反省の弁

「気になる人ができた。だから、別れてほしい」


残業終わってようやく帰った我が家。そこで待ってたのは、スーツケースを脇に真剣な面持ちをした恋人のシンだった。


「…はいっ?」


青天の霹靂。一緒に暮らして8年、交際期間は10年。一体なんの冗談であろうか。そう思いたい。しかし、シンのこの表情。


「ごめん。家具とか家電とか、全部置いてくし」


怖いくらいに真剣な表情をしたシンに、俺は待ったをかける。


「い、いやいや。待って待って。何でそんな急に」


普通だったじゃん。昨日シンのほうが遅く帰ってきたのに、今朝も朝ご飯作ってくれたじゃん。

あれ?そういや最近、シンって帰りが遅い日が増えたよな。あれ?


「ごめん、本当にごめん」


棒立ちになってる俺の横をすり抜け、スーツケースと共にシンは出て行った。

バタン、という玄関ドアが閉まる音を聞いてしばらくは何も考えられずにぼうっと立ち尽くす。


そして思い出す。じわじわだんだん思い出す。


10年前。付き合うとき、シンは言った。

『付き合ってくれてありがとう。俺、これからずっとものっすごい尽くすよ』


8年前。大学を卒業して一緒に暮らし始めるとき、シンは言った。

『お前のために、居心地のいい家にするよ』


…は?

10年前や8年前のセリフに責任取れとは言わないが、話し合いもせずに出ていくとはナニゴトだ。覚えてろよこの野郎。

俺を男同士の世界に引きずり込んでおいて、何勝手に出てってんだ。これで本当に終わりだってか?俺たちの10年、これで終わり?


感情のまま、持ったままだったカバンを床にたたきつける。


くそっ。


シンの気配が無くなった部屋。

そこで俺は唇を噛んだ。


大学卒業までは実家暮らし、そのあとはシンと二人で暮らしてた。

今夜から初めての一人暮らしだ。

家事は分担だったけど、朝が弱い俺のために朝ご飯係はずっとシンだった。

そのシンはもういない。今さっき、いなくなった。自分で何でもしなければ。


悲しいやら悔しいやら腹が立つやら。そんな気持ちでその日は一睡もできなかった。



そうして、シンが出てってから一か月。

シンのいない生活にも慣れてきた。平気平気。大丈夫。

そう自負していたのだが。会社の昼休み、仲の良い同僚や後輩とメシを食ってるときに指摘された。


「思ってたんだけど、彼女さんと別れた?」


俺が男と付き合ってたことは誰にも言ってない。そして、彼女ではないけど彼氏、彼氏と別れたことも誰にも言ってない。俺のしょっぱい表情を見て、同僚が溜め息をついた。


「その顔は図星か」


「なぜバレた?」


そう問うと、同僚ではなく今度は後輩がニヤリと笑った。


「ハンカチ、アイロンかかってないです」


さらに別の同僚が追撃。


「朝、デスクで栄養補給ゼリー飲むようになった。家で朝ご飯を食べてないだろ」


そして別の同僚によってとどめを刺された。


「あとは…。なんか、雰囲気。前はもっと生命力ある生き生きとした感じだったけど…。今は、こきたない?だらしない?覇気がない?そんな雰囲気。あ、なんか言いすぎちゃった?ごめんごめん」


「…まじか」


家に帰ったあと。部屋を見渡して、同僚や後輩の言葉の意味が分かった気がした。

掃除が疎かになった部屋。洗濯して干したらそのまま。畳んでタンスに入れることはせず、ハンガーにかけて乾いたらそれを着る。

洗濯するならまだいい。この前、コーヒーこぼしたシャツがまだ洗濯カゴの中だ。

自分のために料理することが面倒で、インスタント食品かコンビニ弁当に頼る食生活。


…くそっ。シンがいなくなったからって、俺は何をしてんだ。シンがいなくても、俺はひとりでちゃんと生活できるんだから。



そうして、さらに三ヶ月経った頃。

定時に会社を出ることができたので、スーパーに寄って買い物をした。冷蔵庫の中にキャベツが残ってたから、今日は野菜炒め。コンビニに頼るのは週2回までと自分に強く約束をし、自分のために自炊をする生活。


