リゼットスティアの王妃様
通木遼平
リゼットスティアの王妃様
青い海に浮かぶ島々の一つにリゼットスティアという美しく豊かな国があった。リゼットスティアを治める国王も精霊を見まごうほどに美しいと評判で、朝の日の光のような金色の髪、新緑の瞳は切れ長で知的な雰囲気を湛えていたがいつも浮かべている微笑みがともすれば冷たく見える目元の雰囲気をやわらげていた。背は高く、手足はすらりと伸びていて、姿勢の良さがそれらをいっそう際立てている。
リゼットスティアの女性は皆、一度はこの若く美しい王に恋をするとまで言われていた。
もちろん恋と言っても憧れの延長線にあるもので、本気の恋をするものはめったにいないのだが――国王は目の前の女性に大して笑顔は崩さずに内心で大きく息を吐いた。うっかり本音を漏らすわけにはいかない。何しろ彼女は、隣国の王女なのだから。
リゼットスティアのとなりの島の国の王女であるフィロメナもまた美しいと評判の女性だった。彼女はリゼットスティアの国王をひと目見てみたいと常々思っていたのだが、かの国とは最近やっと同盟が結ばれて国交が開かれることになったところだったので今まで一度も会う機会を得ることができなかった。
もしリゼットスティアとの同盟が以前から結ばれていてかの国との交流があったのなら王妃に選ばれていたのはわたくしだったかもしれないわ。フィロメナは自分に来た釣書の山を退屈そうに眺めながらそんなことを考えていた。
兄である王子がリゼットスティアに赴くことになったのはそんなある日のことだった。フィロメナはその話を聞くとすぐに父である国王に自分もリゼットスティアに行きたいと願い出た。父である国王は娘にはすこぶる甘かったので、兄の妃が妊娠していて船旅は難しかったため代わりのパートナーとしてリゼットスティアに行くことを許可してくれた。
こうしてフィロメナはリゼットスティアにやって来た。兄と、これからこの国に大使として滞在する臣下、護衛や従者、侍女たちと共に。リゼットスティアは噂にたがわぬ美しい国で、街道はよく整備され、緑と花であふれ、石造りの建物が並ぶ王都はまるで絵物語に出てくる王国のようだった。
フィロメナの滞在先は王都に新しく作られた大使館だった。広々としているがどこか温かみのある邸で、庭には泉があり、さわやかな森林の香りがした。兄や、これからここで暮らす大使たちはこの邸をとても気に入ったようだが、フィロメナはすぐに王城へ行けないことが不満だった。この国の国王に会えないのであればなんのためにやって来たのか。兄と大使を説得し、同盟の締結を祝い大使を歓迎するための夜会が開かれる前に兄がリゼットスティアの国王と会う時、フィロメナも同行することになったのだった。
こうして兄である王子と共にやって来たフィロメナに対して、リゼットスティアの国王であるオリヴェルは少し話しただけでかなりうんざりとした気持ちを抱いていた。熱のこもった視線で自分を見つめ、隙あらば二人きりで会うことを望んでいるのだとほのめかす。
オリヴェルは自分の見た目を正しく理解し、国の女性たちが憧れの視線を自分に向けていることを自覚していたが、自惚れることもなければ女性たちへの一定の距離感を忘れることもなかった。
しかしその一方で、オリヴェルの引いた一線を無視して越えようとしてくる女性たちがいることも知っていた。特に身分が高い女性や自分の容姿に自信がある女性ほど執拗にオリヴェルに迫ってくる。今、目の前にいるフィロメナのように。
「あちらの棚にあるのはベカジーグの詩集ではありませんか?」
オリヴェルと兄の王子の話が途切れると、またすかさずフィロメナが話題を振ってきた。兄の王子は妹のふるまいに対してだいぶ表情が強ばり出している。一方、オリヴェルはうんざりとした気持ちをおくびにも出さずにっこりと笑った。
「ええ」
「ベカジーグがお好きなのですか? わたくしもよく読むのです」
「そうですか。以前はあまり詩集など手に取らなかったのですが妻の愛読書なので読むようになったのです」
一緒に読書会を、とでもつづけたかったのだろう。フィロメナが言葉をつづけようと口を開いた瞬間にオリヴェルはすかさずそう言った。フィロメナの口はそのままぽかんと開かれ、信じられないものでも見るようにオリヴェルをまじまじと見つめた。
