4区・太平洋の脅威
……僕のせいなのかい?
いや、関係ないと思いたいけど、柏崎が全日本の悔しさを全てぶつけるかのような凄まじい走りをして来たのが、僕と無関係だと思うかい?
いや、柏崎だけじゃなくて、太平洋大全部が。
往路優勝 太平洋大学 5時間25分44秒
2位 徳政大学 5時間31分49秒
3位 天道大学 5時間32分47秒
4位 甲斐学院大学
5位 稲田大学
6位 任天堂大学
7位 関東基督教大学
8位 城東大学
9位 忠門大学 5時間35分50秒
10位 下総大学
5時間25分44秒。去年の優勝タイムより6分46秒早い。
2位の徳政大が去年の太平洋大の優勝タイムを上回り、3位の天道が去年の太平洋大の優勝タイムよりほんの17秒遅いだけに過ぎないのに、2位の徳政すら太平洋との間に6分以上の差を付けられたのだ。
往路トップから10分以内にゴールできなければ復路は8時10分一斉繰り上げスタートとなる訳だが、それが去年は3チームだったのが今年はなんと12チーム、つまり9位以下の全チームが8時10分一斉繰り上げスタートと言う事になった。つまりシード圏内である忠門大学・下総大学すら一斉スタートを強いられると言う事である。
柏崎が凄まじいのは今に始まった事じゃない。去年とほぼ同じタイム(5時間37分41秒)で走った相模大が往路13位だったから去年と比べ全体のレベルが上がっているとも言えるが、その中でも太平洋一校だけが別次元の強さを発揮していた。
1区、先頭は去年と同じ稲田の2年生。去年と同じようにスタートからかっ飛ばして5キロの時点で既に10秒ぐらいのリードを奪っていた。その後も加速をやめる事はせず10キロで既に4位集団と30秒近い差を付けていた、そう4位集団と。
日本ジムナスと太平洋だけは10秒差でついて来ていたのだ。
日本ジムナスはともかく太平洋にへばり付かれたら一大事だ、何せ5区には柏崎が控えている、どうあがいても3分は負ける物と考えるべきだ。僕は1分34秒で済ませたが、それは平地での話で山登りとなると3分でも済まないだろう。無論それがわかっているから稲田のランナーも必死に振り払おうとしたが、結局太平洋大につける事ができた差はほんの22秒に過ぎなかった。22秒なんて柏崎の前では壁にもなりゃしない。
そしてさらに深刻な事に、天道はこの時点で稲田に58秒遅れの5位、つまり太平洋に36秒差をつけられていた。もちろん、柏崎の事を考えなければ何の問題もない差である、しかし柏崎が控えている事を考えると大差である。もちろん柏崎がブレーキを起こさない保証はどこにもないが、相手のブレーキを期待するほど空しい事もない。
当然、大木監督は2区の深野先輩に最初から飛ばすように指示を出した。4区までに太平洋に2分差をつけたい、いやつけなければならない。その為には一刻も早く太平洋大に追い付かねばならない、突き放さねばならない。
そして権太坂、ついに追い抜いた…………太平洋が稲田を。
太平洋の2区は全日本でも2区を走った1年、日村恵一。全日本でも見せた快走に負けぬ走りをこの箱根でもいかんなく見せ付けていた。権太坂まで22秒の差を詰められなかったのは稲田のランナーが序盤からかなり飛ばしていたからで、その間も恵一はマイペースで走りながらじわじわ差を詰めていた。
何せ柏崎の存在が重い。天道や稲田にとっては全ての流れを叩き壊す悪魔であり、太平洋にとっては全ての流れを自分の物に変える救世主である。柏崎の前に大量リードを開かねば太平洋は逆転不可能な所まで行ってしまう。天道ももちろん稲田も往路から主力陣を注ぎ込み4区までで太平洋に2分差をつけ、そして5区終了時点で2分以内の差に留めたかった。
しかしその結果、往路のランナーにかかる負担は自然重くなる。そして太平洋のランナーにしてみればよほどのひどい走りでなければ柏崎がひっくり返してくれるだろうと言う安心感があった。だからその走りは自然伸びやかな物となり、強引に飛ばして後半ばてるようなレースをする必要もない。その差がはっきりと出てしまった。
稲田は権太坂で太平洋に追い抜かれてからガクッとペースが落ちてしまい、甲斐学院の留学生・忠門の来生・うちの深野先輩にも抜かれて5位になってしまった。深野先輩も深野先輩で同じように後半止まってしまい区間7位に留まり、戸塚中継所を通過した時点でトップと1分30秒差をつけられてしまった。言うまでもなく先頭は太平洋であり、4区終了時までに2分差をつけるはずが2分差をつけられそうな展開である。
