綾鳥さんは嗜む
いつもいつも、何でこの世界に自分はいるのだろうと不思議でたまらなかった。
湿気が多い朝はいつだって気分は最悪なのに、今日はさほどのことではない。考えていたより気分がいいらしい。
子供の頃だって、こんなに気分がよかったことはなかったと思う。予感はしていたが、自分はとても運がいい。
上京して一年。わたしは東京に足をつけたその日から、たそがれ荘に世話になっている。
瞼を開ければ見慣れた天井、丸い照明。窓から差し込む光で部屋には薄い影がかかっている。漂うカーテンに合わせて、光が伸びたり縮んだり。
窓を閉めても世界は動いているのだろう。
遅れて起きた携帯のアラームで時刻を確認し、重い体を動かした。冷蔵庫の高さに合わせて腰を折り曲げる。
前の住人が残していったものだけど、わたしより背が低かったのだろうか。
面倒に思いながら、水のペットボトルを取り出した。感覚を消すような冷えた液体を流し入れ、体のだるさが和らぐ。また腰を折り、飲みかけのペットボトルをしまった。
上はふわっとしたシャツにしたから、下はスキニーにした。ネックレスはシンプルで長いものが好きだ。首を通すだけでつける手間がない。
悲鳴が聞こえたような気もするが、命の関わるようなものではないと勘が働くので放っておくことにした。何より、興味がない。
階段を降りて、挨拶をしながら食堂に入る。
「おはよう、
「まりりん、おっはよー」
「おはよぉさん。今日もかわええなぁ」
「っす」
「ちょ、こぼれてるこぼれてる!!」
「あ……」
「まりちゃーん、早起きできたんだよー! ほめてー!」
管理人の三津さんを筆頭に見知った顔ばかり。期待外れに心の中だけで肩を落とした。
いつも通りに甘えてくる奴に、はいはい、えらいえらいと笑ってやる。それだけで尻尾をふる犬のように喜ぶのだから、不思議に思うぐらいだ。
今日の朝食はトマトとワカメの味噌汁に、目玉焼き、炊きたてご飯だ。それで、足りない者は納豆なり、冷奴なり、各々で好きなものを食べている。
わたしには十分すぎる量なので、その場で手を合わせた。
隣のとなりあたりから、言葉が飛び出る。
「ねぇ、三津さーん。どうして、味噌汁にトマトをいれるのさー」
「トマトは発酵食品と相性がええやろ。たまには変わり種も面白いかなぁと思って」
意外にいけるやろ、と得意気に三津さんは笑っていた。
正直、食べられれば問題がないので、話には加わらずに味噌汁をすする。味噌の甘さとしょっぱさを、トマトの酸味が引き立てる。
なるほど、こんな味か。
「おはよう、
三津さんの声に瞼を上げた。相も変わらず、音もなく気配もなく現れた男が目に入り、自然と口角が上がる。
一、過干渉しない事? 一、前世の因縁は水に流す事? はっ、笑わせる。
シェアハウスに入居できるのは、妖付きに、呪い持ち、神様のお手付きなど。訳あり、こぶつきの人ならざる者達だ。
巡っても、この世にしがみついているわたし達にその理が完璧に守れる訳がない。
「
一番離れた席に座った彼にわざわざ声をかけた。
感情のとぼしい瞳に迷惑そうな色が宿る。
「特にないです」
ぶっきらぼうな答えに、嗤うことを我慢することができない。
周りの皆は様子見、と言ったところか。視線は感じるが、無闇に首は突っ込まれない。
「ふーん? ねぇ、敬語やめない? 琉生の方が年上だよね?」
「そのうち……で、いいですか」
「そう。楽しみにしてるね」
そろそろ三津さんからお灸を据えられそうなので、そこまでにしておいた。
前世では自分と同い年で男だった者が、今世では年上だったりするなんてよくあることだ。何が面白いって、前の彼も、今の彼も髪型や服装の違いはあれど全く変わらない。しかも、互いにしっかりと記憶を残している。ここまで来たら、執念だ。
昨晩の歓迎会で着物から洋服に変えただけの姿を見て、血が高ぶった。
わたしを見た時の表情なんて傑作だろう。スマホのデータに残したかったぐらいだ。
表情筋が動かないように見せて、目の奥は感情が如実に表れる。変わらない彼に心が沸き立ち、笑みを耐えることができなかった。
思考を目の前に戻せば、彼はすでに手を合わせていた。無意識に食べていた朝食をすべて済ませ、席を立った姿を追いかける。
わたしに気付かずに、玄関の扉は閉められた。
まるで拒絶のようだ。そんなもの、意味がない。
扉を開けた先のスーツ姿が顔だけ振り替える。やっぱり、しかめっ面で面倒くさそうだ。気に入られたことに諦めてしまえばいいのに、懲りずに邪険にして疲れないのか。
その無駄な行為が逆にわたしの気持ちを掻き立てるのを彼はいつ気付くだろう。
「駅まで一緒しよ」
自分でも驚くぐらいの上機嫌な声音で横に並んだ。
不機嫌な顔は何も言わずに前を向く。一緒に行くことを許されたらしい。
だから、お礼にいい事を教えてあげる。
「
わたしの言葉に面白いぐらいに反応して、隣を歩く足が止まった。
清子は前世の彼の妻だ。
丸い目にわたしが映っているが、彼はわたしなんて見ていない。瞳の中の自分に問いかけるように口を動かす。
「会いたい?」
瞳の中では女の姿をしたわたしが嗤っている。
視界の端で、固い拳が握りなおされる。前世なら飛んできただろう。今世はそれがない。
避けた後のあの面白くなさそうな顔が見たいのに。前のお決まりは形にならなかった。
わたしは前の彼に囚われているのだと実感する。
「会いたいって言っても、素直に教えないだろ」
彼は、苦々しげに言った。
もちろん、彼の神経を逆撫でする顔で、機嫌を損ねる言葉を選んで返す。
「そりゃね?」
「おまえの性格は嫌というほど知ってるからな」
「まりちゃん! おはよ!」
はずんだ声と同時にのしかかる重みの正体は、前世の彼の妻にして、今世のわたしの先輩だ。
このタイミングは何かの嫌がらせだろうか。
彼女の名を呼ぼうと口が開くのを見逃さなかった。すばやく言葉をすべりこませる。
「
彼はその場に縫い付けられたように動かなくなった。その瞳にはわたしの隣の人しか映っていない。
本当に先輩が見えているのだろうか。
「また、奪ってみせようか。龍神サマ?」
時を戻したくて、時を動かしたくて、彼に声をかけたのはただの思い付きか、本望だったのか。
それはまだわからない。
たそがれ荘はかくりよにつき、 かこ @kac0
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