「仲睦まじい様子でうらやましい限りです」
妹を助けるように兄の王子が言った。
「殿下ももうすぐ子が生まれると聞きましたが」
「不仲とは言いませんが幼い頃から婚約をしていたのですっかり家族なのです。私と妃にはその関係があっているとは思うのですが」
「へ、陛下と王妃様は仲がよろしいのですか?」
我に返ったフィロメナが口を挟んだ。失礼な物言いだが、青ざめた王子に同情してオリヴェルはあえて気づかないフリをした。
フィロメナと彼女の兄である王子の両親は典型的な仮面夫婦だ。昔からお互いに愛人を持っても知らないフリをしているという。国王夫妻であるため公の場では当たり障りのない関係に見せかけているが交流のなかったリゼットスティアの王であるオリヴェルでさえそのことを知っているのだからフィロメナが知らないわけがなかった。
彼女にとって国王夫妻とは両親だ。リゼットスティアの美しい国王が独身ではないことを彼も知っていたがこの国のとある有力な貴族の令嬢で、かなり強引に婚姻に至ったのだと聞いたことがあった。そのためフィロメナはリゼットスティアの王と王妃は自身の両親のような関係なのだろうと信じていた。
「他国ではいろいろと噂をされているようですが」
オリヴェルはにっこりと笑ったまま言った。
「私と妻の関係を心配してくださるなら、その必要はありませんよ。私は妻に夢中ですし、妻ほど美しく、素晴らしい女性はいないと思っています。妻も私を愛してくれています。もちろん、出会いからそうだったわけではありませんが――
私がまだ王太子だった頃、多くの貴族が自分の家の娘を私の妃にすることを望んでいました。この国ではあまり幼い頃に婚約者を決めるということがありません。私の祖父母が若かった頃に政略的な都合で幼い頃から決まっていた婚約が突然解消になったり婚約者がすげ変わったり――そういったことがあって、少々問題になったのです。
王家も他人事ではなく、私の父である先王や私は幼い頃に同年代の令嬢と接する機会は設けても婚約はせず様子を見ながら十代の半ばまで過ごしました。十代の半ばを過ぎるとさすがにそろそろ婚約者を選ぶべきだという話が出ます。
特に私はその頃に父が大きな病気をして……幸い良くはなりましたが、少し後遺症のようなものがあり……いえ、普段は何の問題もないのです。今も元気に過ごしていますよ。しかし当時は弱気だったのでしょう。私にできるだけ早く後を継いで欲しいと口癖のように言っていました。それで、婚約者を選ぶように急かされたのです。
私は両親や重臣たちと相談し、何人か候補者を選定しました。その中の一人が彼女だったのです。
彼女――ツェツィーリアは、候補者の令嬢の中では……正直、パッとしない令嬢でした。他の令嬢たちが自身の容姿に自信を持っているような方々だったから余計にそう思ったのでしょう。今思えば、当時の私は目がおかしかったとしか思えませんが。
もちろん、どの令嬢も見た目だけでなく知性もあり、私の妃として共にこの国を支えていくのに充分な能力を持っていました。私は――私は、その時、実のところ誰が妻になっても同じだと思っていました。最悪、周りが決めてくれればいいと……もちろん、生涯を共にするのですから誰が選ばれても尊敬の気持ちをもって接しようと決めてはいました。
私は彼女たちと一対一で会い、よく話をし、彼女たちがどういう人なのか知ろうと努めました。彼女たちも同じでした。ツェツィーリアを除いては……。
最初に会った時、ツェツィーリアは私にはあまり興味がないようでした。私の方もそこまで彼女に興味を抱けなかったのですが、彼女の方はそれを少しも隠そうとしていなかったのです。自惚れのように思われるかもしれませんが、そんな態度を取る女性に会ったのははじめてで、私は純粋に驚きました。同時に、彼女に少し興味を持ちました。
彼女の家は古くから王家を支えてくれた忠臣で、領地とこの国が穏やかであればいいというような権力とは無縁の家だったのも理由の一つかもしれません。王家に嫁ぐなんて考えもしないような家なのです。候補者に選んでもすぐに辞退しそうな――いえ、辞退することは許していました。実際、そうした家もあります。内々に婚約が決まりそうだったとか万が一妃に選ばれてもその務めを果たせる自信がないとか理由はいろいろですが……。