あるいは、この時点でもう勝負は終わっていたのかもしれない。この時点で2位甲斐学院・3位忠門であったが、両校とも戦前の評価はとても高いとは言えなかった。甲斐学院は出雲こそまずまずだったが全日本ではシード権すら取れず、忠門は全日本こそシードを取ったものの去年の太平洋と同じようにアンカーの来生の快走に因る所が大きく、それ以下の層が正直薄かった。層の薄さで言えば甲斐学院もまた然りで、去年復路で2位まで押し上げたランナーの大半は卒業してしまっている。要するに、この両校が現時点で2・3位であった所で今後太平洋を追い詰める可能性は低かったのだ。もちろん柏崎のような選手が突然現れれば話は別だが、そんなうまい話があるはずもない。
案の定、太平洋は3区でさらに後続との差を広げ、甲斐学院と忠門を置き去りにした。そしてその両校と入れ替わりかのように上がって来たのは徳政だ。徳政は区間新に30秒差と迫る快走で区間賞となり、6人抜きで一気に2位まで上がって来た。
天道はと言うと区間3位で総合3位まで上がったが、太平洋との差は1分58秒と開いてしまった。徳政とて前回大会3位出雲2位全日本3位の強豪ではあるが、その徳政にだって柏崎に対抗する方法がある訳ではない。天道や稲田と同じように、柏崎の前にどれだけリードを奪うか、それしか取りようがないのだ。そのリードを奪わねばならない側がリードを奪われていてはお話にならない。
4区、この全区間中唯一20キロを切る短距離区間こそ天道のランナーが持つスピードが生きる、反撃の舞台だ。とにかく1秒でも差を詰めねばならない。4区まで逆転は無理としてもせめて1分差以内でタスキを渡さねば格好がつかない。去年よりはましにせよ、山にもならない内、柏崎が走らない内にこんな差をつけられていては天道の黄金時代は永遠に帰って来ない。なんとかしてくれと祈る事しか僕にはできなかった。
……あにはからんや、ここでも太平洋の強さを見せつけられるとは。
太平洋はこの4区でも順調に歩を進め、区間賞で柏崎へタスキリレー。天道は区間順位2位で徳政を抜いて2位となるもタイム差は更に開いて2分30秒、どうしろって言うのだ。
と言った所で普通に走るしかないのだが、実際この絶望的な状況の中何を考えて走ればいいのだろう。まだ去年はシード権狙いと言うわかりやすい目標めがけて走る事も出来たが、今年はそうも行かない。
いや何を言うまだ5区は始まったばかりじゃないか?そう、確かに5区は始まったばかりだ、けれど柏崎の恐ろしさを改めて実感するのにそんなに時間は要らなかった。
桁の違いと言う物を感じずにいられない走りがそこにあった。大平台の時点で天道との差は既に3分30秒を越えていた。要するにたったそれだけの距離で1分以上天道を突き放した事になる。
かろうじて対抗できる選手がいるとすれば、徳政の関田だろうか。この函嶺洞門の時点で区間2位、既に天道を捕らえていた。けどその関田でさえ大平台の時点で柏崎より38秒遅い。普通ならば関田が山のスペシャリストと呼ばれもてはやされるべきなのだが、柏崎の前ではただの人である。しかし柏崎と言い関田と言い、今は5区にエースを置くのがトレンドなのだろうか。
…にしても天道が映らない。当然1号車は柏崎で、2号車は関田だ。
3号車はと言うと4区時点で11位だった関東基督教が順位を上げている姿を映していた。バイクリポートはと言うと、16位の文学院にへばり付いていた。どうやら函嶺洞門の時点で柏崎、関田に次ぐ区間3位だったらしい。その次が関東基督教であり、天道は更にその下の区間5位だ。結局去年と何にも変わっていない、今年も天道はお客さんだ。
去年は15位で今年は3位だろ、だ?全日本の主役は天道だった、いやこの10年余り学生駅伝の主役は天道だったんだ。その天道が先頭からはるか遠くに置き捨てられて彷徨っている、そんな駅伝を2年も続けるほど屈辱的な事はない。
柏崎のせいだろ?去年も今年も柏崎が走る前に天道は太平洋の背中も見えない位置を走らされているのだ。もはや学生駅伝の王者の座は完全に太平洋に移ってしまったのかもしれない。もちろん個人的にはそんな事など認めたくないが、それを雄弁に示す厳然たる現実が確かにそこに存在しているのだから。
「今、3位の天道大学が箱根湯本を通過して行きます。先頭の太平洋柏崎との差は5分19秒です」
