第3話

夜がやってきた。一日中歩き回ったせいか、足が棒のようだ。日頃、いかに運動していないかが分かる。もう一歩も歩けない。歩きたくない。道の端に寄って、腰をおろす。家に帰りたい。母がいて、父がいて、姉がいる、幸福を絵に描いたような家族のもとに。でも、もう大事な一ピースがかけてしまった。それはどこを探したって見つからない。戻ってこない。夜になると、そんなことばかり考えてしまう。一人だからなおさらかもしれない。寂しくて涙が出そうになる。今日は寝よう。このまま起きていたって、姉が恋しくなるだけだ。フラフラと立ち上がって、今晩の寝床を探す。この村を一周するまでは、家に帰れない決まりだ。近くの公園に行こう。


足を踏み入れてすぐのベンチに横になる。どっと押し寄せてくる眠気に、抗うことなく目を閉じた。


「……いいぞ、そのまま入れろ」

「おい、押すなよ。腹にでも刺さったらやべーんだから」


どのくらい、時が経ったのだろう。ぼそぼそと聞こえてくる、人の話し声で目が覚めた。状況を理解するより先に、何かが棺の底を打つ音に意識が引き戻される。と同時に弾かれたように立ち上がった。背負っていた棺を胸元に持ってきて、中を確認する。視界に映る花たちを掻き分けて、あってはならないものを探す。


「なんだなんだ? 必死になっちゃって」

「気をつけろよ、坊ちゃん。手に刺さったら危ないぜ」


男たちの下卑た笑い声を聞いた瞬間、カッと頭に血がのぼった。コイツら、入れたんだ。姉の棺に不必要なものを。怒りで唇が震える。とにかくコイツらを傷つけてやりたくて、拳を振り上げる。馬鹿な真似をしてくれた。姉にこんなものを向けるなんて。


「な、なんだよ。ちょっとした冗談だろ? 悪かったって」

「そうそう。んなことでキレるなよ。な、兄弟」


引きつった笑みを浮かべて、へこへこと媚びる男たち。許すわけがない。たとえ神が許しても、僕だけは絶対に許さない。酷い目に遭わせてやる。激しい憎しみに導かれるまま、ヤツらめがけて走り出す。他のものは何一つ見えない。恐怖で歪む男たちの顔が、徐々に近づいてくる。その頬を殴って、鼻の骨をへし折って、この拳が汚い血と涙で染まるまでやめない。


「地獄に落ちろ、クズ!」


精一杯の罵りと共に、拳を突き出す。当たった。そう確信したのも束の間、目の前にあった男の顔が消えた。代わりに僕の拳がとらえたのは、硬い板のようなものだった。暗くてよく見えない。なんだ?


「ふぅ、危なかった。おじさんたち、今の内に消えてくれる?」


クズたちを庇ったのは少年だった。背丈は僕と同じくらい。まだ幼さの滲む声で、冷たく言い放つ。


「次はないよ。この子が殴る前に、俺がやっちゃうかも」

「わ、分かった。おい、行くぞ」

「待てよ、置いていくなって!」


逃げ帰るクズ二人の姿は滑稽で、相手にしていたのが馬鹿らしく感じるほどだった。僕が思わず笑うと、少年の高い笑い声が重なった。


「おっと、そうだ」


しばらくして、思い出したように少年が手を叩く。


「ちょっと失礼。棺、見せてね」

「うん、いいけど」


抱えていた姉の棺を、少年が開ける。何の遠慮もなく、ぶしつけに入れられた手がなぜだか嬉しかった。


「当たり前だけど、底まで届かないね。俺、手は長い方なんだけど」

「ひっくり返す?」

「君が許してくれるなら。君と、亡くなった人がね」


他の人に頼まれていたら、問答無用で断っていただろう。だけど、姉の棺を優しく撫でる少年を見ていると、彼ならいいかと思えてくる。


「いいよ。きっと、姉さんもいいって言ってくれる」

「ありがとう。花が地面に落ちないように、ベンチの上でやろうか」


二人で並んで移動する。切れかけの公園灯は頼りなくて、少年が持ってきていた懐中電灯を使う。


「僕はこんな顔です」


突然、彼がおどけてみせる。下から照らされた顔は、想像よりずっと大人っぽかった。思わず問いかける。


「……年上?」

「十四。どう、上?」

「同じだ」

「どれ、顔を見せなさい」


ぐいっと押しつけられた光を、彼を倣って下から当てる。


「はは、幼いねえ、君」

「からかうなよ」

「ごめんごめん」


ちっとも悪いと思ってなさそうに謝りながら、少年は懐中電灯を僕の手から取る。改めてベンチを照らすと、表面を覆っていた砂を軽く払う。


「準備完了。ひっくり返してくれる?」


指示に従って、棺を逆さまにする。上部から花が、音もなくベンチを彩る。途中で降ってきたナイフは、見なかったことにした。憎しみの象徴であるこれは、姉に向けられていいものじゃない。


「きれいだね」


ぽつりと少年が呟く。そのたった一言に、姉の全てが詰まっている気がして、僕は返事ができなかった。ただうなずいて、花を見つめる。きれいだって、姉さん。嬉しいね。


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