カノンと木と心中

十坂真黑

カノンと大木と心中

 その日、カノンは『心中』をしようと心に決めていた。学校が終わり、家に帰ると今日のおやつを母親に訊く間も無くランドセルを放り投げ、スケッチブックと鉛筆だけを持って公園へ走る。


  公園に着くと寂れた遊具には目もくれず、園内にただ一つしかないベンチを占領した。そこは、カノンの特等席だった。

 カノンは時間まで暇を潰すことにした。持ってきたスケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。喉が渇いたら水道の蛇口をひねり、生温い水を飲む。それ以外の時間、カノンはずっと木を見つめていた。

公園のシンボルとして町のみんなから愛される、枝が二つに分かれた大木だ。天まで届くとも言われるほど大きく、枝には深緑の葉っぱが生い茂っている。

 見えない枝の先にはどんな果物が実るのだろう、とカノンはずっと思っていた。


「ほう、よくかけとる」


  日がたっぷりと暮れてきた頃。

 カノンのスケッチブックの中に出来上がった大木に陰を作ったのは、近所に住むロクおじさんだった。


「えへへ。ぼく、この木毎日描いてるから」

カノンは振り返り、照れ臭そうに笑った。ロクおじさんの豊かな白ひげが、愉快そうに揺れている。

しかし、不意にロクおじさんのひげが悲しそうに風になびいた。


「残念じゃのう、この木がもう見れなくなるとは」


 ロクおじさんの言葉に、現実の木だけでなく、スケッチブックの中の木までもがしゅんと萎れたようだった。

 カノンが生まれるずっと前からこの街を見守ってきたあの木が、伐採されてしまうのが明日なのだ。カノンには、明日からの大木がない町の風景が想像できなかった。それはきっと、ロクおじさんや他の大人たちにとっても同じことだろう。


「ねえロクおじさん、ぼく、あの木と心中するんだ」


カノンは、スケッチブックをぎゅっと抱きしめながら言った。大切な秘密を打ち明けた時のように、カノンの心臓は今にも破裂しそうだった。それは、カノンのとっておきの覚悟だったからだ。

ロクおじさんはしばらく黙ったあと、


「ふむう」


と、長いひげに指を添える。ぼくの言葉を真剣に受け止めてくれた証拠だ、とカノンは思った。


「カノン。お前があの木を大切に思っていることは、よく知っている。だがな、心中なんて簡単に言っていけない言葉なんだよ 」


カノンは首を傾げた。


「『心中』って、心の中にある、つまり何かをずっと忘れないってことなんじゃないの?」


「それはそうなんだがね……」


ロクおじさんはますます困ったように、長い白ひげをひびだらけの指先で摘んだ。


「本当の心中というのは、自分だけでなく周りのみんなを傷つける、悪いことなんだ。だがお前の考える心中は、それとは違うのかもしれない」


やがて心を決めたように、ロクおじさんは、


「カノン、お前が思う心中をしてみなさい」


カノンは顔を上げ、「うん!」と元気よく頷いた。


ロクおじさんが去ったあと、カノンは大木の表面に耳を当て、じっと木の声に耳をすませた。

  明日には死んでしまう大木に、ぼくができることはなんだろう? 

 カノンはカノンが思う心中のために、大木の心を知ろうとした。しかし、待てども待てども大木の声は聞こえてこない。

カノンは大木の声が聞こえるまで待とうと、大木にもたれかかった。大木の荒い表面がカノンの柔い頰をさする。


「君は、ぼくにどうしてもらったら嬉しいの?」


  陽が落ち始め、オレンジ色の光がカノンの顔を照らし始めた時、カノンは大木に問い掛けた。


 とくんとくん。木の表面に押し当てた耳から、脈打つ音が聞こえてきた。初めは自分の心臓音かと思ったが、それはカノンの心臓よりもゆっくりと音を刻んでいる。

カノンは驚いて大木から耳を離した。するととたんの、先程までの脈打つ音はきれいに消えた。


「やっぱり生きているんだ!」


カノンは小さな手のひらで木の肌を優しく撫でた。


「大木さん。ぼくは君のために心中がしたいんだ」


とたん、ひび割れた木の表面がほのかに熱を持った気がした。カノンは嬉しくなって、さらに問い掛けた。


「教えてよ。ぼくはどうすればいいの」


大木の幹がぶるり、と揺れる。

何かを言いたげな様子の大木は、もどかしそうに枝を揺らし、舞い落ちた葉っぱがカノンの鼻の頭に載った。

カノンは微笑んで、


「分かったよ。大木さん、ぼく、大木さんがしてほしいことがわかるまで、ずっとそばにいるよ」


 カノンはその場に腰を下ろし、大木の幹に寄りかかった。

それから時間が経ち、空にたくさんの星が散りばめられた頃。カノンは大木の根を枕にして、夢の中にいた。カノンは大木の夢を見ていた。

夢の中での大木は、カノンの想像よりもおしゃべりだった。


「カノン、僕は悔しくてたまらない」


「どうしたの、大木さん?」


「だって、僕はずっとこの町を見守ってきたんだ。君が生まれるずっと前から」


「うん」


「なのに、なぜ僕が殺されなくてはならないのだろう」


夢の中でカノンは、何も言えず俯いた。


「ねえカノン、お願いだよ。僕を殺さないでほしい」


風もないのにさわさわと枝が揺れた。


「君は僕のことが好きなんだろう?」


  何も言えないまま、カノンは夢から覚めた。


 いつのまにか朝になっていた。目覚めたカノンは、自分がどこにいるのか丸でわからなかった。小鳥のさえずりと、暖かな太陽の熱で、カノンは自分が今、外にいるのだと思い出した。


顔を上げる。そこにはやはり、荒れた木肌の大木がいた。朝の香りをまとった大木は、いつもとは違うように見えた。


「大木さん、大木さんは……」


カノンは手のひらでそっと大木に触れる。大木はもう死んでしまったかのように、熱を持たなかった。

大きな大きな大木は、風もないのにさわそわと揺れ、じーっとカノンのことを見下ろしていた。

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カノンと木と心中 十坂真黑 @marakon

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