3区・伊勢路を駆ける!

「ここで敗れたら天道の名声は本当に過去の物となるぞ!」

 大木監督の言葉は厳しい。箱根、出雲を制した太平洋がこの全日本も取ろうものならば、一年間に行われる学生三大駅伝をすべて制した事になる。となれば、王者の座は天道から太平洋に完全に移ってしまう事になる。

 無論稲田、中心、甲斐学院、徳政と言った他のシード校や日本ジムナス、下総、忠門、関東基督教、任天堂、城東と言った予選通過校にも負ける訳には行かない。当然他地区の学校にも。

 当然の如く、太平洋のアンカーは柏崎だった。

 インカレで見せた二枚は格の違う走り。正直19.7キロの距離を走って勝つためには、2分は欲しい。監督が何とか2分は開かせると言ってくれたこともあるが、実際インカレのハーフで僕と柏崎の間には1分48秒のタイム差があった。ハーフより1.3キロほど距離は短いとは言え、それぐらいは負ける事は覚悟しなければいけない。お前はこの半年で何も成長していないのか?柏崎だって成長しているのだ。

 今の僕にできる事は三つだけ、タスキを受け取る時に備え最後のストレッチに励む事、監督の言葉通り2分差でタスキがやって来る事、そして柏崎の成長が自分の成長を越えていない事を祈る事だけである。


 号砲が鳴った、僕の出番は4時間半後に迫ったのだ。とりあえず僕はイスに腰かけ、テレビモニターに目を向けた。

 流れを掴むべく九州の大学の留学生が開始早々飛び出して来た。出雲でもあった光景であり、別に驚くには値しない。天道を含む他校はその留学生を見ながらほどほどのペースで走っていた。留学生はともかく他のランナーは自分たちより一、二枚は格が落ちる存在、その内逆転できるだろうと言うのが共通認識だった。本当に倒すべきはすぐ近くにいる天道であり太平洋であり稲田であり、先頭の留学生はほぼいない者扱いだった。


 随分な物言いだが、関東の大学全てが同じ認識だった。


 関東以外が弱いのは箱根駅伝のせいだと言う声も絶えない。箱根駅伝走りたさに他地域の有力ランナーが全部関東に行ってしまい、その結果関東ばかりが強くなると言う理屈である。実際、僕は神奈川出身だが久保は北陸出身であり柏崎は東北出身だ。他にも関西や九州を含む各地の強豪高校から関東の大学へと言うルートをたどる学生が余りにも多い。

 しかし実際、箱根が八十回を越える歴史を持っているのに対し全日本はその半分ぐらい、出雲となると平成になってからの開催だ。どうしても関東オンリーのはずの箱根の方が重くなってしまう。大木監督のように箱根を走るために会社を辞める(大木監督の場合は会社勤め自体が箱根へのつなぎだったぐらいだ)人間までいるぐらいであるが、出雲や全日本でそんな話は聞いた事がない。

 果たせるかな。

 結局留学生は最後稲田に捕まったものの1区2位でタスキを渡したが、3~13位は全て関東の大学だった。一応関西の山城産業大が13位の関東基督教とほぼ並んでタスキを渡したものの、順位的に言えばあくまで13位関東基督教、14位山城産業大である。


 もっとも、今の僕に他地区の大学や日本陸上界全体の事まで心配するほどの余裕はない。1区4位とまずまずの位置で持って来てくれた先輩に感謝し、2区以降の仲間たちの奮闘を祈るので精いっぱいだった。

 ところが、それがまずい事になって来た。

 太平洋大の2区の1年生、日村恵一の出来が妙にいいのだ。1区8位からぐんぐん順位を上げ、気が付けば5位になっていた。そして天道にへばり付いた恵一はさらにそのまま前のランナーを抜き、しまいには稲田・天道と共にほぼ先頭でタスキを渡していた。もし僕と柏崎にこんな状況でタスキが渡されたらどうあがいても絶望しかない。万が一柏崎が故障でもすれば勝てるだろうが、そんな事を考えるのがまず間違いだし、そんな勝ち方をしても全く嬉しくない。とにかく、監督の言葉を信じて祈るしかなかった。

 幸い、次の3区の深野先輩が「汚名返上」とばかりの快走を見せ区間新記録で飛ばし、太平洋と稲田に1分以上の差を付けた。そしてこの3区終了時点で、早くも上位12位までが関東勢で占められていた。

 4区では関東基督教の小田と徳政の関田、下総大の藤崎と言う3人のエースが激しく競り合いながら前のランナーを抜き合う光景ばかりが映っていたが、3区中継地点で10~12位であった3校の争いなど天道から見れば下々の争いであり、その3人に次ぐタイムで太平洋を突き放し天道と太平洋の差はこの時点で2分を越えていた。