私は彼女が候補者になることを選んだ理由が知りたいと思い、率直に理由をたずねました。ツェツィーリアは普段からよく領地にある孤児院で読み書きを教える手伝いをしているのだと話しました。これは我が国全土で行われていることですが、金銭的に余裕がない家の子どもでも読み書きくらいはできるように授業料のかかる学校ではなく孤児院や教会で無償で子どもたちに教えているのです。
ところが彼女の話だと、家の事情で自身が働きに出なければならない子どもは、その子こそ読み書きくらいできた方がいいに違いないのに、働く時間が減るからとそういう場には現われないというのです。
そう、彼女が候補者になったのはもし妃になればその問題の解決に乗り出せるのではないかと考えたからだったのです。もちろん、彼女の両親もそのことを了承済みでした。もし選ばれなくても、その話を私にすることで何か対策をとってくれるのではないかと彼女は考えていました。
私は彼女の話に――いえ、彼女自身に興味を持って、その後視察と称して彼女が読み書きを教えている孤児院へと赴きました。
ツェツィーリアは……ツェツィーリアは、私と会った時の興味がなさそうな顔からは想像もできないような温かい笑顔で子どもたちと接し、やさしく読み書きを教えていました。私は彼女から目が離せませんでした。孤児院の日当たりのいい部屋で、子どもたちに囲まれて子どもたちの好きな物語をひとことずつ書き取りさせているツェツィーリアのやさしい声も教わった文字がうまく書けない子の手を取って一緒に書いてあげる時のしぐさも何もかもが愛らしく思え、その瞬間、彼女ほど美しい人はいないと思ったのです。
視察を終えて私は彼女が気づいた問題の解決に取り組むことを約束しました。その結果が騎士学校に新しく作った学科になるのですが――ええ、そうです。騎士学校に通う生徒は見習いとして騎士団に所属し、騎士団での雑務を行って給金をもらうのですがそれを応用したのです。いずれは独立した学校にするつもりですよ。もちろん、視察をご希望でしたら予定を立てましょう。
それで、話を戻しますが――この件の解決を約束すると同時に私はツェツィーリアに私の妃になって欲しいと告げました。ツェツィーリアは……彼女は……「無理です」と……私がこの件の解決を約束した時点で、彼女にとって候補者でいる理由はなくなってしまったのです……しかしあきらめきれず、私はかなり強引に彼女を婚約者とし、婚姻を迫ったのです。
ツェツィーリアは私を嫌う、まではいかなくとも随分とあきれた様子を見せていました。もっとも一度は候補者になった以上、選ばれれば受け入れないといけないとは思っていたようです。無理だと言ったのは、私の申し出がかなり唐突だったせいでついうっかり口を滑らしたのでしょう……結婚してすぐは彼女はどこかよそよそしかったのは事実です。それでも私は常に彼女を愛し、尊重し、誠実に接してきました。
私たちはどちらかというと仕事仲間だったのかもしれません。しかしそうして過ごす内に、彼女も私を大切に想ってくれるようになりました。今では多くの国民が私たちのことを理想の夫婦だと言ってくれています」
***
「またわたしと出会った時の話をしたのでしょう?」
煌びやかな大広間では隣国との同盟を祝い大使を歓迎するための夜会が開かれていた。オリヴェルはいつものようににこやかに客人たちをもてなした。もちろん、その傍らには王妃であるツェツィーリアがいる。隣国の客人をリゼットスティアの貴族や重臣たちに紹介し、外務大臣が彼らをもてなしている間に国王夫妻はのどを潤しひと息ついていたところだった。
隣国の王子と王女の兄妹と対面した際、妹王女であるフィロメナの視線が射殺すように自分に突き刺さったのにツェツィーリアはすぐに気がついた。最近ではほとんどなかったが、となりに立つ夫と婚約した当初はよくこういう視線にさらされていたなと彼女は懐かしく思った。
フィロメナが彼女の兄と共にオリヴェルと会い、そこでオリヴェルにアプローチをしたことはツェツィーリアの耳にも当然入っていた。オリヴェルが相手をしなかったことも……しかし射殺すような視線の直前、フィロメナが一瞬だが確実に驚いたのを見た時、ツェツィーリアは正確にオリヴェルがどういう対応をしたのかを察した。