俺ってやればできる子なんだな。

そんなこと考えて家に帰り、何気なくケータイを見てみると。新着メッセージ。


別れて初めて、シンからのメッセージだった。


『久しぶり。悪いけど、忘れ物を取りに行ってもいい?』


別れた日の、あの悔しくて腹が立った感情は今はない。シンがいなくても、部屋は片付いてる。シンがいなくたって平気なんだって顔ができる。だから、普通に顔を合わせられる…気がする。


『いいよ。いつでもどーぞ』


短く返信。

明日にでも来るかもしれないな。ボンヤリとそんなこと思いながら、料理をし、たいしてうまくもない野菜炒めを食べているとインターホンが鳴った。


今日来たのか?そんなに急いで取りに来なきゃいけない物?


「おー。いらっしゃい。どうぞ」


数か月ぶりに見るシン。ちょっと痩せただろうか。でもイケメンぶりが相変わらず。

『気になる人』とはうまくいったのかよ。よーよー。

って軽く聞いてやろうかと思ったが、聞けなかった。俺はそこまで強くない。


「おじゃまします」


ここがシンの家でもあったのに。『おじゃまします』なんて変な感じだ。玄関閉めて、俺はまたテーブルにつく。テーブルの上の野菜炒めを見て、シンは呟いた。


「ちゃんと自炊してるんだな」


意外そうにそう言うから、俺もちょっとだけ強がる。


「まあな。自分で自分の世話しなきゃいけないからな」


尽くしてくれる相手はもういない。自分のことは自分でしなきゃいけないんだ。


シンはそれに対しては何も返事せず、寝室のドアを開けた。

シンのことを気にしないように、テレビの音量を上げて俺は食事を再開。バラエティ番組ではタレントが爆笑してるけど、俺の頭の中には何も入ってこない。

気にしないようにすればするほど、シンが気になって仕方ない。


野菜炒めは、途中から何の味もしなくなった。


食べ終わったあと、食器を流しに運ぶために立ち上がった。そのまま自然な流れで寝室へ。


「忘れ物、あった?」


ひょいと覗き込むと、シンの手にはシャツ。コーヒーの染みがついたシャツ。


「ああ、それ。コーヒーこぼしちゃったんだ。洗っても落ちなくて」


シンは俺の声にビックリしたように手を震わせ、丁寧に畳みなおしてクローゼットにしまった。


「…汚れたなら捨てればいいのに」


「そうだね。そう言われればそうだ」


けど。捨てられなかった。シンが買ってくれたもの。

俺がヘンテコでダサいファッションをしないように、シンのセンスで選んでくれた服。洗っても落ちない染みを見るまで、そのことを忘れていた。


一歩二歩。シンから距離を取って、ベッドに腰を下ろした。


「なんかさ。今言うことじゃないけど。シンがいなくなって、俺は俺のアホさ加減に気が付いたよ」


無言の背中に話を続ける。


「シンが出てったあと、一か月くらいしてから。会社で言われたんだ。『こきたない、覇気がない雰囲気になった』って」


あの時はショックだった。

生活力が無いと言われてるようで、そして。


「俺の雰囲気、マトモな生活をしてるマトモな人間の雰囲気って、シンのおかげだったんだな」


俺があるのは、シンのおかげだったんだ。


「シンは俺の尽くしてくれてた。おいしい料理を作ってくれたことも、センスのいい服を選んでくれたことも」


なんでそれを、当たり前だと思ってたんだろう。いや、当たり前すぎて『当たり前』だとさえ思ってなかった。何も考えてなかった。


「家事は半々のつもりだったけど、それは違った。シンがいなくなって何か月かして、いくつか気付いた。俺はちゃんと掃除したつもりだったのに、部屋の隅にホコリがたまってたり、洗面台の鏡が曇ってたり。…靴下に穴が開いてたり」


思い出して、自分に苦笑い。


「俺の適当な掃除で行き届かなかったとこ、シンがカバーしてくれてたんだって気付いた。新しい靴下も、シンが買っててくれたんだよな。もしかしてまだ気付いてないこともあるかもしれない。シンがやっててくれたこと」


