2区・僕の十月

 ……やはり、出雲駅伝のエントリーに僕の名前はなかった。補欠にさえも。


 出雲駅伝は42.6キロ、6区間。単純に6で割れば7.1キロだ。

 その距離に対応できるスピードのない人間が走れる舞台じゃない。実際、部内に僕より5000mのタイムで上回る人間が22人、10000mのタイムで上回る人間が18人いる。スタミナに任せて最初から全速力でかっ飛ばそうとしても、相手がそれ以上に速くちゃ何の意味もない。相手を潰す前に、タスキを渡されてしまう。


 インカレでの柏崎の凄まじいばかりの走りを目の当たりにした僕は、柏崎に負けじとまでは思わないにせよ少しはスピードも身につけなければいけないと思いそちらの練習にも努める事にした。けれど、そんなのはみんなやっている事であり、当然の如く差が詰まるものではない。僕はテレビで出雲駅伝を見る事になった。




優勝 太平洋大学 2時間10分7秒

2位 徳政大学

3位 稲田大学

4位 甲斐学院大学

5位 天道大学 2時間11分59秒




 ……思わず絶句してしまった。

 あんなに速いはずの天道大が5位、しかも去年より50秒近くタイムを落としての。惨敗と言わざるを得ない。

「何が名誉挽回だ、これぞまさしく汚名挽回だ!」

 大木監督はそう選手たちを怒鳴り付けたらしい。箱根の汚名を「返上」するための戦いだったはずのこの出雲が、去年から3つも順位を落としての惨敗ではお話にならない。箱根の汚名を「挽回」してしまったも同然である。

 しかも5位と言っても最終の6区で順位を上げた結果で、5区終了時点ではまだ8位だったのである。アンカーの1年生、久保の走りは素晴らしかったけど………。

 新聞や雑誌の人たちは去年の優勝チームである甲斐学院や箱根の王者である太平洋を差し置いて今年も天道を本命に挙げていた。


「箱根駅伝はまさかの惨敗も、チーム力はやはりナンバーワン。新戦力の久保も可能性を感じさせる走りで、結局勝利への最短距離にいるのは天道か」

「太平洋大は去年箱根を優勝に導いた4年生が大分卒業したのが不安。確かに柏崎は好調とは聞こえているが柏崎1人で勝てるか?」

「甲斐学院の香川監督は去年の優勝は天道他有力校の油断による産物、今年はそううまく行くものではないと語っていた」


 ……とか言っていたのに。下馬評なんて当てにならない物だって事はよくわかっているけど、それにしたって目を覆わずにいられない。

 太平洋の柏崎が1区で、徳政の関田が3区で区間賞を取り合っていかんなくその力を見せ付けたのに対し、天道の深野先輩は1区で区間9位のブレーキ。1区に注ぎ込んだエースがこの有様では、天道に勝ちがあるはずもない。

 それでも、天道は2区以降も参加校中1、2を争うタイムのランナーを並べていた。1区がダメでも2区以降いくらでも挽回するチャンスは残されているはずだった。しかし、いくらやっても順位が上がって来ない。区間6位・7位・9位・7位じゃ当たり前だが、実はこの4人、5000mの持ちタイム順で並べると1位・3位・3位・2位なのだ。

 それがいざ駅伝となるとこの結果、情けないなどと言う次元では済まされない話だ。深野先輩の遅れを取り返そうとして、みんな慌ててしまったのだろうか。外野である僕が言っても、最初から暴走するような僕が言っても詮無い事だけど、一番悪いパターンだ。かつての天道ならば絶対にしなかった失敗、それをやってしまったのだ。大木監督の堪忍袋の緒が切れるのも無理がなかっただろう。


 無論、僕とて天道の部員として責任がない訳ではない。次こそは何とかしなければならない、全日本こそは何とかしなければならない。もちろん、僕が選ばれるのかと言う事については全くの別物であるが。と思っていたら

「伊勢路のアンカーをやってくれ」

 は?何ですって?出雲から帰って来るなり大木監督は僕にとんでもない事を言い出した。

「大丈夫だ、何とかお前までに2分開かせる」

 そして大木監督は僕に有無を言わせなかった。太平洋大のアンカーは、どう考えても柏崎しかいない。僕に柏崎と勝負せよと言うのだろうか。他にいないのだろうか、いや他にいないからこそ僕に頼んだのだろうが、それにしてもな話である。