3位の天道ですら5分19秒差、いや2位の徳政ですら既に4分以上の差をつけさせられている。そんな走りをするチームが王者でなければどこが王者と言うのだろうか。天道だってこの段階でこんなに突き放した事はない。確かに天道は王者だった、けどあくまで力が接近して来た近年の王者で、最後には勝つけれど中盤から大差を開ける様な圧倒的な勝ち方をするチームではなかった。
柏崎は去年より更に大きくなっていた。今回は先頭で走る、つまり去年とは全く違う展開で走る事になるのだが果たしてどうなるのかと言う不安があると解説の人は言っていたが、そんなのが杞憂である事は30分で判明した。
去年区間新記録を達成した時に比べ、箱根湯本の時点で1分早くなっていた。ある程度以上のランクに達してから更に上昇する事の厳しさはスポーツに携わる者ならば誰でも知っている、しかしそれを柏崎はやってのけているのだ。そして柏崎は春の時点から僕たちより1、2段階上のステージにいた人間である、僕たちが柏崎と同じステージに登る事さえ気が遠くなるような話だって言うのに、さらにその上へと向かっているだなんて。
この柏崎の走りに僕がどれだけ関与していると言えるのだろうか。柏崎にとってあの全日本の敗戦がどれだけ悔しかったか僕にはわからない。僕らが箱根や出雲で感じた悔しさと同じ質の物ではない事だけは間違いない。僕らの時は惨敗であったがむしろそれ故に途中から諦めがついたが、全日本の太平洋の負け方は惜敗と言うべきそれであり、1人あたまほんの4.5秒早ければ全日本の覇者になっていたのは自分たちであった。0.1秒の差を縮めるのに必死なのが陸上の世界だが、それを加味しても4.5秒と言う時間は余りにも短い。なぜその4.5秒を詰められなかったのかと悔いを残すには十分すぎる差である。
今年の箱根駅伝の予選も9位の下野大学と10位の周旋大学との差は1分37秒、10人で割れば10秒にも満たない差だった。周旋大の悔し涙と下野大学の歓喜、その両者の間にはほんの1分37秒しかないのだ。実はこれでも結構差が大きかった方で、1人あたまどころか全体で11秒差だと言う年まであったぐらいである。いずれにせよ相手との差が少なければ少ないほど負けた悔しさが大きくなる事は覆しようのない事実だ。そしてその悔しさを柏崎、いや太平洋の人間全てが力に換えて天道に挑んで来ているのだ。
もし僕が、全日本で柏崎に逆転されていたらどうなっていただろう?その悔しさを味わうのは太平洋でなく天道となり、箱根こそその悔しさを晴らさんと今の太平洋と同じように奮起したかもしれない。少なくとも太平洋がその悔しさを武器にする事はなかった。タラレバを言い出せばきりがないが、正直この太平洋の快走に一番貢献しているのは僕なのかもしれない。まあ我ながらとんだ誇大妄想だけど。
そうこうしている内に柏崎がゴールに向かっている。
「柏崎は言いました。全日本が終わった後、もう少し自分がしっかりしていればと言う思いが心を締め付け続け、2日間眠れませんでしたと。柏崎は今その悔しさを力に変え、2本の脚を力強く箱根の山に叩き付けています!」
柏崎だって人の子だ、悩んだり苦しんだりすることもあるだろう。しかし、ふと全日本からの自分の行動を鑑みてみるとどうにも浮かれ上がっていたと言う言葉しか出て来ない。(出雲の勝利なんぞ忘れたかのように)敗戦を悔やみ血を吐く思いで練習を重ねてきた柏崎と、自らの手で勝ち取った栄冠に浮かれていた僕。もちろん僕が天道の代表を名乗るなどおこがましいにも程があるが、同じ全日本のアンカー同士、その姿勢の差がこの結果に出てしまっているのだろうか。
そして、柏崎は去年をも上回る区間新記録で走りゴールテープを切り、結局2位の徳政に6分5秒、天道に7分3秒と言う圧倒的な差をつけた。
去年、天道と太平洋の間には往路終了時点で7分37秒の差があった。今年は7分3秒、なんだほんの34秒違うだけじゃないか。
15位と3位と言う違いはあるにせよ、今年も天道が太平洋の前に全く歯が立っていないと言う現実にはまるで変わりはないのである。
「復路優勝と総合2位を狙います。少しでも太平洋との差を詰めなければ終われません」
去年と同様、大木監督のコメントに力は感じられなかった。1年間、箱根の借りを返すために戦ってきたと言うのに、太平洋との力関係はまるで変わっていなかったのだ。それじゃこの1年は一体何だったんだと言う事になってしまう、そんな辛く悔しく悲しい事はない。
それでもこの1年が無駄でない事を示す為にも、復路だけでも太平洋に勝ちたい、その大木監督の思いを受けて、僕は明日走る。
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