 よしよし、このまま僕の所へ来い。真っ向勝負で勝てるとは思っていないけど、2分差ならば十分逃げ切れる。僕を信頼してくれた大木監督を僕の手で男にするんだ。そう考えるだけで気分が高揚して来た。

 5区、ここには久保がいる。久保は出雲路と同じように快走し、太平洋との差をさらに広げた。さて具体的な時間は……3分24秒!余裕がでてきた。これだけの差があればさすがの柏崎でも逆転は出来まい。よほどの事がなければ…と驕っていた僕を平常心に戻したのは一発の銃声だった。


「繰り上げスタート!」


 ……毎年の恒例だ。関東の大学の圧倒的な力の前に地方の大学が次々と差を開かれ、時間に間に合わずタスキを繋げない。

 ひどい話、打倒関東とか山城産業や使命館とかいう関西有力校の首脳陣は言っているが、去年はその山城産業や使命舘すら繰り上げを免れるのがやっとだったのである。打倒関東とか言ってもそれはうちや太平洋を倒しての優勝ではなく、いやシード圏内に入り込むどころか、何とか1校でもいいから関東の大学より前に入りたいと言うレベルになっていた。こんな調子では関東の出場枠がさらに増えるのではないかと言う話もあるぐらいで、ますます東高西低化が進行するかもしれない。関西を含む他地方の大学の陸上関係者もこの現状に切歯扼腕しているだろう。

 そう考えると天道と言う名門中の名門で、こうやって陸上を続け優勝争いに絡んでいる自分がとても幸せに思えて来る。余裕なんて言っていられるわけがない、結果的に僕が蹴落とす事になった多くの仲間たちの為にも、タスキをつないで来てくれる仲間たちの為にも、何より大木監督の為にも、僕は柏崎に負ける訳には行かない。


 6区、天道は太平洋との差をほんの少しだけ開いた。そして後ろではさらに多くの学校が繰り上げスタートの波に呑まれ、血と汗のにじんでいない、余りにも味気ない繰り上げタスキをかけさせられていた。これは競争(競走じゃなくて)なんだから仕方がないと言えばそれまで何だろうけど、見る度に心が痛む。


 しかし7区、僕は心を痛める余裕を失った。

 日村祐輔とか言う太平洋の1年生が速い。2区の1年生・日村恵一の双子の弟である日村祐輔、そう言えば出雲路ではこの2人が2・5区で区間賞を取って太平洋が優勝したのだ。その時はまだノーマークだったけど、今度は柏崎だけではない太平洋の大砲として戦前から耳目を集めていた。僕が柏崎しか見えていなかったのが悪いのだが、今さらながら彼ら兄弟の走りに驚かざるを得なかった。一方で天道の先輩は動きが鈍く、中間地点で区間15位、太平洋との差は2分38秒まで詰まっていた。何とか2分差で持って来てもらいたい。僕は体をならしながら必死にその事を祈っていた。


 そしていよいよ来た。先輩の荒い息遣いがこの距離からでも聞こえる。最初から全力で飛ばすしかない、僕にはそれしかできないのだから!


 僕はタスキを受け取って肩にかけるや、さっそく全力で飛ばした。最初の1キロの目標は2分50秒であったが、腕時計が刻んだ現実のタイムは2分51秒半……いける、このペースならばさほど問題はなさそうだ。関東インカレのハーフではキロ平均に直すと3分6秒だったが、練習を重ね現在は3分3秒台まで上がって来ている。これだけのスピードがあれば柏崎からも逃げ切れるはずだ。


 大木監督から声が飛んで来た。太平洋との中継所時点での差は2分10秒だそうだ。

 始まる前だったら何とも微妙だなと弱気にならずにいられない数字だったが、今の僕には何とかなるぞと言う確信を与える数字になっていた。

 根拠?そんな物はない。あえて言えば大木監督の2分は開かせると言う言葉通りの展開になっていたからと言う言葉である。大木監督の信頼、大木監督への信頼を武器に僕は足を前へ進める。逡巡など大木監督が許さないだろうし、逡巡すればその間に柏崎は迫ってくる。恐怖はなかったが、迫って来ていると言う感触はあった。


 5キロの通過は14分9秒。去年の柏崎に比べれば20秒遅いが、これでも十二分なペースである。柏崎だって前が見えないのは辛いだろう。箱根の5区はどうせ先頭ははるか前だしとばかりに無欲の走りができたが、今度はそうは行かない。追う側と逃げる側では基本的に逃げる側が有利である。追う側が有利なのは目標が見えている時であり、2分以上も前にいる、まるで見えない相手を負う事がどれだけ難儀であるかは僕自身がわかっている。柏崎の力ならば意識せずに走っても僕に追い付いては来るだろうが、柏崎とて人間であり内心では焦っているはずだ。