 立川昭和記念公園。僕はどうしてもそこに行かずにいられなかった。

 去年はあまり真剣に見ていなかった箱根駅伝予選会だけど、今年はそんな事が許されるはずもない。

 不幸中の幸いかギリギリシード権は掴み取ったものの、ディフェンディングチャンピオンであった天道がこの予選会を走らされかかったと言う事実は絶対に消えない。そして、予選会3位から本戦3位、9位ギリギリから本戦7位と言う成績を上げた大学がいると言う事実もだ。今日の勝者が明日は敗者に転落し、そしてその逆もたやすく起こると言う現実を箱根で見せ付けられた僕は改めて勝負の世界の恐ろしさを感じずにいられなくなり、そしてこの目で確かめずにいられなくなった。


 箱根駅伝のシードを持っているのは太平洋、甲斐学院、徳政、稲田、任天堂、城東、関東基督教、中心、相模、そして天道。

 天道に負けた大学は例え11位になった帝国大であろうともこの予選を通過しなければ箱根本戦には出られない。この予選会にピークを合わせ、更に本戦ともなると調整も大変だろう。ましてや天道の場合、出雲駅伝の出場権も持っていた(出雲駅伝では前回大会の3位以上にシード権が与えられる)ため、もしシード権が取れなかったとすると出雲と箱根予選をほぼ連戦で行わねばならなかったのだと考えるとそれだけでぞっとする。


 とにかく、前回シードを失った学校、過去に栄光をつかみながら前回の箱根に顔を出せなかった学校、そして何とか常連校の壁を破ろうとする新進校。

 それぞれの思惑がこの立川の地に複雑に絡み合っているのが、僕にもひしひしと伝わって来た。明暗を分けるのはただ一つ、そこにいるランナーたちの走りのみ。各大学最大12人のランナーの内上位10名までのタイムの合計で、上位9校までが箱根駅伝に出場できる。エースがどれだけ時間を稼ぐかと言う事が重要である事は言うまでもないが、もっと重要なのは10番目にゴールするランナーだ。

 12人の中の10番目なんて、予選会に出られるか否かギリギリのレベルであり、正直それほど期待を受ける選手じゃない。しかし、その10番目のランナーが1秒遅れる度に学校全体が1秒遅れる。ブレーキなどして5分遅れようものなら全体が5分遅れる、致命傷じゃないか。しかもあくまでもゴールが10番目であり、10番目の力量を持ったランナーと言う事ではない。要するに、誰か1人でもブレーキを起こせばそれがチーム全体の足を引っ張る事になる。エースは時間を稼がねばならず、下位の選手はブレーキの穴を埋める為なるべく早く10番目でゴールしなければならなくなる。つまり、いずれにしても穴埋めの為に無理を強いられる事になり、無理が破綻を生む事は自明の理である。

 結局何が言いたいかと言うと、10番目の選手の負担はエースよりずっと重いと言う事だ、肉体的にも精神的にも。そして誰がブレーキを起こさないとも限らない、チーム全員が完璧に仕上がっているかどうかもわからない、ましてやこの予選会の2週間後の全日本大学駅伝の出場権のある学校は尚更だ。全日本に出るランナーはそちらにも照準を合わせねばならないだけに、この予選に出て全日本に出られないランナーの負担は重くならざるを得ない。その負担の重さは察するに余りある。具体的に言えば日本ジムナス大、下総大、忠門大の3校の事だ。僕も含め皆はその3校が1~3位通過だと思ってはいるが、その3校の選手が背負う責任を考えると何が起こってもおかしくはないと言う気になって来る。


 号砲が鳴った。案の定と言うべきか、倭国大と嘱託大の留学生がスタートから飛ばして行く。彼らには時間を稼いで後続のランナーに楽をさせる役目がある。それは留学生だけでなくエースと呼ばれる人間全ての責任なんだろうけれど、それにしても重い役目だ。そして彼らがいかに頑張ろうと、後ろの人間によってフイにされるかもしれない。

