時点で10位までいた大学は全てつながったが、後は中心と帝国だけである。


 異世界の走りをする太平洋に、辛うじて天道だけがしがみついているとでも言う所か。4位の徳政でさえ太平洋から10分以上遅れている、ちなみに去年鶴見の時点で太平洋と10分遅れていたのは他ならぬ僕たち天道だ、11位だった天道だ(正確には10分34秒だけど)。いかに今年の太平洋が異常なのかわかる話だ。

 このままだと総合タイム11時間どころか10時間55分切りは確定的らしい。10時間59分台すらまだどこも破った事がないと言うのに。そしてその異常さが柏崎や日村兄弟だけの物ではない事に僕が気付いたのは、10区の新八ッ山橋を過ぎてからだった。


 あれっ、8分19秒?いつの間にやら差が開いてしまっている。タイムを見ると蒲田の時点で天道は区間4位、そして太平洋が区間1位だった。今年の太平洋は、有名から無名まで全てのランナーが鬼神になっていた。1区から10区まで柏崎が10人、とまではいかないにせよ久保が10人並んでいるようなチームだ。

 何か正直、考えるのが面倒くさくなってくる。余りにも太平洋が強すぎる。この時後方では復路で順位を落とし続けていた甲斐学院が走行順位で10番目に転落、総合順位でも芦ノ湖の時の4位から9位にまで転落して軽く騒動になっていたが、正直もうどうでもよくなっていた。

 新八ッ山橋で8分19秒だった差は馬場先門で9分ちょうどになり、その後も広がるばかりだった。天道のランナーが復路優勝を目指して最初焦って飛ばし過ぎたせいなのかややペースが落ちている(新八ッ山橋の時点で区間7位に後退していた)のもあるにせよ、それにしても太平洋の、三大駅伝に一度も出た事がない3年生の走りが凄すぎる。そんな事を言ったら去年のお前だってと言われそうだが、その当人が言うんだから間違いないと強弁させてもらいたい。


「10人のランナーだけではない、監督、コーチ、出られなかった選手そしてその他関係者、駅伝に携わる全ての人間の思いが、この歴史的な勝利を生み出しました!箱根の歴史に残る大記録が、今誕生しようとしています!太平洋大学、2年連続2度目の箱根路制覇!!そして優勝タイムは10時間51分15秒!!」


 10時間51分15秒。従前の記録は10時間59分13秒だが、その時は今より10区が1.5キロほど短かったはずだ。現在の距離になってから11時間を切ったチームなどどこにもいない、天道が勝った時でさえ最高は11時間2分台だった。


 やがて、天道がやって来た。僕を含めアンカーを迎える関係者の顔に笑みはない。去年の惨敗を取り返しただろ?どこかだよ、今年も太平洋の前に全く敵わなかった事に関しては何の違いもないじゃないか。

 そして、フィニッシュ。優勝タイムは11時間0分45秒。天道大記録だ。

 だけど、その9分30秒も前に太平洋はゴールしていた。去年の天道と太平洋のタイム差は10分45秒、つまり1年かけてほんの1分15秒しか詰められなかった事になる。

 1人当たり7.5秒、それが僕たちの進歩なのだろうか。


「全体的にやはりスタミナが足りないな、結局太平洋のように最初ガッと飛ばしても持つようなスタミナを鍛えなければ来年もまた同じ事になるぞ。もちろんトラックで勝つ事も重要だが駅伝でも勝利を挙げなければならない。また1年、太平洋に勝つためにも全力で気合いを入れて練習に取り組め!」

 大木監督の言葉もどこか力がない。そして、優勝候補と呼ばれながら2位に負けたのならば悔し涙を流すのが普通だろう?それが僕を含め1人もいない。

 何というか、悔しいを通り越して清々しい、いやそれすら通り越して何もない。


「これからは10時間55分前後の時代が来るでしょう。少なくともあと2年、柏崎君がいる間は、いやあるいはその後も」


 11時間5分ぐらいで走れれば優勝できる、それがかつての大木監督の言葉だった、箱根の基準だった。しかし今年、柏崎いや太平洋が新たな基準を作り上げた。


 天道大記録を更新しながら9分30秒差の2位、こんな数字を叩き付けられた僕と天道大を待ち受ける過酷な運命の事を思うと、改めて身が縮む思いに包まれた。

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