 ……何、柏崎の5キロ通過が13分39秒?何かの間違いじゃないのか、と思ったがどうも本当らしい。去年から比べると10秒速い。10秒分成長したと言えばそれまでの話なのだが、それにしても凄まじいタイムだ。

 でも、僕は一瞬呆然としたもののその後すぐ立ち直る事ができた。明らかに強引なペースで飛ばしている、5キロで30秒も追い上げるなんて無謀だ。実際、今年の箱根で先輩が同じ失敗をやらかして大ブレーキを起こした。いくら柏崎と言えども、そんなに焦って飛ばしては絶対に止まる、いや止まらないにせよ鈍る。この時、内心からもらったなと思った。

 実際、柏崎が10キロを通過した時点で僕と柏崎のタイム差はまだ1分26秒あった。中間地点で44秒しか詰められていないとなれば、計算上では残り9.7キロでもう44秒しか詰められない、つまり逃げ切れるはずだ。そう思うとこれまでの疲労などまるで感じる事なく、飛ばし続ける事ができた。


「太平洋大の柏崎の姿が大きくなってきました!」

 アナウンサーの人の実況が耳に響く。追い上げて来ているのはわかっている、今さら何を聞いても僕は前に進むのをやめない。


「おい、1分切ったぞ!柏崎が迫ってるぞ!」

 大木監督の檄がありがたい。現実がどんなに危機的状況であろうとも、今の僕は楽しくて仕方がなかった。憧れの天道で、憧れの学生駅伝を、憧れの大木監督の声援を受けて走る僕、大木監督を優勝させられる、10年来の夢がここにあったのだ。


 そしてさらに僕の心を高揚させた物があった。残り1キロの看板である。


「まだ40秒ある、逃げ切れるぞ!最後まで走り抜け!」


 途中から残り距離は気にならなくなっていた。確かに足は鈍っていたけど、それでも喜びの方が大きかった。ランナーズハイってこういうのを言うんだろうか、多分違うとは思うけどそれでもいいか。


 そして、僕は逃げ切った。最終的に36秒差まで詰められたけど、僕は柏崎より先にゴールテープを切った。




 ……天道は勝ったのだ!




 大木監督の背中は広くて大きい。その大木監督が僕らの手によって宙に舞っている、こんなに嬉しい事はない。


「大木監督を男にする為に走りました!」


 箱根と違ってインタビューにもはきはきと答える事ができた。最後はやや脚が止まったものの柏崎と甲斐学院の留学生に次ぐ区間3位ならば十二分だし、何より大木監督を優勝させた事、それだけで万々歳だ。




優勝 天道大学 5時間13分17秒

2位 太平洋大学 5時間13分53秒

3位 徳政大学

4位 任天堂大学

5位 関東基督教大学

6位 忠門大学




 しかし、天道と太平洋が優勝争いを繰り広げた一方、去年2位の稲田や前回の箱根で2位になった甲斐学院の名前はシード圏内にない。両校とも4区以降が振るわなかったのが原因だが、それにしても深刻な負け方だ。


 まあ、出雲で惨敗して全日本で勝利を掴み取った天道のように、両校が箱根で上がって来ないと言う保証はどこにもない。

 全日本の敗北は全体の敗北じゃないし、全日本の勝利は全体の勝利じゃない。わずか36秒、1人あたま4.5秒差で敗れた太平洋だって、この敗戦を糧に牙を研いでいるのだ。そして箱根こそ、その牙で天道を含む他校を噛み砕かんとやって来るのだ。


 箱根駅伝まであと2ヶ月、全日本と箱根の2冠となれば出雲が振るわなかったとは言えさすがに今年度の覇者は天道と言う事になるだろう。

 天道を覇者の座に戻す為にも、今度の箱根は優勝、それしかない。




 7区、僕は今回そこを担当する事になった。

 去年、太平洋はその7区で稲田を再逆転しそして突き放して勝利にぐっと近づいた、そういう区間だ。7区は気温差の大きい区間だと言われる。最初は小田原の山から降りてくる風で冷えるが、後半になると太陽が高く上り気温が高くなる。中盤以降細かいアップダウンもあって前半から飛ばすと後半止まる危険性もあるいささか厄介なコースだが、だからこそ面白い。

 ここは大きく1時間3分台を目標にしよう。


「4区までで2分、できれば3分開いて、5区終わった時点で太平洋と2分差に留める。そして7区で逆転するか並ぶか、せめて背中が見えるかぐらいまで持って行く」


 大木監督はマスコミの皆さんにそう声高に宣言していた。そうだ、来年は僕が太平洋大の役をやってやるのだ。

 過信は禁物だが、ある程度根拠の薄い自信は必要だ。強い天道を本当に復活させる為にも、本当の自信を手に入れる為にも。

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