 しかしよく考えてみれば、駅伝って言うのもそんな物だ。誰かが言っていた高レベルの戦いで勝敗を分けるのはファインプレーよりミスだという言葉の重みが、見ているだけでぐっとのしかかってくる。自分のペースは守りたい、しかしそれでは他の大学に遅れてしまうかもしれない。でも自分のペースを無視して飛ばせばブレーキを起こしてさらに遅れてしまうと言う馬鹿をやるかもしれない。まさに上から下まで全ランナーがそんな板挟みの状況に陥っているのだ。


 やがて、5キロぐらいになると数百人の大集団の中から徐々にランナーがこぼれ落ち始めた。元々その大集団のゆっくりとしたペースでもきついランナーもいただけに当然と言えば当然だが、その中に嫌な気配を漂わせるユニフォームがあった。

 あの真っ黒なユニフォームは……無双大?前回9区まで8位を走っていた無双大?最終10区の大ブレーキで15位まで落ちたとは言えシード争いをしていた学校のランナーが早くもこぼれ落ち始めた?前回のメンバーを見ても4年生は3人しかいなかったしそれほど力が落ちているようにも見えなかったのだが……無双大さえもこの過酷な予選に呑まれてしまうと言うのだろうか。そう考えるだけで背筋が寒くなって来る、自分や仲間がそうならない保証などどこにもないのだから。駅伝ならばまだもらった順位だのこれまでの流れだの(1区のランナーは別としても)があるのでどういう風に走るべきか判断する事ができるにせよ、この予選は基本的に一人っきりだ。そういう孤立を防ぐ戦法として集団走を取る学校もある。

 もちろん1人2人ならばフォローはいくらでも利く。しかし走っている側からすればそんな事は知る由もないし、仮に知っていたとしても手を抜く事などできない。もし仮にそこで手を抜くような奴ならば、予選会を走る事すら許されなかっただろう。駅伝は集団競技であり、全員の力がなければ勝ち抜く事などできやしないのだから。マラソンの様な個人競技ならば諦めてしまえばいいが、駅伝ではそれは許されない。襷をつないだりゴールした時に倒れ込んだり、僕のように自分の力を越えたオーバーペースで走り途中でフラフラになってしまったりするランナーが多いのはそれが原因である、と言うか実際そうなってしまった身からすれば他に思い当たる節がないのだ。


 そして15キロ地点。テレビ中継車が下総大学のランナーを捕らえていた。


「彼が現在下総大の10番目のランナーです。かなり息が上がっています」


 内心ああやっぱりなと言う気分だった。全日本出場権を持った3校の内どこか、どこか1つが崩れてしまうと言う当たって欲しくない予感がずっとあったのだ。10番目の選手にかかる負担は果てしなく重い。

 何より、この場合本人がその10番目である事を知っている。同じ学校の生徒は並んでスタートするものであり、自然前に行った仲間や後ろに落ちてしまった仲間の事も把握しているはずだ。それだけに自分の学内での順番はよくわかっているはずだ、そして10番目と言う数字が何よりも重かった。そのプレッシャーに彼は苦しめられている。そんな予選会に出られるか否かギリギリのランナーにこの苦境に立ち向かえるような精神力を要求するのは走力を要求する以上に無茶だろう。それでも、下総大のランナーは必死に足を動かし、一刻でも早く自らの体をゴールラインに通過させんとしていた。


 そして、予選の結果が出た。




1位 日本ジムナス大学

2位 忠門大学

3位 帝国大学

4位 維新大学

5位 下総大学

6位 東国文政大学

7位 文学院大学

8位 東京アグリ大学

9位 下野大学




 そこには湘南大の名も、嘱託大の名も、無双大の名もない。具体的に言えば、湘南大が11位、嘱託大が13位、無双大が14位と、3校揃って次点にすらなれなかったのである。日本ジムナス大、下総大、忠門大の3校が予選のトップ争いを繰り広げる事は最初から予想されていたが、下総大がやや崩れたと言うべき結果に終わってしまったのはまだ想定の範囲内かも知れない。

 しかし、湘南・嘱託・無双の3校が(いや1校ぐらいなら予想できた人はいるかもしれないけれど)揃って予選落ちなどと言う事態に陥るとは僕を含め誰一人思っていなかったに違いない。何が起こるか走るまでわからない、そんな手垢で汚れきった言葉の魔力を、改めて思い知らされた気分だった。

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