自分の間抜けさに気付いて、俺は愕然とした。毎日毎日、一緒に暮らして8年。俺は何をしてたんだろう。


「見えるとこでも見えないとこでも、シンは俺に尽くしてくれてたんだ。そんで、思ったんだ。シンが俺を大事にしてくれてたのと同じくらい、俺はシンのことを大事にしてたかなって。10年前、シンから告白されて、結構強引に付き合い始めただろ?それにあぐらをかいてた」


言いたいことを一方的に言ったら、なんだかスッキリ。

ふはっと笑って、最後締める。


「…っていう反省の弁だ。すまんな、今更変なこと聞かせて」


シンは『気になる人』とうまくいったんだろうか。

そうだったらいい。悔しさもあるけど、不幸になるよりはよっぽどいい。落ち着いて忘れ物を探せるように、俺は寝室から出るべく立ち上がった。


しかし。

シンの背中、震えていた。その背中に釘付けになっていると、か細い声でシンは謝罪の言葉を口にした。


「ごめん、忘れ物なんかしてない。お前がどうしてるのか気になって…忘れ物したって嘘ついた」


シンは俺に向き直る。ぽたりぽたりと、シンの目から涙がこぼれる。


「本当に、あの時。気になる人ができたってのは本心で。別れると決めたのも真剣に考えたことなんだ」


シンは両手で顔を覆い、大きく涙を拭った。


「俺、大学生の頃。お前と付き合う前は結構チャラい感じだっただろ?派手に夜遊びして、騒がしい店に行って」


思い出す、大学生の頃。

シンは派手でキラキラした連中のリーダーで、俺は苦手意識を持っていた。


「お前はそういうの好きじゃないから、だから俺は全部止めた。お前と付き合えるなら、それでよかった」


そう。俺と付き合い始めて、シンは落ち着いた。派手に遊ぶことを止めて、穏やかに過ごすようになった。


「だけどさ。そんな風に、この10年過ごしてきたけど。別れる何か月か前、仕事関係で知り合った人と…。夜中まで遊んだり、有名人も来るっていう店で飲んだりして。お前と付き合う前の、昔の自分を思い出して楽しかった。非日常を楽しんでた」


シンは薄く笑った。その笑いは、深い後悔を感じさせるような笑みで。可哀想でもあり、怖くもあった。


「もう俺たちいい年になって。このまま年を取るだけって思うと、怖くなった。料理して洗濯して会社行って帰ってきて。スーパー行って風呂掃除して。クタクタになって夜寝る。そんな毎日が怖くなった。だから、楽しいほうを、ワクワクできるほうを選んだ」


シンの告白に、俺は胸が痛くなった。

『気になる人ができた』と言われ、俺よりももっといい人が現れたんだろう。そう考えただけだ。だけど、シンが俺との生活を、これからの生活を怖いと思ってたなんて。


「そっか」


あー。いかん。なんて言えばいいか分からない。

泣くなよ。俺は気にしてないから。ウソだけど。気にしてるけど。


言葉を探して、しばらくの沈黙。その沈黙を破ったのは、シンだった。


「ごめん。何もかも、全部ごめん。俺、お前とやり直したい。お前と離れて冷静になった。お前といる日常が、何より大事だったはずなのに」


床に頭をこすりつけるようにして俺に許しを請うシン。そんな姿は見たくない。


よいせと立ち上がり、シンの傍に座る。頭を撫でる。背中も撫でる。


「…シン。俺は。俺はバカだから感謝の気持ちを忘れてしまうかもしれない。その時は、怒ってくれ。めちゃくちゃ怒ってくれ。そんでさ、夜中の遊び、俺も連れてってくれ。馴染めないかもしれないけど、シンが楽しいって思うなら俺も楽しんでみたいよ」


そう告げると、シンは俺の腰に抱き着いてわあわあ泣き出した。


「ほら、もう。今どこに住んでんの?実家?今から荷物取りに行くぞ」


これからはもっとシンを大事にできる。大切なことに離れて気付いた。だけど、もう二度と離れてなるものか。

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