「話したらダメなのかい?」
「何度も話すようなことではないと思いますが」
「私は何度でも話したいことだよ」
ツェツィーリアは持っていた扇子で口元を隠し、やれやれとため息をついた。途端に、オリヴェルが不安そうにツェツィーリアに視線を向けた。
「怒らないで」
「わたしは怒ってはいません。フィロメナ王女殿下は怒っていらっしゃるでしょうが……」
「彼女が怒っていようが私たちには関係のないことだよ」
「同盟を結んだばかりなのですよ?」
「無礼な態度を取ったのは彼女の方だよ。王子殿下はよくわかっているようだったから問題にはならない」
「王子殿下も騙されたと感じていらっしゃるかもしれませんよ。わたしを見て驚いていらっしゃいましたから」
ツェツィーリアは自分の夫が自分のことをまるで絶世の美女のように語るのをたびたび耳にしていたが、実際のところ彼女自身は自分の容姿がごく平凡なものだと思っていた。ほとんど黒に近いこげ茶色の髪、灰色の瞳、背はあまり高くなく、体質なのか肉がつかないので痩せっぽっちだ。家族は昔からツェツィーリアをかわいいかわいいと言ってくれたが、彼女は幼い頃からそれが身内のひいき目なのだとよく理解していた。
オリヴェルは目が悪いのではないかと何度も思ったが、それを彼の前で言うと大げさなくらいの褒め言葉が返ってきて恥ずかしい思いをするだけなので今は口にすることはない。オリヴェルが心からそう思ってくれているのはわかるが、その言葉を素直に受け入れられるかは別問題だ。
「大げさだな」
オリヴェルはやさしく微笑んだ。フィロメナはずっと兄の王子と共にいる。時折オリヴェルの方に視線を向けているが、兄の王子がそれに気づくとすぐに注意をしていた。
「……もしこの同盟がもっと早くに結ばれていたら、陛下の元にはフィロメナ王女殿下が嫁いでいたのでしょうか? 同盟をより強固なものにするために」
兄に注意されたフィロメナの睨むような視線を受けながらツェツィーリアはぽつりとこぼした。
「もし私が独身で、君と出会う前だったとしても、彼女とは絶対に結婚しない」
オリヴェルはきっぱりとそう言った。
「増して君と出会った後だったら君以外の女性なんて考えられない――ツェツィーリア、どうしてそんなもしもの話をするんだい?」
「……そうでなくてよかったと思っただけです」
ぽそりとツェツィーリアのこぼした言葉にオリヴェルは目を丸くして、それからすぐに頬を緩ませた。
「ツェツィーリアがそんな風に思ってくれるなんて……出会ったばかりの頃の私に話しても信じてもらえないだろうな」
「あら? どうしてです?」
夫をちらりと見上げた彼女の頬はバラ色に染まっている。
「リゼットスティアの女性はみんな、一度は陛下に恋をすると言われているのに」
「だけど出会った頃の君は私に興味なんてなかっただろう?」
「わたしだってリゼットスティアの女性ですよ、オリヴェル様」
もしここが夜会の会場ではなかったら、すぐにツェツィーリアを抱きしめてキスをしていただろう。
会話を打ち切るためか、ツェツィーリアは休憩は終わりだと言わんばかりに立ち上がった。オリヴェルもそれにつづき、彼女をエスコートするために腕を差し出した。いつものことだというのに、今までにないくらい彼は幸福に満ちていた。初夜の前にツェツィーリアが照れ隠しにツンとしながら「嫌いではない」と言ってくれた時以上の幸福だ。どこかあきれたような彼女の視線でさえ、オリヴェルは笑顔になれた。
青い海に浮かぶ島々の一つにリゼットスティアという美しく豊かな国があった。リゼットスティアを治める国王も精霊を見まごうほどに美しいと評判で、リゼットスティアの女性はもちろん近隣の国の女性も皆、一度はこの若く美しい王に恋をするとまで言われていた。
しかし国王はこの世でただ一人、王妃だけをこよなく愛していた。王妃もまた国王を心から大切に想っていた。二人はお互いを慈しみ、尊重し、リゼットスティアをより発展させていったのだった。
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